第3話
———数十分か、数時間か。
幾らかの時間が経過して、黒名はその本を一通り読み終えた。
専門的な固有名詞なのか、知らない単語もいくつかあったが、大体の構想を理解することはできた。
要約すると、この世界は擬似的に創られた世界であり、本当の世界は別に存在している。
この世界は人々が生きる『第二の世界』として創られた模造品に過ぎない、といった内容が記されていた。
一般的な知識を全否定するに限らず、世界の存在意義すらも軽視しているようなこの説は、著作された当時も大きな批判を呼んだ。
しかしそれでも残されているのは、この説を信じた物好きがいたのか。
———それは、この古書店の店主も同じなのだろうか。
そんなことを考えていると、ふと未だ此処の店主はおろか従業員にも会ったことがないことを思い出した。
唯一会った人といえば黒髪の青年だが、彼とは話したことがない。
忙しい人なのだろうか。しかし、なら一体誰がこの店を管理しているのか。
…あの青年なら、何かを知っているだろうか。
彼なら、私の知らないことを知っているかもしれない。そう思った黒名は、今まで話しかけることのなかった彼に、聞いてみることにした。
とはいえ、どうしたものかと頭を悩ませる。
今日まで、黒名が見ている限りで彼が本を読んでいる以外の姿を見たことがない。
更にいうと、彼が黒名の存在を認識しているかすら怪しい。気づいているのなら、何かしら反応があってもいい筈だが、その素振りもない。
無意識的に互いの干渉を避けていたことが仇となり、完全に話しかけるタイミングを失ってしまっていた。
どうしたものか。
本を片手に頭を悩ませていると、店内の静寂が音を立てて遮られた。
「———その本、貴方も読んだんですか」
静寂を遮ったのは、若い男の声だった。
そしてそれに該当する声の主を、黒名は一人、知っている。
見上げた先にいたのは、白銀の髪の、あの青年だった。
「突然声をかけられて、驚きましたか」
表情を動かすことなく、彼は言った。
只、何か思い悩んでいるように見えたので、と彼は言った。
どうやら黒名が葛藤していたのは既に知られてしまっていたようで「そうだったんですね…」と頬を赤らめながら言葉を返した。
その言葉には恥じらいと、少しの安堵があった。
実を言うと、話しかけることに対してかなりの抵抗が彼女にはあった。
只それは、決して彼のことが話す前から苦手という訳ではなく、ただ純粋に、他人に声をかけるということが難しいという話だ。
「それで、何か悩みでもあったのですか?」
彼は黒名が落ち着いた頃を見計らうと、柔らかな声で尋ねてきた。その声には無駄なものがなく、透き通っているように黒名に届く。
初めて聞くその声に引き込まれつつ、
「いえ、貴方にどうやって話しかけようかなと悩んでいただけです」
そう答えた。しかしその後すぐ「決して下心があった訳ではないですよ」と付け加えた。
分かっていますよ、と彼は答えた。
「数日前から、貴方が読書に没頭していたのは知っています。」
と彼は答えた。
「数日前…ということは、私の存在は認識していたんですね」
全く反応がないから、一切気づいていないものかと。そう言うと、彼は否定の言葉を話した。
「知ってはいましたよ。只、他人に干渉されることが好きではないようなので」
彼女は驚いた。数少ない友人でさえ気が付かないその気持ちを、あっさりと彼は見破った。そしてその上で、今日は話しかけてくれた。
「ありがとうございます」と彼女が言うと、「いえ」と彼も返してくれた。
そこで彼は、互いの名をまだ聞いていなかったことに気づいた、というより、思い出したという方が近いだろうか。
「私は十六夜と言います」
彼は十六夜と名乗った。月のような白銀の髪に似合う、美しい名前だと黒名は素直に思った。
『十六夜』とは十五夜の次の日。その中には『躊躇う』という意味も含まれているが、そこは彼の印象とは少し違うと感じる。
「十六夜さん、ですね。私は黒名です」
続いて黒名も名乗る。
お見合いのような、そんな会話をした後、ぎこちなくも二人は一歩距離を縮めた。
かくして、古書店を介しての二人の関係は始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます