第4章 サンフランシスコ

 州道1号線をそのまま走ると、市街地を通り過ぎて、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)を渡る。州道はそのまままっすぐ行くが、右に別れる道があり、すぐ北東にあるサービス・エリアに入る。自動車をそこに止める。

 月曜日のお昼前で、時刻はちょうど十一時十五分になるところである。駐車場は半分くらいが埋まっている。村上次郎と本田佑司はそこから湾にむかって歩き、腰の高さのコンクリート囲いに寄りつく。

 そこから南を見ると、橋を正面右側に、中央にサンフランシスコ市街地、さらに左奥には同市の高層ビル群が見える絶好の場所である。高さも橋の自動車が走る面とほぼ同じで、サービス・エリアの前は崖で急に低くなってサンフランシスコ湾に落ち、その向こうには内海が広がっている。

 左奥の彼方のほうにはサンフランシスコ市からオークランド市へと渡るベイ・ブリッジが見え、その手前には映画などでよく知られたアルカトラス島がある。よく晴れた真夏の昼間であり、名物の霧はまったく出ていない。

 一キロ余りのゴールデン・ゲート海峡に、その当時、世界一と言われた吊り橋(主スパン一二八〇メートル、高さは海面から塔の上まで二三〇メートル、片側三車線)が架けられたのは一九三三年一月から三七年四月で、開通は五月二七日である。時期から言って、グレート・デプレッション(一九二九年九月から十月にかけて始まった「大恐慌」)に対する方策だったのかも知れないが、カリフォルニア州議会で架橋のための法案が可決されたのは、その前年の二八年だったという。

 その建設には十一人が犠牲になったというが、橋の規模や架かった場所の点から言って、あまり多くない。ところがその後、ここは自殺の名所として知られるようになる。橋から落ちて海面に届くまで四秒ほどかかり、その時の速度は時速一二〇キロにもなるというから、ほとんど助からないのである。

 ゴールデン・ゲート・ブリッジは他にはあまり見られない赤である。正式にはインターナショナル・オレンジだというが、オレンジ色というより赤色に近いように見える。次郎は橋を見ながら言う。

「ゴールデン・ゲートというから、黄金というか金色だと思っていたんだけど。」

「赤い。」

「しかし立派だね。」

「橋が作られた時代を反映して、アールデコだ。」

「あまりそれを感じさせないけど。」

「風に弱いだろうと思ったが、風のため封鎖されたのは一度だけだそうだ。」

 封鎖されたのは一九五一年だけというが、その後、二度ばかり(一九八二年と八三年)通行が止められている。いずれも風速が時速百十キロを超えている。ということは、風速が時速百キロくらいでは通れるということか。

 だけど、横から時速百キロを超える風を受けたら、自動車を運転する者はどう感じるだろうか。もっとも、ずっと横風を受けるなら、つまり風が弱くなったり強くなったりしないのであれば、大丈夫なのかもしれない。今日は凪いで、風もほとんどない。

 これまで佑司は二度ほどゴールデン・ゲート・ブリッジを渡っている。いずれもサンフランシスコを訪問してサクラメントに帰るときである。一度は冬季になろうとする時期で霧が出て、まわりがほとんど見えなかった。もう一度は今年の夏で今日のようによく晴れわたった日である。

 それから二人は視線を転じて、左のほうにあるアルカトラス島を見る。この島は五一一メートルX一八〇メートルという小さいもので、アルカトラスとはスペイン古語で「ペリカン」を意味するらしい。「マニフェスト・デステニー(自明の運命)」という考えで有名なジョン・C・フリーモントが合衆国のために購入したというが、代金は結局、合衆国からフリーモントに支払われなかったという。

 フリーモントはメキシコ戦争(一八四六〜四八年)当時の合衆国軍のカリフォルニアにおける指揮者の一人だったし、選挙で敗れはしたが、一八五六年に共和党が出した最初の大統領候補である。

 アルカトラス島は南北戦争の直前に砦として完成し、現在ゴールデン・ゲート・ブリッジ南側の下にあるポイント砦などとともに、北軍の支配下にあった。島は次第に砦としてよりも、戦争の捕虜収容所としての役割を果たすようになる。それはサンフランシスコの岸から二キロ離れ、海流の関係から、逃げるのが難しいからだと言われる。

 一九〇六年のサンフランシスコ大地震のときには、捕虜でなく、ふつうの囚人が移されてきた。結局、三三年十月に合衆国政府の刑務所局に移管されることになる。

 一九三四年八月、アルカトラス島は合衆国刑務所として再出発する。他の刑務所で悶着を起こすなどの、問題の多い囚人を収容するようになったのである。たとえば、シカゴ・マフィアのアル・カポネが収容されていたことが知られている。刑務所として使われた二十九年間で、無事逃げおおせた者はいないと言われる。

 しかし、他の刑務所に比べて三倍以上の運営経費がかかり、また半世紀にわたる塩害がひどくなってきたため、一九六三年三月二一日、ロバート・F・ケネディ司法長官は閉鎖を命じる。

 その当時、下水を処理せずそのまま湾に流していたのだが、環境について心配する人や抗議する人が増えてきたのも、この変化を後押ししたという。

 また、六九年十一月二十日〜七一年六月十一日、ネイティブ・アメリカン(インディアン)のグループが、閉鎖されていた施設を占拠した事件もあった。その後、観光客を入場させることが始まるまで島は一般には閉ざされていた。二人が見た一九七九年のころ、アルカトラス島は無人で誰も住んでいなかったし、定期的に島に渡る人もいなかったのである。

「あそこから逃げて、泳いで渡るなんて、無理だね。」

「湾にはサメがいると言うし。」

「脱走するのは不可能だというわけだ。」

 さらに左の、北東の方角を見ると、エンジェル島が視界に入ってくる。日本人にはあまり知られていないがこの島は、ニューヨーク市のそばにあるエリス島がヨーロッパ人に果した役割を、アジア人とくに中国人に対して行っていたという。つまり入国管理の場所である。当時、審査された者は主に、中国、日本、インド、メキシコ、そしてフィリピンからの人たちだった。

 日本からの移民は一九〇七年の「紳士協定」でほとんどなくなり、二四年の移民法で移民できなくなった。中国人の移民も同年の法律でできなくなったはずであるが、その後も続いていたようである。

 もっとも一八八二年の中国人排斥法があり、労働者の移民はもっと前からできなくなっていた。エンジェル島における移民管理は一九一〇年に施設ができ、それが四〇年に火事で燃えて、サンフランシスコ市内に移されるまで続いた。

 とにかく、東洋人に対する差別はひどかった。入国できなかったのはエリス島で一〜三%というが、エンジェル島では十八%にもなったという。そして「審査」にかかった時間は、長い者で二十二ヶ月。その間、エンジェル島の施設に入れられ、場合によっては出発地へ帰らされたのである。

「大学の授業で、この島のことを知った。」

「エリス島のことは知ってたが、この島のことを聞いたのは初めてだね。」

「大陸の西側ではアジア系とチカノが多かった。」

「それで、昔は差別されていたんだ。」

「カリフォルニア州では一九五〇年代まで、東洋人は白人と結婚することさえできなかった。」

「太平洋戦争で日系人が収容所へ入れられたというのも、単純にそれだけではなかったんだね。」

「そうだね・・・。S・I・ハヤカワって知ってる?」

「ハヤカワ? 聞いたことがあるような・・・、ハリウッドの映画スター?」

「それはセッシュウ・ハヤカワ。」

「あ、そうか。で、誰?」

「カリフォルニア州選出の上院議員。」

「あ〜、そうそう、聞いたことがある。」

「カナダ出身で、奥さんは白人だって。」

「へ〜。」

 第二次世界大戦のとき、ハヤカワはシカゴで教えていたという。その後、サンフランシスコ州立大学の学長(一九六八〜七三年)になる。名前を知られたのは、学生運動が盛んだったとき、それに負けずにがんばったことであろう。あるとき、屋外の学生集会で抗議車の拡声器のコードを引き抜いたという。

 その後、カリフォルニア州の選挙で選ばれて、一九七七年一月から八三年一月まで一期、合衆国の上院議員をつとめた。学長のときの行動が、この時期の共和党の保守的な人たちの支持を集める。それが選挙に勝ってカリフォルニア選出の上院議員に選ばれることになった、ひとつの理由であろう。

 二人は湾を見終わって、駐車した自動車に向かって歩く。そして名前を持ち出した理由を佑司は言う。

「ハヤカワは今、ハワイ州の日系人二人とともに上院議員だけど、あまり日系という感じがしない。」

「二世と言っても、いろいろいるからね。」

 第二次大戦のとき西海岸にいなかったため、ハヤカワは日系人収容所に入れられていない。上院議員だったとき、収容所に入れられた日系人に合衆国政府が補償することに賛成ではなかったという。日系人収容についてはその後、ハヤカワが上院議員をやめた後の一九八八年に補償法ができている。収容所に入れられた合衆国の日系人のすべてが補償されたのである。


 それから二人は自動車をまわして、ゴールデン・ゲート・ブリッジにのって市に向かって戻っていく。橋を渡りきってすぐのところにトール(料金)ゲートがある。橋を『下って』マリン郡に行くときは無料だが、『上って』サンフランシスコに乗り入れるときは有料である。もっとも乗客があって乗っているのが三人以上の場合はカーシエアリングということで無料である。

 そして、トールゲートを過ぎた、すぐそばで右折し、ぐるっとまわって橋へ行く道の下をくぐる。今度は湾の内側の縁に沿って北に走り、橋のすぐ下の「ポイント砦」の南に出る。

 やがて赤レンガ造りの四角い三階建てのポイント砦の建物が見えてくる。上から見ると長方形ではなく、東には出っ張った部分があるが、横から見ると四角に見える。前の駐車場に自動車を止めて、南側にある入り口に行く。

 中に入ってみると、四角い建物の中央には屋根がなく、空が見える。まわりが廊下というか各階の内側に通路が巡っている。部屋はその外である。

 ポイント砦は現在、軍事的にはまったく使われていない。だから、砦内をまわってもアメリカ軍の軍人はいないのである。ここは一九七〇年十月十六日、リチャード・ニクソン大統領が法律に署名し、アメリカ合衆国の国立史跡となっている。

 部屋は南北戦争のころの将校のものや、棚のようになった兵士のものが展示されている。屋上に昇ると、砲台の台座が建物の上をずっと巡っている。海峡に向かって十数台、海の方角にもサンフランシスコ市の方向にもそれぞれ七、八台ずつが設置されている。もちろん砲台の跡だけで大砲はもう置いていない。また南側には砲台はなかったようだ。建物のまっすぐ上をゴールデン・ゲート・ブリッジが通っている。その橋台がすぐそばにある。

 カリフォルニアがメキシコ戦争の結果、合衆国の一員になったのは、グアダループ=ヒダルゴ条約が結ばれた一八四八年である。州に格上げされたのがその二年後の五〇年で、州昇格があまりに早かったので「一八五○年の妥協」と呼ばれている。

 砦は南北戦争の前に急いで作られたようである。南北戦争が始まったのが六一年だから時間的にあまり余裕がない。カリフォルニア州は南北戦争では北軍(合衆国軍)の支配下にあり、南軍の攻撃は受けなかったようである。結局、ポイント砦の大砲は戦争のために発射されることはなかった。

「今、砦は使われていないようだね。」

「南北戦争のころは大砲に意味があったのだろうけど、現在はどうだろうか?」

「飛行機もあるし、ミサイルもある。」

「だから今は、海峡の砦などあまり意味がないのかも知れない。」

 戦闘には使われなかったが、アルカトラス島とともに、南北戦争のころ、砦は捕虜収容所として使われたらしい。

 合衆国陸軍の土地はサンフランシスコ市北部の海岸にある、第二次世界大戦中に太平洋戦線に兵士を送り出したメイソン基地や、ゴールデン・ゲート・ブリッジの南に広がるプレシディオ基地など、サンフランシスコには至る所にある。

 しかし、軍隊の基地ということに慣れていない日本人は気がつかないのかも知れない。もっとも一九七六年にメイソン基地、九四年十月にはプレシディオ基地は合衆国陸軍の手を離れ、現在そこに軍隊はいないようである。

 二人はまた元のゴールデン・ゲート・ブリッジのトールゲートの先に戻り、南に走って今度は合衆国道一〇一号線に入る。州道1号線はすぐ南に行くが、この合衆国道は東の方向に向かう。

 やがてパレス・オブ・ファイン・アーツと呼ばれる「パナマ太平洋国際博覧会(一九一五)」の跡地に立つ建物を左に見る。このあたりはリチャードソン・アベニューだが、すぐに東行きのロンバード街に入る。これは合衆国道だが両側に商店やホテルなどが続き、信号のある普通の街中の道路で、専用のフリーウェイではない。

 そのまま街中の道として東の方向に伸びる。ヴァンネス・アベニューとの交差点で合衆国道は九十度右行きになり南に行くが、佑司たちの自動車はロンバード街をまっすぐ東へと進む。

 信号がない四方向一時停止の道を三街区走ると、ハイド街との交差点に出る。それまでは昇りであるが、ここはひとつの頂点で、正面の東側と左の北側がよく見える。またケーブルカーが左右に、つまり南北に走っている。

 交差点に南北と西から行くのが一時停止で、信号がない。いったん止まって東にゆっくり進む。右に行くのはまだ昇りだが、左側は湾のほうに急に下って行く。その先に小さな島があり、その向こうに島が重なって見える。

「左に、湾がよく見える。」

「まっすぐ北に行けばアルカトラス島だ。その向こうはたぶん、エンジェル島だね。」

 目を転じて東方を見ると、ほぼ正面に「コイト・タワー」が見える。これはコンクリート製の灯台のような丸形の塔(高さ六十四メートル)で、一九三三年にできた。まっすぐ行ったところの一〜二街区ほど南にある。

 道路はまっすぐ東のほうに伸びている。この道路を下って行っても橋には出ないのだが、正面の奥に、ずっと下がって橋の横面が見える。橋はコイト・タワーの向こう側から、正面に見える小島にいったん向かっている。手前の吊り橋の上部は見えるが、その下は建物があるせいで見えない。小島の向こうにその続きの、吊り橋の上のほうだけが見える。

「正面に大きな橋がある。あれは?」

「ベイ・ブリッジだね。オークランドに行っている。」

 そして、ここの交差点は南北と西から来ると一時停止であるが、その東行きが変わっている。ここから一方通行で、しかも一台ずつ通るだけの幅しかない——ロンバード街の下りである。

 道路は狭い上に左右に曲がっていて急勾配を下って行く。右に左に大きく曲がり、一街区の間に左右に八度ばかりうねって曲がる。その右側から四度、左側から四度の「出っ張り」には花が植えられている。この時は真夏だが、アジサイがピンクの花をつけている。そして観光客は歩いて外側の階段を下る。というか、急勾配なので登る人は少ないようだ。

 一九二〇年代に地主が直線の坂道に危険を感じて、こんな坂道に作りなおした。今ではサンフランシスコの最も美しい光景の一つと言われているという。

「これでは、ゆっくり行くしかない。」

 次郎はそんな決まりきったことを言う。降りきったところも信号がない四方向の一時停止で、その後の道はまた相互通行に変わる。三街区ほど信号がない一時停止なので注意しなくければならないが、そのまま走り、コロンブス・アベニューに至る。

 コロンブス・アベニューでまた交通信号があり、その道路の手前側にはケーブルカーのレールが横切っている。つまり坂上でケーブルカーを降り、ゆっくり下ってここまで四街区を歩けば、またケーブルカーに乗れる。コロンブス・アベニューは南東の方向に走っていて、ケーブルカーはすぐ南に向かい、それから右に折れてメイソン街を走る。

 この辺りの街の道路のほとんどは東西と南北に通っているが、斜めの道のコロンブス・アベニューは北西から南東方向に抜けて、北のフィッシャマンズワーフから、南のトランスアメリカ・ピラミッド(一九七二年完成)と呼ばれる、三角形の超高層まで向かっている。その斜めのコロンブス・アベニューを南東に、ワシントン広場という公園まで走り、そこの交差点で少し斜めに右折してパウエル街という道路を南に行く。

 四街区ほどでブロードウェイとの交差点に着く。ここが「チャイナタウン」の北西の角である。つまり、北アメリカの中華街でいちばん大きい「サンフランシスコ中華街」というわけである。

 午後一時半に近く、昼食の時間を過ぎようとしている。朝食をしっかり食べたが、とにかく時間が時間である。道路右側のパーキング・メーターが空いていて、そこにすばやく自動車を止める。メーターに一時間ばかりの小銭を入れ、そこから戻った交差点にある「カンポウ・キッチン」という食堂に入った。


 中に入ってみると中国系らしい客が多く、白人はあまりいない。高級でなく、広い店でもなかった。「レストラン」といわず「キッチン」と呼ぶ理由が分かるような気がする。

 こんな時刻でも混んでいて空きがなかったが、男性が一人で座っている窓ぎわのテーブルがあり、そこに次郎と佑司は案内される。相席というわけだが、昼食時であり、それがこのキッチンの通常のやり方なのだろう。

 男性はTシャツを着ていて短髪で、ちょっと恰幅が良く、体格が立派である。だが、おとなしそうな人物で、年齢は佑司たちとちょうど同じくらいである。細かく刻まれた野菜とチキン、それにチョウフン(幅のある麺)を混ぜて炒めたものを食事中だったが、ちょっと頭を下げる。下げたように見えたというのが正しいのかもしれない。次郎と佑司も頭を下げながら、男性の向かいに並んで座る。

 席に座るとウェイターが『まくしたてる』ようにしゃべったが、何を言っているのかさっぱり分からない。そういう経験はたくさんしているので少しも驚かない。英語で言ってメニューを貰うが、広東料理のようである。

 あまり時間をかけないでメニューを見て、結局バーベキュー・ポークの載ったライスと、揚げたチキンが上に置かれた麺(チョウメン)を選ぶ。飲み物は注文せず、プラスチックのコップに入った水でがまんする。注文した二つで合計十ドルに届かないという安さである。もちろん、税金を併せて支払わなくてはならないし、チップも必要である。

「座れて良かった。」

 佑司はまわりを見回しながら、さっそく水を少し飲んでコップを置く。そのとき前に座った男性が英語で言った。まったく想像していなかったが、あまりなまりもなくスムーズに話す。中国人はふつう大声で話すが、この男性はとくに大きい声でなく普通の声で言う。

「中国系でないね。日本人?」

 突然言われて、次郎も佑司も相手の男性に注目する。佑司は思わず言う。

「そうです。日本からの学生です。」

 男性は箸をおき、右手を出して向かいに座った次郎と握手し、次に左の佑司に差し出す。

「私はチョウ、チョウ・シャオフウ。日本語でシュウ(周)。」

「本田佑司です。こちらは村上次郎。」

「私は広東省出身。ここは故郷の料理で、たまに来るんです。」

「英語がうまいですが、アメリカで教育を受けたのですか?」

「四年半前に合衆国に来ました。それからは勉強ひとすじです。」

「日本語でシュウと言いましたが・・・。」

「大学の友人に、日本からの留学生が何人かいます。」

 なるほど、そういうわけか。

「勉強ひとすじ?」

「最初の授業料は仲間の中国人に助けられました。今は成績優秀ということで免除です。」

「大学ですよね。」

「心理学を専攻してます。」

「えっ、私は社会心理学です。」

 アメリカで心理学はこのころ大学の専攻として学生の人気があったし、今も専攻する人が多いようである。社会心理学というのはあまり多くなく、心理学と言えば実験心理学が中心であり、そのころも盛んであった臨床心理学は大学院に行ってからである。

 実験心理学のひとつに動物を使った「学習」分野がある。ラット(ネズミの一種)はその動物の代表のように使われている。実験心理学では感覚・知覚を研究する場合にはヒトを対象にするが、その他の分野では一般に、ヒトは実験心理学ではあまり対象になっていないようである。

 最近になって「認知心理学」が研究されるようになり、それにはヒトが研究対象になっていることが多くなった。でも認知心理学が影響力を持つのは、この時から二十年ほどたった二〇世紀も終わりのころからである。

 学問として、社会心理学は実験心理学と同じように古い。こちらも実験を行なうが、多くの場合「複数の」人間を対象にしている。だから社会心理学である。社会学にも社会心理学と呼ばれる分野があるが、こちらは実験を使うことが少ない――調査が主である。つまり、心理学サイドの社会心理学では実験群・統制群といった実験が中心になっている。

 心理学サイドの社会心理学も後続の認知心理学の影響を受けているが、社会心理学は最初から人間の「認知」を対象にしていたとも言える。そういうわけで、ラットなどの動物を対象にした実験心理学では、人間という複雑なもの・社会的なものを理解できないのではないか、と社会心理学では考えているという。

「あ、そう・・・。私は九月からバークレーの大学院です。」

「私は来月からコロンビア大学。知ってると思いますが、ニューヨーク市にあります。」

「大学院ですか?」

「そうです。え〜と、こちらは英語教育です。コロンビアの教育学大学院。」

 二人の会話を黙って聞いていた次郎はうなずく。

「じゃあ二人は、来月から同じ大学だね。」

「そうです。日本で同じ英語学校へ行ったのです。」

 そのとき、ウェイターが料理を持って現れた。さっき注文をとったばかりなのに、すごく早い。

「食べてください。私のほうは、もう少しで終わります。」

 次郎と佑司は言われたままに食事を始める。それぞれの皿にチキンとポークを取って食べる。あまり繊細なものではないが、味はしっかりしていて量がある。

 二人はひとしきり食べていたが、佑司は食事が終わってお茶を飲んでいるチョウのTシャツに注意が引かれた。プラスチックの箸を持ったまま、食事の合間に声をかける。

「そのTシャツ、変わってますね。」

 チョウはちょっと下を見て、すぐ笑顔になった。

「このTシャツは貰いました。同じのをもうひとつ持っています。」

 そのTシャツには、向かって右のほうに透明な瓶が、左のほうにグラスが描かれ、下には『私は「ワーム」を食べた』と書かれている。

「大学近くのバーで貰ったんです。」

 そこに描かれていたのはテキーラの四角い瓶である。『私は「ワーム」を食べた』の下にそのテキーラの名前があったが、テーブルに隠れている。テキーラはメキシコ・オアハカ州で作られた「メスカル酒」の一種である。メスカル酒とはメキシコ特産蒸留酒の総称で、テキーラは青いリュウゼツランを原料として醸造・蒸留される。合衆国で売られるものは、最低でも三十五%のアルコールを含有しているという。このあいだ篠田隆がメキシコ料理店で飲んでいた、フローズン・マルガリータの主原料である。

「テキーラに入ってた『ワーム』を食べたのです。」

「ワーム?」

「幼虫のことです。成長すると『さなぎ』になり、蛾に変わるらしい。」

「それが、テキーラに?」

「そうです。幼虫はイモムシで、小指の太さほど。それが瓶に入ってます。」

 もちろん死んでいるのだが、そんなイモムシが入っているテキーラは多くない。入れられているのはリュウゼツランにつく「ハイポタ・アガプス」の幼虫で、カイコと同じく毛がない。リュウゼツランにつくので、テキーラと同じ「材料」でできていると言ってもよい。それは特定のテキーラを合衆国で売るための「ギミック(仕掛け)」に違いない。

「それを食べた?」

「そうです。」

「でもイモムシって、気持ち悪くないですか?」

「全然。いつでも食べられます。」

「そういうの食うって人、多くないんじゃないかな。」

「だから、Tシャツをもらいました。」

 中国系だから、と佑司は思ったのだろうが、チョウは微笑みながら言う。

「中国系だから、ではありません。前にもそう言われましたが。」

 そう言ったのは日本人留学生に違いない。そのころには次郎も食事が終わり、興味深そうにチョウを見つめている。

「中国では『文化大革命』がありました。」

 それは一九六六から七六年にかけて十年ほどである。

「私は六八年に下放され、広東省の山中に行かされました。父親が地方の共産党幹部だったせいでしょうか。」

 都会の高校生・大学生がたくさん下放され地方に行った。そんな一人だったのだろう。

「田舎に行かされたのですが、食べ物もなく悲惨でした。雑草を根っこまで食べたし、飢え死にした仲間もいました。そのころは現地の人たちも、食べるものがあまりなかったのです。今は少し太っているけど、当時はガリガリに痩せていました。とにかく、なんとか生き延びました。」

 そんな状況は国外では分からない。日本では文化大革命は「きれいごと」のように語られるが、当事者として、そんなことではすまなかったということだろう。

「両親は殺されたようです。とにかく戻ったとき、いなかった。」

 チョウは何でもないようにそう言った。小さい声ではなく、普通の大きさで話している。次郎も佑司もそういう体験はしていないので、チョウの話に引きつけられる。

「結局、香港に流れ、そのままアメリカに来ました。」

 難民と同じで、合衆国に到着したのである。

「それが一九七五年の春。だから四年半前です。」

「それから?」

「公立短大に入り、カリフォルニア大学に編入しました。」

「すごい体験ですね。」

「いやあ、中国にいたとき、サソリでもヘビでも、動くものは何でも食べました。」

「中国人は四つ足なら、机・椅子は別として、何でも食べる。」

 冗談っぽく佑司は言う。チョウは笑顔を見せながら言った。

「ジョークでなく、ほんとに何でもです。泥水もすすりました。生きるためです。」

「だから、テキーラに入っている幼虫なんか、何でもない。」

「そうです、きれいなもんです。」

 そう言いながら、Tシャツがよく見えるようにする。

「とにかく、文化大革命でそういう経験をしました。中国のことは思い出したくない。もう二度と戻ることはありません――ここで生きて行きます。」

 初対面の二人にそんな決意を述べる。次郎も佑司もウェイターが出した小さな茶碗でお茶を飲み、チョウの話を聞いている。同じ年くらいの中国系青年の身の上話は興味深い。

 そのとき、チョウは腕時計を見ながら言った。

「これから大学へ行きます。ラットの世話をしないと。」

 世話をするのは実験を行なう研究者であるが、合衆国の場合も、院生や学生がエサをやったり、ケージ(金網でできた飼育箱)の掃除をしたりする。もちろん実験を設定して、遂行したりするのも彼らの役目である。論文を書き上げるのは教授であるが。

「バークレーではラットを使った研究をやってます。大学院に入るからには、私も自分の研究をしなくては。」

「研究、がんばってください。」

「今まで市内に住んでたのですが、バークレーに移る予定です。」

「私も次はニューヨーク市ですが、まだ住所は決まっていません。」

「大学院に入ってからですね、決まるのは。学会か何かで、会いましょう。」

 そう言うと、さっと席を立って、入り口で支払いを済ませ、出て行った。あまりのあっけなさに少しびっくりするくらいである。

「同じ心理学を学ぶ大学院生というわけ。」

 チョウの話に少し感動したようで、次郎はそう言った。佑司も次郎もチョウの話のような厳しい経験はしていない。佑司は「チョウ・シャオフウ」と紙ナプキンにローマ字で書き、日付・時間をつけ、それをポケットにしまう。何かの役に立つかもしれない。

 そして二人は支払いをして表に出た。サンフランシスコはあいかわらず天気がよく、二人はサングラスをかける。そしてパウエル街はキッチンに入る前と同じで、通行量が多いのである。


 佑司と次郎はパウエル街右側に駐車していた自動車に戻って乗り込み、そのまま南に走る。その道路を行くと、ジャクソン街との交差点でケーブルカーのレールが右側から入ってくる。

 次のワシントン街では右に行くレールと来るレールがあって、そのまま南のほうへ走っている。さらに行くと、カリフォルニア街との交差点では、ケーブルカーの二路線が直角に交わっている。

「ケーブルカーというのは、直角に交差しても大丈夫なんだ。」

「すごい発明だね。」

 ケーブルカーが道路下の「ケーブル」で走っているということを知っている日本人はあまり多くないのかも知れない。地下で動いているケーブルを『掴んで』走るのである。止まる時はケーブルを放し、運転士は足ですばやくブレーキをかける。

 ブレーキはそれだけではない。第二のブレーキは木でできていて、「道路を掴んで」止まる。このブレーキはほんの二〜三日しか使えず、絶えず交換しているという。第三のブレーキは緊急用で、電車の下にある。運転士がケーブルカーを急いで止めるとき鉄製ブレーキを引くが、復旧のためには溶接バーナーで焼き切ることもあるという。地下ケーブルは一定のスピード(時速十五・三キロメートル)でまわり、したがってケーブルカーもそのスピードで走る。

 やがて自動車はダウンタウンに入り、パウエル街の右側の向こうにホテル、その向かいに公園がある交差点に出た。ポスト街との交差点で、この道路は東行きの一方通行である。

 佑司は二人の乗った自動車を左折させ、東へとポスト街に出て、今度は右に公園を見る。 一街区の全体が公園になっているようである。

「この公園は?」

「えーと、ここは『ユニオン・スクエア』だね。以前に来たことがある。」

 たくさん観光客がいて、サングラスをかけた人が多い。夏の月曜日午後三時少し前で、雲もなく日差しがきつい。ただサンフランシスコは内陸部より暑くないのかも知れない。

 次の交差点を過ぎ、その次でグラント・アベニューに左折して北に進む。ここは一方通行ではなく普通の道路で、ブッシュ街まで二街区である。

 ブッシュ街から北は、またチャイナタウンである。そこまでは普通の道路だが、グラント・アベニューはそこから向こう行きの一方通行である。入り口には中華風の「門」が立っている。屋根が中央と左右の三カ所についていて、中央の下を一車線だけが向こうに行っている。その上には「天下為公」という額が懸かっており、地図のうえには「ドラゴンズ・ゲイト(龍の門)」と書かれている。一九七〇年に建てられたという。

 中国人は一八二〇年代、すでに合衆国に渡航し、四八年にカリフォルニアで砂金が発見されるまでに三〇〇余人が来ている。それから五二年までに二万五千人、八〇年までには十万五千人以上が到着したという。最初はほとんど男性であり、中国系の女性がアメリカに渡るようになったのは、ずっと後になってからである。

 ところが、八二年には中国からの移住を著しく制限する「中国人排斥法」が制定されている。またアジア系が感染症をもたらすという固定観念もあり、二十世紀初めに腺ペストが流行すると、サンフランシスコとハワイ・ホノルルの中華街が当局によって封鎖されたという。

 また、一九〇六年のサンフランシスコ大地震で、他地域と同様、中華街は完全に破壊された。もちろん佑司らが行ったとき、地震の影響はまったく残っていない。七十年以上が経っているのである。

 佑司と次郎はチャイナタウンを南から北へ走って、どんな街か見ることにする。佑司はこの前に来たとき、「龍の門」しか見ていなかったのである。

 ここの街の特徴は歩道に張り出した布製の天蓋(キャノピー)と言える。それが道の両側の一階の上にずっと続く。その幅は三十〜五十センチほどで、それを看板にして書かれたものは英語が多く、中国語(漢字)は少ししかない。言い換えれば、大部分が英語である。そして二階から上には基本的に看板はない。そんな店で売っているのは、この街に来た観光客を相手にしたものらしい。

 アメリカの商店街というのは、あまり看板が掲げられていない。それはチャイナタウンでも同じである。これは条例で決められているようだ。つまり勝手に看板・広告を出すことができないということである。その点で、東洋は違う。日本や台湾、韓国、香港ではほとんど法律がないが、合衆国では看板の規制がされていることが多いのである。

「チャイナタウンは、まわりとどこか少し違う。」

「そうだね。でも中国系がそんなに多いという感じがしない。」

「店は観光客相手でも、上の建物には中国系が住んでいるんだろうね。」

 カリフォルニア街では西でパウエル街を横切っているケーブルカーがそのままずっと走ってくる。左右からケーブルカーが近づいて来て、交通信号で止まった佑司と次郎の自動車の前をチンチンと音をたてながら横切って行く。

 ケーブルカーが走るカリフォルニア街は、左つまり西のほうが高くなっている。右の向こう側にはカトリック教会があり、立派な建物が続いている。左の建物はレストランらしく、上の階まで客席があるようだ。

 信号が変わり、佑司と次郎はまっすぐ行く。この道路を走る限り、もうあまり変化がないようである。ジャクソン街で右折し、カーニー街で左折して、チャイナタウンに別れを告げる。すぐにコロンブス・アベニューに出た。

 今度は北西に向かい、行き先はフィッシャマンズワーフである。コロンブス・アベニューは斜めに走っているが、レブンズワース街で北に曲がる。そしてジェファソン街で右折すると、海岸と平行の狭い道路に出た。

 十一日前、佑司はフィッシャマンズワーフに、両親と叔父・叔母を案内して訪問している。彼らは午前中の航空便でサンフランシスコ市に着き、ジャパンタウン(日本人街)を自動車に乗ったまま通り過ぎ、フィッシャマンズワーフにはその後で来た。すぐに合衆国道八十号線を走り、ネバダ州リノ市まで行ってしまったので、自動車に乗ったままで短時間だけど、来たことは来たのである。

 ジェファソン街は海沿いの狭い道路だが、そのまま走るとテイラー街との交差点がフィッシャマンズワーフの中心である。そこまで来て、右折して少し南に行くと、道路脇に駐車するスペースが空いている。そこに自動車を止め、パーキング・メーターに一時間ほどのコインを入れる。そして戻って、北のほうへ歩いて行った。

 観光客はたくさんいるが、土産品の店自体があまりない。土産物はないのかも知れない――日本人と違ってアメリカ人には、友人や知人にお土産を買う習慣がないというのはすでに述べた。

 テイラー街とジェファソン街の交差点を海のほうに渡り、北のピア(埠頭)へ行く途中で、佑司は改めて気づく。道路の左側には店が並び、カップに入れたクラムチャウダーを売っているが、ビールを売っている店はない。アルコール類を街角で売るということは、日本と違い、合衆国ではまったくないのである。

「アルコールは、街角で買えないんだ。」

「そうね。」

「自動車の中でも、瓶があいているかどうか。」

「封が切られていれば、文句なしにアウトさ。」

「なにしろ、禁酒法の国だから。」

 合衆国憲法修正十八条は一九二〇年に施行され、二十一条によって三三年に廃止されている。日本では禁酒法と呼ばれるが、合衆国憲法の修正条項である。もっとも、州や郡によっては、いまだに禁酒法が生きているらしい。

 もちろんカリフォルニア州ではバーやレストランがあり、アルコール飲料も売っている。だがそれを店の外に持ち出すことはない――戸外で飲酒することは許されないのである。

 そう言えば、二人が昼食を食べ、チョウと出会ったカンポウ・キッチンでは、アルコール飲料はまったく置いてなかった。許可証がなければ、食堂でも出せないのである。そして、日曜午前中はカリフォルニア州でも、アルコール飲料を出さないところは多い。法律上はともかく、宗教上、許されないのである。

 北のピアにも行ってみたが、フィッシャマンズワーフに魚市場はない。食事をしない限り、ここはあまりすることがない――佑司と次郎はそんな印象を持った。あるのは土産物をあまり扱っていない店舗と遊技場だけで、あとはシーフード・レストランである。

 月曜日の午後三時半過ぎであるが、レストランは開いていて酒を出している。酒はもちろん表に持ち出すことはできない。そんなレストランでの食事は高価なようである。チャイナタウンと比べれば何倍もするだろう。

 一時間もいないで、二人はフィッシャマンズワーフを後にする。パーキング・メーターには二十分ほどの時間が残っていたが、そのまま南に走って左折し、自動車でビーチ街を東へ行く。

 やがてピア39のところで海岸に出る。オークランドに行く吊り橋が沖のほうに見える。そしてエンバカデロという海岸沿いの道を走って、バッテリー街に入る。この道路に入ると左の内海は見えなくなる。そのまま走ると再び、街の中心部である。

「ここには領事館があって、この前、来た。」

 サンフランシスコ領事館のことである。

「移民局に行って大学院進学の手続きをし、その帰りに領事館に寄って、ニューヨークに進学で移動するという『届け』を出した。」

「日本人に会ったわけ?」

「そうなんだけれど、別にどうってこと、なかった。」

「どういうこと?」

「移民局って合衆国のお役所だろう――英語で手続きしたんだ。領事館は日本語だけど、どちらもあまりしゃべらなくて、書類を出して、それで終わり。」

「つまり、留学に来ている者に、あまり関心がないというわけ。」

「そうそう。移民局も留学生にはあまり興味がないというか。領事館も同じで、あまり関心がないみたい。」

「ニューヨーク市でも同じかも知れない。」

「領事館はあるよね。」

「でも、こちらと同じで、留学生には関心がないんじゃないか。」

「右に同じ、と。」

 少しためらっていたようだが、重い口を開くという感じで次郎が言う。

「ひとつだけ、忘れられないことがある。」

「どういうこと?」

「ニューヨークで、留学生仲間が人を殺した。」

「えっ、それはたいへんだ。」

 佑司は次郎のほうをちょっと見る。

「市内の大学生で、コロンビア大への留学生ではなかった。同棲していたんだが、その相手の若いアメリカ人女性を刺した。別れ話が出てたという。」

「殺人というわけだ。」

「すぐに逮捕され、警察から裁判所に行ったけど、誰もそんな人を助けようとしない。」

「そういうものか。」

「私は最初から最後まで付き添った。それが友だちというものだろう?」

 それは次郎のことをよく表している――友人を裏切らないのである。

「いやあ、なかなかできない。」

「そのとき、ニューヨークの領事館は、傍聴にも来なかった。」

「一度も?」

 佑司はそう言って次郎のほうをちらっと見る。次郎は思い出すように、上のほうを見ている。

「うん。でもね、自国民が裁判所に連れて行かれたら、日本以外の国では普通、頼まれなくても、きっと誰かが行く。大使館員とか、領事館員とか。」

「そうだよね。」

「でも国外の裁判所で、来てくれと頼まないと、日本の場合、来てくれない。」

「そうなんだ。変わっているんだ。」

「罪を犯す者、裁判される者は、日本では一段と低く見られる。」

「なるほどねえ。そういうものかもしれない。」

「とにかく、日本人が国外で裁判にかけられると普通、誰も傍聴しない。誰も傍聴に来ない人を、裁判長や陪審員はどう思う? 同情することもない。」

「そうだね、犯罪者としか見ないんじゃない。」

「結局、大使館とか領事館では、一般の人間はどうでもいいんだ。そのかわり、大臣とか国会議員とかが来ると、視察という名の観光旅行だけど、たいせつにするらしい。」

「そういうことか。われわれ一般の人間はどうでも良い。そのかわりに、大事にする人がいる。」

 バッテリー街はすぐに終わって一番街に入り、次郎と佑司が乗った自動車はミッション街で右折する。この通りはサンフランシスコ市の繁華街のひとつである。市の他地域で街路は東西南北におかれているが、この辺りではオークランドに行く合衆国道八十号線に並行している。

 つまり道路が東北から南西にまっすぐ走り、それと直交する街路が一番街から十二番街まである。だから街路は東西南北ではない。周囲は繁華街で商店が並び、合衆国政府の建物、つまり造幣局や連邦高等裁判所がある。また、地下鉄はひとつ右側のマーケット街を走っている。

 ミッション街からヴァンネス・アベニュー(合衆国道一〇一号線)に右折すると、二人の自動車は北の方向に行く。このアベニューに入ると、まわりの街路はだいたい東西南北になっている。この通りは合衆国道だが、フリーウェイでなく市街地を走っている。

 佑司たちはチャイナタウンに行く前にこの合州国道で市の北のほうを走った。国道がこのヴァンネス・アベニューで南に折れるところで合州国道と別れ、二人はそのまま東に行ったのである。

 この通りの南のほうはサンフランシスコの別の中心で、市役所や州の裁判所などが並んでいる。カリフォルニア州の最高裁判所は、州都のサクラメントでなく、ここの市役所の東北(ひがしきた)に鎮座している。

 二人の乗った自動車はその市役所の前を通っていく。最高裁判所は右奥にあったが、その建物はちらっとしか見えない。この辺りは、早い話が、市や州の官庁街というわけである。

 自動車は北に向かって走り、二人は左右の建物を興味深そうに見ていたが、やがてギアリー・ブールバードとの交差点に出た。そこで左折し、今度は西に行く。

 曲がって街区を四つばかり行ったところから始まる、右手の東西に並んだ三街区がサンフランシスコ市におけるジャパンタウン(日本人街)で、奥行きは南北に二〜三街区ほどである。

 次郎は右手の北側を見ていたが、合衆国の他都市と同じで、この街にも店には大きな看板などがない。そして駐車する少し手前に、コンクリート製の「ピース・パゴダ」の五重の塔が見えた。名前からして日本と合衆国の間の戦争を意識したものだろう。

「ロスと比べると、日本人街という感じがしない。」

「そうだね、古い建物もないし。」

 ギアリー・ブールバードの北沿いにあるジャパンタウンのショッピング・センターは、東から西へ並んだ三街区のそれぞれに四角い建物が立っている。建物は街区いっぱいに立っているが、ブールバード側には商店への入り口や看板はないようだ。

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