第3章 ハースト・キャッスル
ビジターセンター近くの駐車場に、村上次郎と本田佑司は自動車を停めた。そしてセンターに入り、入場料というかツアーの代金を支払うことになる。そのためにはたくさんのツアーのうち、どれに参加するかを決めなくてはならない。
二人は、グランド・ルームス(一階の数部屋)とアップステアズ・スィーツ(二〜四階の組部屋)の二つのツアーに注目した。どちらも約一時間かかるという。その他にも十ほどのツアーがあったが、とてもすべてを見てまわることはできない。とにかく、その二つを見ることにしようということになった。それから十五分ほどバスに乗って上のキャッスルまで行くことになる。二人は午後二時半のグランド・ルームス・ツアーに間に合った。
ウィリアム・ランドルフ・ハースト(一八六三〜一九五一)は「新聞王」と呼ばれた。ハーバード大学を卒業してまもなく一八八七年、父親からサンフランシスコ・イグザミナー紙を入手し、すぐにまたニューヨーク・ジャーナル紙を支配するようになる。
最盛期には二ダースを超える新聞を持ち、アメリカ人の読む新聞の四分の一を発行するようになったと言われる。ラジオ放送に参入し、映画の作成にもたずさわり、新聞の日曜版を飾る「コミック(マンガ)」などは、合衆国でいちばん多くを発行する会社を持つようになった。一九四〇年代にはテレビの創成期のパイオニアでもあった。
ウィリアムの父ジョージは学校には行っていないものの、銅鉱山の開発に成功し、その後、金や銀などの鉱山を支配、牧場主としても名をなした富豪である。新聞の発行には関心がなかったが、賭けでサンフランシスコ・イグザミナー紙を入手し、それを望んだ息子にまわしたという。また政治家としてもカリフォルニア州選出の連邦上院議員となっている。
そのジョージの所有する土地がサンシメオンにあった。その土地は彼の死後、ウィリアムの母親が相続する。そして、彼女が亡くなりウィリアムのものとなる。土地は最終的に二十七万エーカー(1092・69平方キロ)あったというから、四角形ならば一辺が約三十三キロと広大である。
サンシメオンにあるハースト・キャッスルは、その後、ウィリアムが亡くなり、カリフォルニア州へ寄贈された。一九五四年から同州によって運営されている。同州は観光客にその豪華な屋敷を開放して見せるようになった。カリフォルニア中部で「ヨセミテ」と並ぶ「名所」となったのである。
サンシメオンは、ロサンゼルスとサンフランシスコのちょうど中央くらいで、太平洋に面している。少し離れたところには住民がいるが、まわりにはとくに何もない。そんな土地にハーストは大きな家を作った。キャッスルと呼ばれているが、日本人が考える「城」という形状でもない。
もっともキャッスルというのはハーストが言ったのではない。本人はスペイン語で「ラ・クエスタ・エンカンタダ」と呼んだという――英語でエンチャンテッド・ヒルであるが、「魅惑の丘」とでも訳すのだろうか。あるいはハーストは、ただの「牧場(ランチ)」とも呼んだようである。太平洋が見える小高い丘の上に大きな屋敷を構えていた。
収入の面から中級より上のアメリカ人には、『都会に住みたい』という気持ちがないようで、どちらかといえば田舎が好みである。つまり現代の日本に多い、なんとなく田舎を敬遠して、都会に住むことを良いものと考える傾向がないのである。
ハーストもその一人で、もちろん住まいはアメリカ全土にあったのだろうが、サンシメオンに住み着いた。よく考えると、自分が新聞王としてニュースを出している。だから田舎に住んでも、世の中のことに疎くならなかったのだろう。
だが人生の最後、一九四七年にはビバリーヒルズに移り医者の介護を求めている。それまではサンシメオンに住んでいたのである。
サンシメオンには建築家がいた――ジュリア・モーガン(一八七二〜一九五七)である。彼女はUC(カリフォルニア大学)バークレイ校卒の土木技師だった。その後、パリのエコール・ド・ボザール(国立高等美術学校)の女性として最初の修了生となった。卒業後しばらくパリにいたが、カリフォルニアに戻る。彼女の専門は主に住宅の設計だったが、その他の建物も設計した。
そして一九一九年にハーストに雇われ、現在キャッスルと呼ばれている建物群を設計することになる。彼女の鉄筋コンクリート造りの建物はハーストの好みにあっていたのである。ただ、彼の家はヨーロッパの古い城「キャッスル」のような内装を特徴としている。つまりキャッスルとはヨーロッパのものである。
それから二十八年の間、彼女はハーストの膨大な収集物を建物にとり入れるため力を尽くした。サンシメオンは完成していないが、一九四七年にハーストが引っ越すと、モーガンの仕事も終わりになったのである。
キャッスルは一九五四年にカリフォルニア州に寄贈されたが、ハーストの遺族はその後の私的な利用をその条件につけたらしい。つまり、観光客の多くが行く建物の他に滞在する場所があり、観光客が知らぬ間にそこに行くということである。たしかに使用人がたくさん居たに違いないので、そういう建物もあったのではないかと思われる。またハースト・キャッスルにはハーストの居たころには動物園があったという。
グランド・ルームス・ツアーのため、次郎と佑司を含んだ観光客たちは「カサ・グランデ」と呼ばれる建物の一階の、最初の部屋に集合する。長袖の白ワイシャツを着たガイドがいて、ツアーに参加する人たちをチェックしている。そして確認が終わると解説を始める。
みんなが集まった部屋は、何十年か昔にハーストのお客たちがカクテルや会話を楽しみながら、主人が来るのを待っていたところである。壁はクルミの羽目板で、ルネッサンスやバロックのタペストリーが掛かり、新古典主義の彫刻の逸品が並んでいる。
次は食堂である。ハーストとモーガンは、リフェクトリー(修道院の食堂)と呼んだようで、高い窓、明るい絹の旗、鮮やかな銀の燭台などは中世の雰囲気を伝える。しかし、マスタードやケチャップの瓶があることは、ハーストがキャッスルではものごとをインフォーマルにしたいと考えていたことを示している。
順路の次のビリヤード室は人気のあった部屋である。そこでお客たちはリラックスすることができたし、ビリヤードや賭け玉つきで遊ぶこともできた。この部屋ではいろいろなゲームをすることが可能だったが、同時に田舎の生活の場面を描いた十五世紀のスペインの天井画や、フランダースの十六世紀のタペストリーが部屋を飾っているのを見ることができた。
そして映画室はハーストと、ハリウッドの映画スターであるマリオン・ディヴィズが毎晩のように、お客たちと長編の映画やニュースを見ていたところである。今の観光客にはスクリーンで昔のキャッスルがどのようなものであったか見ることができるし、ハーストやお客たちの動きまわる姿を古い映画で見ることもできる。
ところで、マリオン・ディヴィズ(一八九七〜一九六一)とはいったい何者であろうか? じつは彼女はハーストの愛人で、ハーストの妻子の代わりにキャッスルに住んでいたのである。ハーストに出会う前からブロードウェイのスターであったが、その後ハリウッドに移り、おしもおされぬ映画スターになった。そして、ハースト・キャッスルだけでなく、サンタモニカにあった彼女の豪邸で豪華なパーティをよく開いたのである。
経済的にもしっかりしていて、恐慌時代の一九三〇年代の後半にハーストが破産するかも知れないというとき、お金を出して救った。一九四七年にハーストが医者の介護を求めてビバリーヒルズに移り彼女の家に入ったとき、最後まで面倒を見たのである。
グランド・ルームス・ツアーの最後には庭園に行く。それは広い庭で、ラ・クエスタ・エンカンタダのまわりの部分である。この土地に特有な植物や、まれな花、そしてみどり豊かな木々が茂っている。それはみなハーストが住んでいたときからキャッスルにあったものである。
約一時間のグランド・ルームス・ツアーはそこで終わり、次郎と佑司は庭園を見てまわっていたが、やがてアップステアズ・スィーツ・ツアーの集合時間となった。二人を含んだ集団は狭い螺旋階段を上り、カサ・グランデの上階へ行く。
最初の部屋はドージェ(昔のベネチア・ジェノバ共和国の総督)のスィーツルームと呼ばれ、華やかに飾られている。これは有名なドージェの宮殿の華麗な部屋をまねたもので、天井板にはいろいろな絵が描かれている。そこから外に出ると大理石のバルコニーや、そこから見渡せる山々や海浜などは、数十年前にお客たちを楽しませたものだろう。
次の図書室は、もちろんハーストのお客たちのためであるが、四千冊を超える書籍を揃えている。その他にもキャッスルの宝物的収蔵品として、古代ギリシャの花瓶が百五十ほどある。もちろん、これらは今から二千年以上前のものである。とにかく八十フィート(約二十五メートル)に及ぶ長さの棚に貴重なものがあふれ、図書室は壮大なテーマを奏でている。
そしてその次はハースト自身のゴシック様式のスィーツルームで三階にあり、彼がもっとも大切に思った収蔵品や神聖視したものが置かれている。そのスィーツルームの二つの寝室と私的な居間はハーストとマリオン・ディヴィズが使ったものである。
またハーストが使った、飛翔するような、そして神秘的な、教会を思わせる、ゴシック書斎がある。ここで彼は発行する前の新聞を読み、訂正が必要なら、その指示を出している。
ジュリア・モーガンの建築家としての優れた腕前を見せるのが、部屋の中が二つの階に分けられているスィーツルームである。上の階の寝室は最初そこに何も置かず、明かりを導くために作られたのであるが、後にベッドを置き、お客のための快適な空間に様変わりしている。これらの部屋はタペストリーと描かれた天井で飾られ、そこの空いた空間を独創的かつユニークなスィーツルームとして、定義し直したのである。
そしてベル(鐘)の塔の下の部分であるが、四階には「塔のベッドルーム」が二つ、そして共通の居間がひとつ作られた。以前には何もなかった空っぽのスペースである。これらの部屋が最初に使われたのは一九三二年だという。
そのときに泊まった客がそのとき経験したように、現在の観光客は南の天空の寝室に入り込んでくる黄金色の日光を浴びながら、居間から見える海の展望によって迎えられる。そこはカサ・グランデのいちばん高い場所なのである。
そして建物から離れて、庭園から少し降りたところにある大きなプールはネプチューン・プールと呼ばれている。意味は「海王星」でもあるが、ローマ神話のほうの「海王」のほうが訳としてふさわしいのかも知れない。大きなプールで水も温められていて、そばにローマの神殿のような建物がいくつか置かれている。また海王やビーナスの像がまわりに配置されている。お客たちはここで泳いだり、甲羅を干したりしたのだろうか。
戻って最後のローマン・プールは、ビジターセンターに帰るバスに乗るところにある。装飾のたくさんある、そのプールはバスがくる来るまで、時間の許す限り立ち寄って、リラックスすることができる。室内のプールであり、古代ローマの風呂をかたどっている。この細かく緻密で荘厳なプールは、天井から床までタイルがしかれ、古代のギリシャとローマの八つの神や運動選手たちの大理石の像が造られている。
帰りのバスは五時半にローマン・プールのそばのバス停を出た。次郎と佑司はバスの中でも黙って座り、それまで見たものを反芻しているようだった。満席に近かったが他の人たちもあまり話すことなく、見たことなどを思い出したりしていたに違いない。
バスが発車してまもなく、佑司はとなりに座った次郎に日本語で小さくささやいた。
「孫娘のパティのことを知っているかい?」
「ああ、強盗のことだろう。少し考えた。」
その強盗のことは佑司が読んでいた新聞などの報道で大きく取り上げられている。次郎の住んでいた東海岸でもそれは同じで、テレビで扱われることもあった。
パトリシア・キャンベル・ハーストは新聞王ウィリアムの四男のランドルフ・アパーソン・ハーストの娘五人の三番目に生まれる。有名な金持ちの家に生まれたのだが、父親は比較的多数の相続人の一人で、そんなに多額を相続するという感じではなかったらしい。したがって娘もそれほど身の安全ということを心配しないでいた。
誘拐されたのはパトリシアがカリフォルニア大学(UC)バークレイ校で美術史を勉強していた二年生のときで、スチーブン・ウィードという婚約者とアパートに住んでいたときだった。一九七四年二月四日、バークレイ市のアパートから誘拐されたときパトリシアは一九歳であった。殴られて気を失っていたという。
その誘拐のとき自動小銃が発射されている。都市型ゲリラの「シンバイオニーズ解放軍(SLA)」が彼女を誘拐したという声明を発表した。シンバイオニーズとは「共生」ということである。
SLAはUCバークレイ校の教授が取りまとめる学習グループを通じて作られた。黒人の囚人を援助することが当初の目的であったが、時間が経つにつれ次第に考え方がラジカルになっていく。しまいには黒人の囚人は政治犯の英雄として崇められ、人種差別が徹底したアメリカ社会の犠牲者ということになったのである。
その後SLAは、ウィラーというリーダーが仲間を抜けたとき、彼の刑務所での知り合いドナルド・デフリーズによって率いられるようになる。ウィラーもそうだったが、デフリーズはそのグループでは数少ない黒人だったのである。
デフリーズはその前の七三年三月五日に脱獄している。そのとき、刑事法に反するラジカルな活動家でSLAのメンバーであったラッセル・リトルとウィリアム・ウルフが、デフリーズをパトリシア・ソルトイシックの家につれて行ったという。
そのグループがますます活動的になったとき、その小さな集団のメンバーは女性が多くなり、ソルトイシックとルームメイトのナンシー・リング・ペリーのように、同性愛の関係があるとされていたものもいる。その他のメンバーとしては、ウィリアムとエミリー・ハリス、アンジェラ・アトウッドを含んでいた。
デフリーズは政府側の内通者ではないかとたくさんの人に疑われていたが、SLAにおいては彼の人種と囚人であった事実によって、その権威が疑われることがなかった。その上、デフリーズはグループの何人かの女性たちを性的に支配していたという。
サンフランシスコ湾岸地域にあった家を襲うことで彼らは資金を得た。最初にやろうとしたのは州刑務所長官の暗殺ということだったが、囚人に悪い影響があるのではないかということで取りやめになった。そのかわりに、学校敷地内に警察を呼び込んだため、SLAがファシストと見なした、マーカス・フォスターという黒人の教育者が狙われて殺された。
そのとき十数名程度だったSLAの「軍事的強度」の、デフリーズによる評価は過大になった。それに付随して、彼は誇大な「元帥」という地位を自分に与えている。
ソルトイシックがSLAのほとんどのイデオロギー的な材料を作っていたと考えられる。その組織SLAは人種差別、性差別、年齢差別、ファシズム、個人主義、競争主義、所有欲といった、ありとあらゆる、資本主義を作り維持する制度に反対すると述べていた。
パトリシアの誘拐は、SLAの隠れ家の近くに住んでいたため、部分的にはご都合主義的だった。彼らが語ったことによれば、オークランドの最初の黒人教育長だったマーカス・フォスターを殺したことで逮捕されたSLAの二人のメンバーを解放させるのに、ハースト家族の政治的影響力を期待していた、というのが主な理由であったという。
逮捕されていた者を釈放させるという目的に失敗したため、SLAはパトリシアの家族に対して、貧困に苦しむすべての家族に七十ドルずつの食物を配布するよう要求した。それは実行されれば、四億ドルという莫大な金額を必要とするものだった。
パトリシアの父親は借金して、二百万ドル分の食べ物をベイ・エリア(サンフランシスコ湾岸地域)の貧しい人たちのために寄付した。その配布が混乱したため、SLAはパトリシアを解放することはなかった。
後になってのパトリシアの証言によれば、一週間ほど小部屋に押し込まれ、目隠しされて両手を縛られていた。その間、デフリーズによって繰り返し、殺すという脅しを受けた。
パトリシアは食事に連れ出され、また目隠しされたままグループの政治的議論に参加するようになる。そして懐中電灯とSLAの政治的文書を与えられ、勉強するように言われる。
パトリシアは小部屋に何週間も閉じ込められたが、後で語ったことによれば、『デフリーズが言うには、作戦会議で決まったとか、私を殺すことを考えているとか、彼らといっしょにいろとか、そんな可能性を考え始めるのが良いとか、そんなことだった。』
パトリシアは『彼らの考えとあうように、考え方を適応させた』という。彼女の決断を問われたとき、パトリシアはそこに残り、SLAとともに闘かうと言った。そこで目隠しは取られ、自分を捉まえている人を初めて見ることができた。
この後は仕事について教育され、とくに銃を使うことが毎日行われた。アンジェラ・アトウッドはパトリシアに、彼女がわきまえておくべき、その他のことをあげた。たとえば、仲間といるときの性的自由であったが、パトリシアはそこでウィリアム・ウルフ、後にデフリーズによって強姦されたという。
誘拐から二ヶ月たったときの七四年四月三日、パトリシアは録音機によって吹き込まれたテープによって、SLAに加わったこと、名前を「タニヤ」に変えたことを公に表明した。その名はチェ・ゲバラの同志の、ヘイデー・タマラ・バンケ・バイダーのゲリラ名に触発されたものだったという。
パトリシアは七四年四月十五日に、サンフランシスコ市のノリエガ街一四五〇にあるハイバアニア銀行のサンセット地区支店を襲った強盗事件で、M1カービン銃を構えているのが監視カメラに捉えられている。パトリシアはそこで自分を、(偽名の)「タニヤ」だと名乗っている。
二人の男性が、強盗が起きているときに銀行に入って来たため、撃たれて負傷している。パトリシアの裁判のときの証言によれば、ある目撃者は、彼女が他の仲間より数歩遅れて逃走用の車に逃げたのを見ている。
数日中に連邦司法長官のウィリアム・B・サックスビーが、パトリシアは『ふつうの犯罪者』で、銀行強盗に『嫌々ながら参加しているのではない』と言った。連邦地区検事のジェームズ・L・ブラウニング・ジュニアは、銀行強盗に加わったのは自発的だったかも知れないと、前回のコメントの、参加するように強制されていたかも、という考えを覆している。
ただし、捜査を指揮していたFBI局員は、SLAのメンバーが強盗の間にパトリシアに銃を向けていたとも言う。結局、彼女は銀行強盗として、七四年七月に連邦大陪審によって起訴されている。
ハリスらがスポーツ用品店で捕まりそうになった七四年五月十六日、パトリシアは自動小銃を乱射することにより、それを防いだ。そして二台の車をハイジャックして逃げたのである。彼女らが着く前に警察はSLAの根拠地を包囲し、そのメンバー六人が銃撃戦で死んだのは翌日のことだった。
パトリシアも最初はその戦いで死んだものと思われていた。そういうことで、彼女の父親は彼女が仕返しのために殺されたのではないかと、公に語っている。
ところが父親の心配をやわらげるように、逃避行のとき人質になった男性が、彼女は生きているという情報を持ち出した。そのためパトリシアの逮捕に向けて、二つの誘拐を含むいくつかの重罪で令状が発行されたのである。
一九七五年九月十八日、パトリシアはSLAメンバーであるウェンデイ・ヨシムラといっしょに、サンフランシスコのアパートにいるところを逮捕された。拘置所に入れられるとき、彼女は自分の職業を「都市ゲリラ」と述べ、次のようなメッセージを広く伝えるよう弁護士に依頼した。『私は微笑んでいると皆に伝えてほしい。それから自由で力強いということも。そしてそこにいるすべての姉妹と兄第に「あいさつと愛」を送る。』
数週間後、パトリシアはSLAに対する忠誠を否定するようになる。そして彼女はいろいろな精神科医らに長い面接を受けている。
パトリシアの公判弁護士になったF・リー・ベイリーは犯罪のとき、意思に影響を与えるような強制や強要を受けていたという弁護をしていた。ただし、これは洗脳の弁論がそうだったように、法律的にはまだ認められていなかったのである。
パトリシアの裁判は七六年一月十五日に始まっている。結局、検察側の最終論告では彼女が誘拐されたという事実にほとんど触れられず、パトリシアは強制されることもなく銀行強盗に参加していたと主張した。
検察側は陪審に、SLAの女性メンバーはフェミニストであるからパトリシアが強姦されるのを許さないだろうとさえ言った。パトリシアがウルフによって与えられたオルメック(メキシコの古代文明のひとつ)の彫り物を大切にしていたのは、彼によって強姦されたというのがウソであることを証明していると主張した。
ベイリー弁護士の最終弁論は次のようであった。『単純なルールの応用は、私の考えるところ、適切な結果を導きます。というのは、どこにも合理的な疑いを超えて、パティ・ハーストが銀行強盗になりたいと考えたことを示す証明がなかったのです。あなたがたは分かっている、そして心の中で正しいと分かっていることは議論の余地がありません。彼女は死ぬべきだという会話があって、それに対して彼女は生き延びたいと考えたのです。』
結局、七六年三月二十日、パトリシアは銀行強盗と重罪を犯すとき銃器を用いたということで有罪評決を受けた。最高で三十五年の実刑を言い渡されるのだが、カーター判事の判断でそれより短くなるわけだった。同判事が亡くなったので、ウィリアム・ホースリー・オリック・ジュニア判事が七年の刑期を言い渡している。
そのとき彼は次のようにコメントしている。『反抗的な若者が、どんな理由であれ革命的になり、自発的に犯罪行為を犯せば、処罰を受けることになる。』
パトリシアは拘置所にいるとき、無気肺を起こして緊急の手術を受けている。これは一連の医療的な問題の始まりだった。逮捕のとき体重が四十キロというほどに痩せていたし、IQも低く感情起伏も少ない「ゾンビ」のような存在だった。
その手術のおかげで、ハリスらの強盗、誘拐、そして暴行などの十一件の告発について、パトリシアは証言することを免れた。だがもちろん、彼女も同様の犯罪で訴追されることを止めることはできなかった。
逮捕されているとき、身辺の安全上の配慮から独房監禁にならざるを得なかったが、七六年十一月、保釈金を積むことで上級審への上訴の間、監獄から出ることができた。そのため、何十人ものボディガードが父親によって雇われたのである。
スポーツ用品店での犯罪は、パトリシアは自由でなかったという理由で、州の控訴裁判所は執行猶予とした。結局、七八年五月、合衆国最高裁判所が彼女の事件を取り扱わないと決め、上訴はすべてついえてパトリシアは再収監された。
南アメリカ・ガイアナのジョーンズタウンで暗殺される前の数週間、連邦下院議員レオ・ライアンはパトリシアの釈放に向けて署名を集めていた。ジョーンズタウンの住民の大量死(一九七八)のあと、俳優ジョン・ウェインは、ジム・ジョーンズが九百人以上を大量自殺するために洗脳したということを一般の人々が信じたのに、誘拐した十代の少女をSLAが洗脳できたということを受け入れないのはおかしいと語ったという。
あと八ヶ月で仮釈放の聴聞が開かれる、刑務所に入って二十二ヶ月過ぎたところで、ジミー・カーター大統領は連邦の罪を減刑して、パトリシアを釈放するように命じた。七九年の釈放はそういうわけで厳重な条件付きであり、スポーツ用品店での犯罪でのカリフォルニア州の執行猶予はそのまま残っていたという。
佑司は次郎の横顔を見ながら言う。
「誘拐されたが、当初は積極的に犯罪に加わったと見られていた。」
「でも誘拐されなければ、そんな犯罪に関係なかったかも。」
「うん、そうだよね。――『ストックホルム症候群』というのを知ってる?」
「え、何、ストックホルム、症候群?」
「そうだよ、人質に取られると、犯罪者をそんなに悪く思わないということさ。」
「へえ、そういうこともあるんだ。」
「一九七三年八月、スウェーデンのストックホルムの銀行で、人質事件があった。常識で考えれば、人質に取られた被害者は犯人を憎むというか、否定的に見るだろう。」
「そうだよね。」
「だけど被害者四人は、犯人を少なくとも同情的に見たという。」
「なるほど。この事件もその可能性があるね。」
「だけど、弁護士は裁判でそういうことをあまり言わなかったらしい。」
「どうして?」
「検察側がそういう考え方に反対しているからね。それにまだ、陪審員がそういうことにそれほど詳しいとは思えない。」
「なるほど、そう言えばそうだね。」
「結局、彼女は有罪になったけど、その判断はどうなのかねぇ。」
パトリシア・ハーストは二〇〇一年一月二十日、大統領特赦を受け、すべての権利を回復することになる。当時の大統領ビル・クリントンの任期最終日である。
ハースト・キャッスルのふもとの駐車場に戻り、もうじき六時という時刻になって、その晩に泊まるところを探さなければならなかった。もっとも、まだ六時とも言える。カリフォルニアの夏時間でまだ日が高いし、今日は日曜日でもある。自動車のエンジンをかけながら佑司は言う。
「どこか、泊まるところを見つけなければ。」
「ここに来る途中、ホテルみたいなのがあった。」
「えーと。」
「七〜八キロ、戻って。」
州道1号線に出て、少し南に帰ることになる。途中、州道の右側は太平洋の海岸が続いていて、波は穏やかに浜に打ち寄せている。ここから反対の先に行って、北にどんな町があるか、走っていないので分からないが、ずっと町はないのかも知れない。
自動車で南に走り、十分ほどで小さな集落に行き着く。山側にいくつか建物があり、道路が州道と並行して走っている。州道を左折してその道路に入り、ホテルみたいな建物をいくつかチェックしているうちにいちばん南の端まで来てしまった。
そこにあったのは「モーテル6」と呼ばれる宿泊施設だった。看板を見て、佑司は思わず言った。
「あ、モーテル6だ。」
「モーテル6? 泊まったこと、ある?」
「いや、ないけど、聞いたことがある。」
「へえ、どんな?」
「安いという。」
モーテル6という名前のとおり一泊六ドル(+税)だから、その時の交換レートの一ドル=二百五十円として、千五百円+税くらいである。二十一世紀にもなると同モーテルの宿泊代も値上がりして一泊五十ドルくらいになるから、五千五百円+税になる。今ではそれほど安いという感じもしないが、とにかくその当時は『安い』と合衆国で評判になったわけである。
「ここにしよう。」
佑司は自動車を敷地の中に乗り入れ、オフィスの前にまわして止める。そして二人は前後してオフィスに入っていった。
フロント係がこちらを見て、低い声で『ハウディ』とゆっくりいう。そこで佑司は相手を見ながら、もちろん英語で言った。
「二人部屋、あります?」
「二人ね。ツインで十ドルの部屋があるけど。」
あとから付いてきた次郎を見ながら、フロント係は愛想良く答える。次郎が佑司の左側からフロントに近づき、フロント・デスクを挟んで、二人は係と対面する形となる。
モーテル6の場合、大人二人だと二人目の宿泊料を取る。自動車対象のホテル(つまりモーテル)の場合、合衆国ではシングルの部屋はほとんどなく、夫婦など二人で泊まるようになっている。その場合、宿泊料は一人でも二人でも同じである。つまり夫婦の場合、追加料金は要らない。というか、もともと夫婦料金なのである。しかしモーテル6では二人でなら夫婦でも追加の料金を払わなくてはならない。
「それで良い。今夜一晩で明日早く出発するのだけど。」
「じゃあ、宿泊代を今、払って貰える?」
「OK。」
「これにあなたの氏名と住所を。もう一人は名前だけ。」
名前とサクラメント市の住所を書き、財布を引っ張りだし、十ドル札と五ドル札を前におく。フロント係はそれを受け取って、税金を足して十五ドルから引いたお釣りを出す。佑司は小銭をカウンター上にあった「募金箱」に入れて、残りの札を財布に入れる。フロント係は領収書を出し、それから後を向いて鍵を二つ選んでこちらに差し出す。
「部屋は四号室で、むこうです。」
道路から見て奥のほうを指差す。その後で二人を見わたすようにして質問する形で言う。
「食事はまだですよね?」
「そうです。」
「レストランがうちの敷地にあるんです。このあたりには他にありません。」
モーテル6でレストラン併設というのはめずらしい。ふつうはないのである。佑司は朝のことを訊いた。
「レストランは、朝、何時に開きます?」
「六時。」
「じゃあ、たぶん私たちはいちばん最初の客だね。」
「鍵はそこの、入口のところに入れるところがあります。退出するとき、そこに入れておいて。オフィスにはたぶん鍵がかかって誰もいないから。」
「OK。」
鍵を受け取って、モーテルのオフィスを出る。自動車をまわして四号室の前に止める。そしてバッグを下ろして車に鍵をかけ、四号室に入った。
アメリカでは四号室が空番ということはない。日本と違って、四だとか九だとかに意味はないのである。部屋は奥まっていて、あいにくと太平洋は見えない。だけど夏の最中にそんなに見たい海でもない。
部屋はちゃんとしていたが、テレビは白黒で、おまけにクォーター(二十五セント)を入れることによって電源が入り視聴できるようになっている。そのころでもカラーテレビがふつうであるから、白黒はかえってめずらしいくらいである。それに今日は日曜日だから二人がとくに見たい番組もない。
ベッドが二つ並んでいて、泊まるには別に困らない。なるほど宿泊料が安いわけだ。
バスルームに入ってみると、トイレも別に変わっていない。トイレットペーパーもふつうにあるし、洗面台もある。ただ風呂桶はなくシャワーだけで、トイレとの境にビニールが垂れ下がっている。それに、石鹸やシャンプーの類はなかった。バスタオルもないし、洗面台の前に鏡はあるが、歯磨きのブラシもない。もっとも歯ブラシがないのは、ここのモーテルだけではない。日本のホテルのように歯ブラシがあるのは、カリフォルニアの宿泊施設ではめずらしいのである。
「ああ、そうだ。サンディエゴのホテルから、石鹸とかを持ってきている。」
そう言って、部屋に戻った佑司がバッグの中から取り出したのは、紙に包んだ小さな石鹸と、これまた小さなプラスチックの容器に入れられたシャンプーだった。
「サンディエゴのホテルで帰るときバッグに入れたんだけど、ここで役に立つとは。」
「石鹸は持ってきていない。私も使えるよね?」
「もちろん。二人で使ってもふつうに使えば、男だから三晩くらい大丈夫だ。」
次郎はそれからトイレのドアを閉めて使う。その間に、佑司はベッドに入ったときに着るTシャツと膝までのショーツを出す。合衆国では「寝間着」も、宿泊施設のものがないのがふつうである。とにかくTシャツとショーツは、篠田さんのアパートで使ったものと同じである。
そして寝る前に使う歯ブラシを出しておく。朝のフェイスクリームとヘアトニックもついでに出す。次は佑司のトイレの番であったが、その間に次郎も寝る準備をしたようだ。次郎の取ったベッドはトイレに近いほうである。
トイレから出たとき、佑司は明日の朝のことを決めておかなければ、と思ったようだ。
「六時に出ようと思えば、四時半に起きるよね。」
「私が四時半に起きて、すぐシャワーを浴びる。」
「じゃあ、私は五時に起きれば良いね。」
「そうだね。別に起きて待っている必要ないし。」
それで、朝のことは決まった。
「さて夕飯だが、ここのレストランが無難だよね。」
「だけど、ここのモーテルと同じ経営だと、ちょっと心配だよね。」
モーテル6は直営が多いと聞いているが、ここが直営なのか、それとも契約なのか分からない。とにかく次郎が言うように、レストランが「安物」だとあまりうれしくない。といって、あまり高級なのも歓迎できないが、ここのモーテルならその心配はなさそうだ。
とにかく、他に食事のできる店は近くにないようだ。となりのホテルにないようだし、もう少し向こうのホテルにも、レストランのようなものは見えなかった。結局、部屋に鍵をかけ、歩いて道路脇のレストランに行くことにする。
そのレストランにはお客が意外に多かった。モーテルに泊まるお客でいっぱいで、モーテルに空室があったのは幸運だったのかもしれない。
意外だったのは、建物はつながっているけど、その店は「サンセット・グリル」という名前で、モーテルとは経営が別のようである。入口に立つとバーが見えるし、向こうのほうにはビリヤード台がある。なるほど季節によっては、窓際に座って夕陽が太平洋に沈むのを見るのが楽しみなのかも知れない。
すぐ案内されて奥のテーブルにつく。メニューを置いてウェイターは引っ込んでしまって、なかなか注文を取りにこない。メニューの表紙には、モーテル6の宿泊者は鍵を見せれば、10%OFFと書いてある。だからテーブルの上にその鍵をおいておく。メニューに書かれた食べ物の値段は、モーテル6の関係にしては高いのかも知れない。
「生ビールが一杯、飲みたい。」
佑司がメニューを見ながら言う。
「私は、いいや。」
「食事は、どうしよう。」
「フィッシュ・アンド・チップスが良い。」
「そうだね、私もそれにしよう。」
「それと、クラム・チャウダー。」
フィッシュ・アンド・チップスとは、この頃、西海岸でも多くなって来たが、魚のタラに衣をつけて揚げ、付け合わせにポテト・フライをつけたものである。
もっとも、本場のイギリスでは、チップスというようにわりと大きなジャガイモだが、アメリカの西海岸では、フレンチ・フライのように細長くなっている。レモンのスライスとタルタル・ソースがついてくる。そしてコールスロウ(細切りキャベツのマヨネーズ和え)とピクルス(キュウリの酢漬け)もある。サクラメントでも最近、専門店ができて売っているが、ニューヨークのほうでは昔からあって、とくに珍しいものではないらしい。
クラム・チャウダーはスープの一種で、クラム(ハマグリなど)をもとにしている。大きく分けて、ニューヨーク流とニューイングランド流(ボストンなど)になるという。ニューヨークはトマトを入れているので赤いが、ボストンなどでは使わないので白い。ここのチャウダーはボストン流らしく、トマトが入らない。もちろんジャガイモ、タマネギ、そしてセロリーが入れられている。
ここでは牛乳が使われていて、あまり小麦粉が入っていないらしい。その点であっさりしている。もちろんクラム(貝)がたくさん入っている。ボウル(丸く深い皿)の脇にはビスケットが置かれて、好みに応じ割って入れるようになっている。
佑司には瓶ビール、次郎にはクラム・チャウダーのボウルが出されてきた。
「これ、クラム・チャウダー?」
次郎はニューヨークから来たので、ニューイングランド流に戸惑っている。
「これはボストンの、ニューイングランド方式のクラム・チャウダーでない?」
「あ、そうか。ニューヨークとは違うんだ。」
「といっても話だけで、あまり味を知らないのだけど。」
そして次郎は、スプーンで一口、飲んでみた。英語ではスープを『食べる』のだが、日本語では『飲む』のである。
「ああ濃厚で、このチャウダーはうまい。」
佑司はビールを、次郎はスープを、それぞれ飲んでいる。注文したビールとクラム・チャウダーはすぐに出てきたが、フィッシュ・アンド・チップスはそんな簡単には出てこなかった。やがて出てきたが、これがなかなかおいしい。
八時半を過ぎたところで支払い、チップを置いて店を出てきた。約束どおり一割引である。
翌朝、予定どおり六時にまた同じ店に行くと、朝飯は「ビュッフェ・スタイル」で、定額で『食べられるだけ』の方式になっている。もちろん、ウェイターのサービスはない。来た順にテーブルが割り当てられ、あとは自分でセルフサービスというわけである。
とにかく食べ物が並べられている。それを自分の皿に取ればよい。トースト、ワッフル、ドーナッツ、マフィン、卵料理、ベーコン、ハム、ソーセージ、コーンビーフ、ポテト・ハッシュポテト・マッシュポテト、タマネギやピーマンなどの野菜、レタスなどの葉もの、そして、リンゴ・ジュース、コーラなどの炭酸飲料の飲み物である。もちろん、コーヒーと紅茶が控えている。パンケーキやオムレツは、シェフに頼んで作ってもらうらしい。
「オレンジ・ジュースはない?」
次郎はコーヒーや紅茶をあまり飲まない。オレンジ・ジュースはなく、リンゴ・ジュースを選んでいる。佑司は紅茶を飲む。結局、三十分で満腹になるほど食べて後にした。次郎や佑司のように、急いで旅行している者にとって都合の良い店である。
六時半にはモーテル6を出て、州道1号線を北に向かう。夏時間であるが、この時刻になればもう明るい。昨夜、南に戻ったのは正解で、その後ずっと民家がない。結局、カーメル・バイ・ザ・シー(「海のそばのカーメル」)の近くになるまで二、三カ所に民家があるだけで、泊まれるような施設はなかったのである。
カーメルからは両側にふつうの街があるようだ。この街は俳優・監督クリント・イーストウッドが住んでいるので知れられている。レストランを経営しているというが、あいにく朝の九時ごろに通り過ぎるので、そこには寄れない。
すぐに片側二車線の道路になって、モントレーに入る。17マイル・ドライブ道路が左にある。ここは私有地で、そこの道路に入るには通行料が必要である。有名な「ペブル・ビーチ」などのゴルフ場があるが、二人にゴルフの趣味はないので、そこに入って、まわって観ることもない。
サリーナスの北西を通るころには車線が片側一車線になる。しかし信号がないので、スムーズに進んで行く。ワトソンビルからまた二車線のフリーウェイになり、サンタクルズまで続く。
サンタクルズに入ると、この道はフリーウェイではなくなるので、市内は信号で止まる。北に行けばUCサンタクルズ校がある。街を抜けて、ようやく信号がなくなったのであるが、ここから先は片側一車線になっている。
そのまま海沿いを北に走るが、まわりに民家がない。ずいぶん走って、サンフランシスコの南のデーリーシティまで来た。もうこの辺りには両側に民家もある。
サンフランシスコ市内に入って二車線になり、道路である十九番街をずっと行く。ゴールデン・ゲート公園を突っ切って、それから東に行き、北に曲がってから、また州道1号線を行く。そのまま走ると、ゴールデン・ゲート・ブリッジに至る。
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