第1章 ロサンゼルス

 アメリカ合衆国の東海岸ニューヨーク市にあるJFK空港発の航空機がお昼すぎの西海岸ロサンゼルス空港に到着する。時差が三時間あって、ニューヨークでの出発が早朝でも、ロサンゼルスに着くのはお昼ちょっと過ぎということになる。実際には六時間弱かかるのだが、時差を考慮に入れての名目的な時間でいえば、三時間弱が過ぎているだけである。

 そんな航空便を利用してきた、村上次郎の荷物は背負ったバックパックだけである。頭髪はその当時は慎太郎刈りと呼ばれていてスポーツ刈りに比べると少し長いのだが、全体的に短い。白い長袖のポロシャツを着ていてブルージーンズに茶色の革靴をはいている。上背も一メートル八十センチを超え、がっしりした体格とあいまって、まわりのアメリカ人たちに見劣りしない。ただ、あまり『あか抜けた』感じがしない。ニューヨーク市から来たのに、どちらかといえば田舎から出てきたばかりのような印象を与える。

 乗ってきた飛行機は国際便ではないから、入国の手続きをするわけではない。だから搭乗機から直接に建物に出て、次郎はゆっくり左右を見回しながら、まっすぐ出口に向かう。後から出て来た搭乗客がせかせか歩いて追い抜いていく。まだ金属探知機とか、搭乗客と見送り・出迎え客の区別がなかった時代である。

 そこで待っていたのは本田佑司で、笑顔でニコニコと、仏頂面で出てきた次郎を迎える。次郎の表情は堅かったが、佑司に会えてよかった、ほっとしたというのが実情だろう。留学のためアメリカに四年間も住んでいるのに、ニューヨーク市に着いたあと航空機に乗ることもなく、西海岸までというのは次郎にとって初めてのアメリカ国内旅行なのである。

 出会った二人はしかし、アメリカ人ならするに違いない、握手をしない。それでは他の日本人のように頭を下げるのかといえば、それもないようだ。とにかく、佑司は大きく微笑んでいるが、次郎はあまり表情を変えず、相手をまっすぐ見続けて言う。

「やあ、本田さん。」

「村上さん、お久しぶりです。元気そうですね。——荷物はそれだけ?」

「そう。この暑さじゃ、上着も必要ないし。」

「じゃあ、自動車まで行きますか。この先の駐車場で、ちょっと歩くんです。」

 佑司は次郎に比べて体格が劣るし、身長も十センチばかり低い。そして次郎と違い、眼鏡をかけていて、いかにも東アジアからの留学生という感じである。髪ももう少しで長髪だが、身体が華奢なわけではない。それなりにしっかりした体つきをしているが、次郎のとなりでは見劣りがする。半袖の薄い水色シャツに白い木綿のパンツ(その当時の少し前まで、日本ではズボンと呼ばれていた)をはき、それに白い結び紐のテニスシューズを履いている。

 次郎と佑司の二人は東京の英語学校でめぐり合った。次郎はN大法学部を卒業し一年してから英語学校に入学した。佑司は埼玉県立K高等学校を出て会社勤めをしていたが、会社をやめて英語学校に入学したのである。二人の年齢が同じであるということは入学してまもなく分かった――同い年ということで親しくなったのである。

 同じクラスの新入生は、高校を卒業したばかりというのが大部分で、自分たちより五学年も若い。だから他の同級生とは、ほどほどのつきあいだった。ところが二人は他の学生たちと違い、一生懸命に勉強している。なにしろ二人とも留学志望だったからである。

 次郎はどうやら司法試験を受けたらしい。今と違って法科大学院もなかったし、受験回数さえ制限がなかった時代である。もちろん合格していないから、卒業後の一回の受験であきらめて、英語を勉強しようとか、留学しようとか考えたのだろう。二人は予定どおり英語学校の卒業までに二年かかり、それから留学であるが、留学先のアメリカで入学するのは半年後の九月であった。

 英語学校卒業の後に、二人はそろってカリフォルニア州サクラメント市の公立短大に行くつもりだった。英語学校で教えていたアメリカ人が学校を紹介してくれたのである。

 しかし、佑司が入学OKの知らせを受けたのに、次郎はそうは行かなかった。というのもN大学を卒業していたからである。学士号を持っているのに短大に入学することはないだろうと、願書を出した学校に言われてしまったのである。

 そういうわけで次郎は急遽、志望先を変え、ニューヨーク市にあるコロンビア大学ティチャーズ・カレッジ(教育学大学院、TC)の英語教育の修士課程に入学する。しかし仮入学というわけで、まず当然のことながら、専門の英語ができなくてはいけないということになり、英語・英会話を勉強することになった。

 結局、二年間の勉強をして、大学院教育を受けるようになったわけである。大学院の授業が取れるようになってから二年経ったが、まだ修士号は取れていない。つまり大学院生というわけである。アメリカに入国してから四年もたつので、英会話はかなり使えるようになったが、どうも教えることが出来るほど、『教室で用いられる英語』がうまく使えないらしい。修士課程の修了はまだ先のようである。

 公立短大のサクラメント・シティ・カレッジに入学した佑司のほうは、一年間そこで勉強したが、すぐにカリフォルニア州立大学サクラメント校に編入学し、今春卒業することになった。公立短大に入学というやり方がうまく行ったのか、そこで学習の仕方を要領よく習い、編入した州立大学でも成績は抜群であった。

 専攻は心理学であるが、日本と違って専攻は本人が選んで「宣言」できるし、進学などに間に合えば、宣言は卒業学期の始めでよい。始めのうちは社会学か社会心理学か迷ったが、心理学のほうに引かれた。特に、実験社会心理学という、心理学サイドに魅力を感じたのである。とにかく一生懸命勉強して「学業成績が優秀」と、もらった卒業証書にも書かれている。

 次郎と佑司はこの四年間、一度も日本に帰っていない。留学している者として、それは珍しいことかも知れない。ただ、帰国して何をするのか。国に帰りたいと二人ともそれまでとくに思わなかったし、この先もとうぶん帰国しようと考えなかったようである。日本へ帰る旅費のこともあったのかも知れない。

 大学を卒業する前に佑司は大学院への進学を考えている。GRE(大学院のための共通入学試験で、数学と英語、そして専門の三科目であるが、佑司の場合、専門は心理学)を試験会場となった州立大学で受け、あちこちの大学院に入学願書を出したが、なかなか合格の通知がなかった。

 ところが願書を出していたコロンビア大学大学院で入学を許可するという知らせがあった。なんと次郎が行っている大学で大学院に入学できることになったのである。しかも授業料免除ということである。もちろん佑司は喜んで進学するとして手続きをとった。

 コロンビア大学は心理学では「名門」というわけだが、大学院には「臨床」という専攻の分野がなかった。合衆国で臨床心理学は当時から人気が高かったが、その専攻はTCのほうにあった。ただしTCでは臨床の修士までで、博士号(PhD)が欲しい場合には本校の大学院のほうで授業を取り、成績優秀なら学位論文を書き、よく書けていたら学位を貰うかたちになっていた。

 佑司は実験社会心理学を専攻したかったので、臨床心理学の講座がなくても構わなかった。大学院入試合格の知らせがあったのは四月初めで、日本の両親に報告すると喜んでくれ、それから両親二人は合衆国を訪問したいと言い出したのである。

 結局、八月初めに両親と叔父・叔母が一緒にカリフォルニアを訪問することになった。サンフランシスコから合衆国に入り、ネバダ州のリノ、カリフォルニア州のタホ、サクラメント、ヨセミテ、ロサンゼルス、サンディエゴ、そしてネバダ州のラスベガスまで十日ほど滞在する。佑司は一行の案内役というわけで、自動車を運転してカリフォルニア州をまわり、ネバダ州のラスベガスに行き、そこからコロラド州のグランドキャニオンへは飛行機で行った。

 そして、一行がロサンゼルス空港から帰国したのが八月十八日土曜日の午前中のことである。そして、同じ日の午後の早い時間に、次郎がニューヨーク市からロサンゼルス市に到着している。予定していたこととはいえ、佑司の両親たちを日本に帰して、まもなく次郎が着くという、あわただしいことになった。

 二人の計画では、これから北アメリカ大陸を横断して、ニューヨーク市まで行く。そのために次郎に南カリフォルニアまで来てもらったのである。もっとも細かい計画は立てていない。「行きがけ」で、通る道路や泊まる街を決めることにしている。

「両親が来ていたんだろう?」

「そうだね。今日のお昼前に、この空港を出て日本に帰っていった。」

「私も親を呼ぼうかな。」

 次郎はそう言ったが、両親が訪問するのを期待しているわけでもなかったようだ。佑司の場合、州立大学では学費はそんなにかからないし、成績優秀で後半の二年は授業料免除となっていたが、ニューヨーク市のコロンビア大学は私立で授業料も高いに違いない。

 もっとも、アメリカの私立有名大学は日本の「公立大学」みたいなもので、授業料は高いが日本の私立大学のような感じがしない。学校の設立者なども、アメリカの「私立大学」では、学生たちは知らない場合が多いのだろう。

 それよりも、旅行ということで東海岸に両親を迎えるとなると高くつくに違いない。そこではマサチューセッツ州ボストンやニューヨーク州ニューヨーク、ペンシルバニア州フィラデルフィア、それに首府ワシントンDCなどをまわることになるが、カリフォルニア州に比べ、どこも高そうだ。もちろん、それなりの歴史があり、名所や旧跡など、まわって見るだけでも興味深いものではある。


 佑司の自動車が停めてある空港の駐車場へ歩いて行くのに二十分近くかかった。両親が日本へ行く国際便に都合が良いように駐車し、停めた自動車はそのままにニューヨークからの国内便が到着する棟に移動し、次郎が着くのを待っていたからである。

 バッグを持った航空客や送迎の人たちとも行き交うが、「チカノ」と呼ばれる、スペイン語を話す人たちがとても目立つ。というか、スペイン語らしい会話が耳をつく。しかし、必ずしも彼らに合衆国籍がないと言えない。昔のカリフォルニアはメキシコ領だったし、メキシコ戦争(一八四六〜四八年)に勝って合衆国の土地になったからといって、アメリカ人はそこに住んでいたスペイン語を使う人たちを追い出したりはしなかったからである。

 しかし、第二次世界大戦後のカリフォルニアにはメキシコなどから密入国した人も多いという。だが、さすがに空港に来る人たちの中には、法律を破って合衆国に入国した人はあまりいないだろう。

 二人が歩いて行ったところに駐車してあったのは、佑司が所有する薄い水色の大型のシボレー・スティションワゴンである。日本ではワゴンというと背の高い箱形の自動車を想像するが、合衆国のスティションワゴンは日本で言うところの「ライトバン」である。ただし、佑司の両親や叔父・叔母という大人数を乗せられるような、大型のライトバンであった。

 自動車は日本から佑司の父母たち一行が来る約一ヶ月前に、準備のため二千ドルで購入した。地元新聞の三行広告(クラシファイド・アド)を見て、一般の人から買ったのだが、中古だったから二週間ほど乗り回して様子を見た。結局、修理工場に持って行ってベルトを交換し、エンジンまわりのボルトを締め直してもらった。

 そういうわけで、佑司の両親たちの旅行のため、カリフォルニア中を乗り回しても何ら問題はなかった。自動車を購入したのは、もちろん次郎との大陸横断の予定を考えてのこともある。これからニューヨーク市まで行くのである。

「大きい車だねえ。」

「そうねえ、両親たちを乗せて北カリフォルニアからメキシコまで行ったからね。」

「メキシコ?」

「そう。サンディエゴ市からメキシコのティファナに入ったんだけど、ぐるっと市内を回ってすぐサンディエゴに戻ったんだ。全部で四十分くらいかなあ。まあメキシコに入ったというだけだよね。」

 そういうわけで、佑司たち一行もメキシコに行ったことになるのだが、自動車に乗ったまま見ただけで、誰も車から降りなかったのである。メキシコに行くときもアメリカに帰るときも、国境で全員のパスポートを見せたけど、入国のスタンプさえ押されていない。日本人の観光ということで信用されたのかも知れない。

 ティファナはメキシコの街らしく、合衆国の街々と比べると『うらぶれた』感じがした。それを知っただけである。誰もスペイン語がしゃべれないし、買い物もなんとなく敬遠したのである。

 佑司が左の運転席、次郎は右の助手席に座る。次郎はバックパックを二人の間に置いた。前の座席はベンチ型で、左から右までずっとつながっている。このころの座席には、もうシートベルトがあったが、二人はもちろん締めない。法律上、シートベルトを締めなければならなくなったのはこれよりもずっと後のことである。

 また左側の運転席には藤(とう)で編んだ形の、プラスチックでできた座席シートが置いてある。サクラメントの自動車用品の店で買ったのだが、座った座席と寄りかかる背中部分とでL字型になっている。この自動車にはいちおうエアコンがあったが、その当時のカー・エアコンはたいして効かなかった。そのままでは背中などが汗でびしょびしょになる。だから背中の濡れを少なくするため、佑司は安い座席シートを購入していたのである。

「そうだ、お昼は?」

「飛行機の中で食べた。軽食だけど・・・。」

「私はホテルのレストランで朝ご飯を食べて、あまり空腹じゃあない。卵二個とソーセージ、ポテト、オレンジジュース、それにパンだけど、おふくろの分まで食べたからね――お昼はまあいいか。」

 ソーセージといっても「腸詰め」ではなく、豚肉を挽いて平たく成形し焼いたもので、色も赤くない。とにかく佑司は空腹ではないと言ったのだが、次郎はそれに対して別に何も言わなかった。

 エンジンをかけ、それから佑司はサングラスを出す。サンバイザーという、ウインドウの上のほうにあって、今は上にあげてある、日光を遮る「日よけ」のところから取ったのである。

 眼鏡をかけているから、その上から覆うようになる。サングラスは眼鏡がすっぽり隠れるほど大きい。正面の「ガラス」の部分がプラスチックらしく濃いみどり色で、フレームは黒、そのフレームが太く大きい。そのサングラスを佑司がかけるのを次郎は黙って見ている。

 それから佑司は自動車を動かし、二階に停めてあった車をまわして一階に出した。料金所で駐車料金を支払って表に出る。

 しばらく行くとリンカーン・ブールバードというフリーウェイである。右折し、あまりスピードを出さないで右端の車線を行く。合衆国はわが国と違って右側通行である。まもなく道路はトンネルに入り、空港の滑走路の下を走る。

 アメリカではすべての道路に名前がある。どんな短い道路でも名前がついているのである。そして住所は『道路について』いる。住所と道路は一体なのである。

 もちろん、リンカーン・ブールバードは自動車専用道路だから、そこに住所はついていない。だけどアメリカの住所の基本は、番地プラス道路名で、番地は道路の左右につけられているわけである――ふつう番地が「増える」方向に行くと、道路の左側が奇数で右側が偶数である。

 また、カリフォルニア州ではフリーウェイのほとんどが無料だ。有料なところもあるが、ロサンゼルス市内ではそういうところはなかった。つまり市内には料金所というものがない。もっとも、料金を取っていたら車が並んで渋滞でどうにもならないかもしれない。後に自動で料金を取る、つまり硬貨を投げ入れる形のところも出てきたが、そういう料金所はこの頃まだ、普及していなかった。

「今夜は、篠田さんのアパートにお邪魔する予定です。」

「篠田さんというのは?」

「サクラメント州立大学の先輩で日本から来たんです。一昨年の春に卒業して南カリフォルニアに移ったんだけど、ノーウォークという街に住んでいるんだそうです。」

「これから、そのノーウォークに行くの?」

「いや、今日は土曜日だけど、五時まで仕事だそうです。」

「仕事? 何やってんの?」

「芝刈り機を販売する会社に勤めているんだそうです。日本から輸入しているんですが、やっているのはセールスだと思います。」

 道路は空港の地下から出て、すぐにセンチュリー・フリーウェイと立体交差している。まっすぐ走る道路は南下しているので、左折して東のほうに行くことになる。

 フリーウェイには交差点がないから、左に行くにはまず西、つまり右に行き、右行きと別れて左行きに入る。本線の下をくぐることが多いが、その後、東行き本線に右から合流するのが普通である。多くがそういうかたちで左折する。

「高速道路がいっぱいあるね。」

「高速道路というか、フリーウェイですね。」

「あ、そうか、フリーウェイか。」

「そのかわり、鉄道なんてないですね、日本のような。」

「ニューヨークには、地下鉄があるけど。」

 そう次郎は言ったが、フリーウェイだから料金はかからないと分かったかも知れない。フリーというのはタダ・無料ということも意味しているのである。

 佑司はいかにも『知っている』ようにフリーウェイを行くが、もちろんロサンゼルスの道はあまりよく分からない。たくさんある、ここの道をきちんと覚えるには時間がかかりそうである。とりあえず今朝、今日に走る予定のところをロードマップで見て、フリーウェイの番号で覚えているのである。その道路地図・ロードマップはドアポケットに入れてある。

「これから、リトル・トーキョーに行きます。リトル・トーキョーというのは昔の日系人街で、市役所のすぐそばにあります。まあ篠田さんの仕事が終わるまで、ちょっとロサンゼルス見物ですね。」

 フリーウェイ一一〇号線との合流地点でまた左折して、今度はほぼ北に行く。空港からリトル・トーキョーのそばの市役所まで、ぜんぶで三十キロくらいである。

 フリーウェイから見えるロサンゼルスは高い建物がなく、ただ広がっているだけのように感じられる。次郎は「代わり映え」のしないフリーウェイからの風景をずっと見ていたが、しまいには飽きたように言う。

「高い建物、あまりないね。」

「そうですねえ。」

 しかしリトル・トーキョーというか市役所、つまり街の中心に近づくと、いくつか高い建物も並んでいる。そして、だんだんと車が混んで来る。「西一番街」という通りに出ようとしたが、どうもその出口はないようだ。だんだんともうひとつのフリーウェイと交差するように近づいてくる。その先で上を左右に横切っているのはサンタアナ・フリーウェイらしい。

 そこで本線と別れ、そのフリーウェイの手前を右の出口に走ってゆく。この出口はあまり車の通行が多くないのだが、そのまま行くとウェスト・テンプル街という通りに出た。

 土曜日の午後のためか、車での交通はそんなに多くない。南北に行くノース・ヒル街に右折して南に行き、次の通りはウェスト・ファースト街、つまり「西一番街」である。表示にあわてたかのように、佑司はそこを左折し東南へ行く。この近くは官庁街らしく、カリフォルニア州の裁判所があるようだ。その道路のまま、東南の方向に走って行く。


 やがて左手に見えるのがロサンゼルス市役所の威容である。立派な建物であるが、土曜日の午後なので観光客が何人かいるほかには周囲にあまり人がいないようである。ロサンゼルスのひとつの中心だが、そこを左に見て自動車は進んでいく。市役所のそばを過ぎると、同じ道なのに通りが東一番街になる。

「両親たちとは北から来たので逆方向からだね。その時はフリーウェイから西三番街で降りて、少し戻ったと思う。この道を東南に走ったのは同じ。」

「ここがロサンゼルスの中心だね。だけどニューヨークと比べるとたいしたことないね。」

 ニューヨーク市のマンハッタンと比較すれば、たしかにそこにある建物はたいしたことないのかも知れない。敷地が広く周りに余裕があって、立て込んでいるということもない。自動車はそのまま進んで行った。午後三時過ぎになっている。すぐにリトル・トーキョーに入り、サウス・サンペドロ街という通りで右折する。そこの左に有料の駐車場があり、この前に来たときにも駐車したのである。

 二十世紀の初め、リトル・トーキョーは市役所のそばにできた。ハリウッドに映画産業が入ってきたのと同じ時代である。ロサンゼルスが大都市になりつつあるころ、日系人たちがここに集まってきた。第二次世界大戦が始まるころ、ここの日系人の人口は約三万人だったと言われる。

 しかし戦争で日系人たちが収容所に入れられ、ここからまったく姿を消すと、メキシコ系や黒人系の人たちがその後をねらって入ってきた。戦争中、この辺りは軍需産業に働く人で込み合ったという。

 ロサンゼルスの他の地域は、そういった新しい住民を受け入れなかったらしい。この辺りの地主たちも新しい住民に住み着かれるのを避けたようだ。終戦後、戦争に関連した仕事がなくなるにつれ、そういった人たちはこの地域を離れ、日系人たちが戻って来るようになる。東に隣接するボイル・ハイツとともに、収容所から解放された日系人たちが帰ってきて住むようになったという。後にメキシコ系が入り込んでくるようになると、ボイル・ハイツの日系人は人数が減って行ったようだ。

 今はリトル・トーキョー自体にも、日系人はあまり住んでいないのかも知れない。まあしかし、この地域には比較的、日系人たちが多いのだろう。ともかく、その後でここは一次的には観光地として有名な場所に変わって行ったのである。

 駐車場に自動車を停めると、そのまま次郎は降りようとする。佑司は次郎を引き止めて言う。

「バッグをそのままにしておくと危ない。窓ガラスを割られてしまう。」

「ああ、そうか。」

「日本とは違う。後ろにしまおう。」

 ニューヨーク市ではカリフォルニア州と違い、学生はほとんど自動車に乗ることはないらしい。次郎にバックパックを持ってもらい、後部のドアを開ける。このドアは上にはね上げるのではなく、ガラスを下げ、その後でうしろに引いて開くかたちである。そのドアを開くと後部座席の背と同じ高さに上蓋があり、その下に佑司のバッグがおさまっていた。そのとなりに次郎のバックパックを入れてドアを閉め、ガラスを上げて鍵をかける。

 前のドアも鍵がかかっているのをもう一度確かめる。合衆国の駐車場では注意が必要なのである。今では日本でも、持ち物を見えるところに出しておくと危ないかもしれない。

 もっとも駐車中の被害は夜間に多い。この時のような午後に、しかも有料駐車場では人がいるので、あまり被害を受けることは多くないだろう。でも注意に越したことはない。

 佑司はサングラスをかけたままで、二人で前後して料金所の脇を通って、道路のほうへ行く。椅子に腰掛けて駐車料金を受け取っていたのは初老の日系人男性だった。そのまま歩いてサウス・サンペドロ街に出る。

 この通りはあまり商店がないが、銀行の支店がふたつほどある。そして北に歩いて東一番街の角に出る。交差点の向こう側の左の少し離れたところにロサンゼルス市役所などの建物が見える。リトル・トーキョーの近くには、立派な都会の景色がある。

 二人が歩いて行くタイミングでちょうど信号が変わり、二人は東一番街を渡る。そして渡って右、つまり東南のほうに歩いていく。この側の店は一階建てか二階建てが主で、それより高い建物がほとんどないが、ちょっと向こうには三階建ての建物があるようだ。

「通りのこっち側は田舎の感じだねえ。」

「そうだね、反対側にはホテルや銀行などいくつかあって、高い建物もあるけどね。」

 左手の店舗の中に菓子の「凮月堂(ふうげつどう)」がある。一九〇三年に創業した、この辺でも古い店だという。

 次郎はめざとく、その先に「リトル・トーキョー・ギフトショップ」という店があるのに気づき、早足で近づきドアを開ける。観光客相手の店のようで、あまり大きくない。ポストカードや、ロサンゼルス、リトル・トーキョー、ハリウッドなどの文字が入ったTシャツ、野球帽など、「ところせまし」と置いてある。

 そのそばに安物のサングラスがおいてあった。ただし八月も後半に入っているせいか、もうあまり残っていない。次郎はその中で金色の細い金属の縁(ふち)で濃い藍色のサングラスを選んだ。というか、選択肢はあまりなかったのである。

 佑司が冷蔵庫に入った水を買っているのを見て、自分も一本、掴んで会計に持って行く。店のオーナーとおぼしき日系人は、古いキャッシュ・レジスターの音を鳴らしながら操作していた。

 会計を済ませると次郎はそのまま、すぐサングラスをかけて店を出る。佑司のサングラスは下の眼鏡を隠すような大きなものだが、次郎のものは小さくて、大きな顔の上にチョコンと乗っている感じがする。

 そして、二人とも歩きながら、その場で水の入ったプラスチック瓶のフタを開けて飲む。もっともゴクゴク飲むのではなく、のどを湿らせる程度である。日本では『行儀が悪い』と思われるような仕草も、アメリカでは気にならないのであろう。そのまま、二人は並んで東一番街の北側の歩道を東南のほうに歩いて行く。

 ラーメン店や寿司屋が何軒か並び、そのとなりでは「チョップスイ」なるものをまかなっていると看板が出ている。それは「雑炊(ぞうすい)・雑碎」という意味の中華料理で、アメリカで始められた料理だという。日本でいえば、中華丼のようなものと考えればよいか。とにかく、日本人街に中華料理とはあまり合っていないような気もする。

 しかし、「貧乏人」の食べ物というか、「チョップスイ」というのはアメリカではどの街にもあるようだ。ただし看板がかかったその店は、この側で唯一の三階建てで建物が古い。一八九六年に建てられたランドマーク(歴史的建造物)だという。

 その先には西本願寺系のお寺がある。そこはリトル・トーキョーの北で東の端である。そこには「ジャパニーズ・アメリカン・ナショナル・ミュージアム(全米日系人博物館)」が一九九二年に建てられているが、この当時、存在したのはお寺だけである。佑司はそれほどに宗教に関心があったわけでなく、その点は次郎も同じだったかも知れない。入口の山門を見たがそれ以上、入ろうとするでもなく、信号が変わるのを待っている。そして東一番街を渡って南西の街区に行く。

 渡ったところが日本人街の中心のようだ。いろいろの店があるが食事の店や飲み屋が多い。それから土産物の店がある。

 もっとも、アメリカ人はいわゆる「お土産」を買うことは少ない。友人に買うより、自分の記念に買うことが多いようである。とにかく土産物を見ながら店から店へと、次郎と佑司は移動していった。

 結局、リトル・トーキョーにほとんど五時になるまでいた。次郎は日本人街訪問の記念に絵はがきセットを買ったようである。駐車場に戻ろうと歩いているとき、ふと次郎は言う。

「篠田さんにお土産は?」

「あ、そうだね。あまり考えてなかった。」

 佑司は日本から合衆国に渡って四年も暮らしているので、そういうことに「うとく」なってしまったのかも知れない。次郎はまわりに日本人が多いニューヨーク市に住んでいるせいか、その点でまだましだったのだろう。

「だったら、凮月堂だね。」

 佑司はそう言って、次郎を後に従えて、さっさと歩いてまた東一番街を渡った。凮月堂はサウス・サンペドロ街に近いところにある。急いでいたので「ハブタエ(羽二重餅)」を五個買って、そのまま紙袋に入れてもらう。おまんじゅうと言ったところである。あまりお土産という感じではないけど、まあ、ないよりはましである。

 結局、午後五時過ぎにまた自動車に乗り、左へ出て東四番街で左折し、フリーウェイ一〇一号をめざす。フリーウェイに入ってまもなく道路は合衆国道五号線に変わり、そのまま南東の方向に行く。

 そのフリーウェイをノーウォーク出口で降りる。そしてインペリアル・ハイウエイで右に曲がり、すぐにパイオニア・ブールバードで左折して北行し、そのまま行くとノーウォークのショッピング・センターである。


 右側にショッピング・センターが始まるところにある、オレンジ街という名前の道路で左折して、しばらく行くと二階建てのアパート群が右に見える。そこの一階の部屋の前に着いたのは午後六時の少し前であった。夏時間のせいでまだ夕方という感じがしない。

 「シノダ」というローマ字がドアの右に書かれた部屋の呼び鈴を押す。少ししてドアが開けられ、篠田隆が表に出てきた。隆は薄いみどり色の半ズボンにゴムの草履ばきというリラックスした格好である。上は前にボタンのない、かぶる形の白い半袖のシャツで、胸と腕に横一本のみどりっぽい線が入っている。

 佑司はさっとサングラスを外して左手に持ち替えると、隆は握手を求めて右手を出してきた。握った手を激しく上下に振って言う。

「やあ、本田さん、お元気そうですね。」

「お久しぶりです。」

「そして、こちらが村上さんですね。どうぞよろしく。」

 握手を求めて右手を出してくるので、次郎も相手の手を握るが、「がっちり」した握手に眼をまわしたような顔をする。そんな変化に気がつかないのか、あるいはアメリカナイズされたのか、微笑みながら隆は次郎の身体をジッと見る。

「身体がいいですねえ。柔道か何か、やってます?」

「高校一年まで柔道をやってました。」

「いやあゼッタイ、そうじゃないかと思いました。」

「初段を取ったんですが、勉強が忙しくなってやめました。」

「それで、コロンビア大の大学院でしょう? いやあ、すごいですねえ。」

 『ほめる』ところは、営業マンになりきっている。隆の身長は次郎と佑司のちょうど中間くらいで、ふつうの体格である。ただ年齢は二人より五つほど若かった。佑司より二年早く卒業したというから、年上を期待していたかもしれないが、ずっと年下なのである。ただ合衆国では先輩・後輩ということがないから、本人はあまり年齢を意識していない。つまり、ただの友人という態度で接してくれるのである。

「これ、凮月堂の・・・。篠田さんにお土産を、と思って。」

「ああ、リトル・トーキョーのね。どうも。」

 あまり高価のものでなく、お土産にちょうど良かったのかも知れない。そして、二人が乗って来た自動車の駐車が心配になったのか、アパートの前を見渡す。

「車はどこに停めました?」

「そこのシボレーのスティションワゴンだけど、そこで大丈夫だよね。」

「えーと、はいはい、大丈夫。それでと・・・、出かけますか? 食事に行きましょう。」

 凮月堂の紙袋をアパート入口のすぐ内側に置き、鍵をポケットから出してかける。たくさんの鍵がいっしょになっていて重く見える。そして、サングラスを持ち出したが、それは次郎と佑司のものの中間といったところ、つまり、あまり大きくなく小さくなく、普通の大きさである。それをかけながら言う。

「今日は私のおごりで・・・。好きなメキシコ料理を考えているのですが、メキシコ料理は大丈夫ですよね?」

「サクラメントではメキシコ料理はめずらしくない。ニューヨークは?」

「あまり多くない。私は大丈夫だけど。」

「じゃあ、まかせてください。」

 道路を南に歩いて、すぐに斜めに南西にいく道がその先の十字路に加わって、五叉路交差点になっている。ショッピング・センターがその五叉路交差点の右側の手前まで続いている。

 信号でショッピング・センターの向こう側に渡り、すぐそこにあるメキシコ料理店「ロス・コンパドレス」に行く。スペイン語で「親友」という意味らしい。大きな店のようだが、あまり大きな看板はない。アメリカでは大きな看板はないのである。

「飲みたいんで、運転しなくてもいいところです。」

 そこは隆のアパートから歩いてほんの数分で、自動車で行くほどのこともない。ドアを開けると、スペイン語を話すマネージャーが出てきて、すぐにテーブルに案内される。

 窓際の良い席で、向こう側の公園か、窓からすぐそばに木が何本か見える。どうも六時で予約していたらしい。窓側に次郎が座り、通路側に佑司、そして隆は反対側の通路近くに座る。次郎はしばらく黙って窓の外を見渡している。

 マネージャーは隆の顔なじみか、スペイン語か何か、小さい声でしゃべって笑顔を見せる。そしてメニューを各自に置いて去っていった。

「メキシコのビールは大丈夫ですよね?」

 メニューを見始めると、隆は言う。次郎と佑司は何も言わずにうなずく。右手を高く上げ、出てきたウェイターにコロナ・ビール三つとワカモーレをとりあえず注文する。

「スペイン語が少し分かるようになりました。まだ、ちょっとですけど。」

 メニューには英語とスペイン語が使われている。次郎と佑司の二人にはスペイン語は分からないが、英語がいっしょに書かれているので助かる。佑司はメニューを見ながら、チリ・ヴェルデを注文することにする。豚肉のみどり色のソース掛けである。次郎はファヒータ・ミックスタ、つまりエビ、ビーフ、チキンのミックスグリルである。隆はカーニタス・ブリトーをということにした。豚肉のブリトーである。

 ウェイターが瓶ビールとワカモーレを持ってくる。ワカモーレはアボカドのデップ・ソースで、かごに入ったコーンチップスももちろん一緒である。コロナ・ビールにはライムの四つ割をさらに上下半分にしたスライスが瓶の口に刺さっている。

 隆はそのスライスを瓶の中に絞って、それからそのまま瓶の中に押し込む。そして三人が瓶を持って「チア」と言って瓶をぶつける。グラスではなく、瓶から直接飲むのである。

「ロサンゼルスにようこそ。もっとも正確にはノーウォークですが。」

 隆はそう言ってからウェイターを呼び、それぞれが料理を注文する。ウェイターが行ってしまうと、コーンチップスでワカモーレをすくって食べる。まもなく隆のビール瓶は空になり、またウェイターを呼ぶ。

 すぐに持って来たのはテキーラのカクテル、フローズン・マルガリータである。差し渡しが十センチ以上もある、丸いシャンパン・クーペで出てくる。クーペの縁にはずっと塩があり、中には削った氷が入り、ストローがつき刺さっている。

「いやあ、マルガリータが好きになって。こういうところに来たいというのは、このカクテルですよ。それと、ワカモーレ。」

 コーンチップスにワカモーレをつけて、ニコニコと幸せそうに食べる。コーンチップスにワカモーレは、なるほど『クセになる』のかも知れない。

 次郎と佑司も同じカクテルを頼んでみる。佑司はストローで吸ってなるほどという顔をするが、次郎はあまり気に入ったという反応はない。次郎はそんなにアルコールに強くないし、東海岸から来ているので、もうじき深夜という身体なのである。

「本田さんは、秋からニューヨークの大学ですか?」

 隆はそう言って、佑司を見る。

「そうです。その前に村上さんと大陸横断です。」

「大陸横断、いいですねえゼッタイ。できたら私も行きたいくらいです。」

「まあ最初はカリフォルニア縦断ですね。」

「どこへ行くのですか?」

「まずハリウッドですね。その次はハースト・キャッスル。」

「ああ、どちらにも行ったことがあります。」

 そう言って、フローズン・マルガリータをストローで吸う。


「ところで、何て名前でしたっけね、州立大学で日本語を教えていた先生?」

「森山先生ですか?」

「そうそう、森山先生。先生はその後、どうですか? 元気ですか?」

「いやあ、あいかわらずだと思います。元気ですよ。」

「クリスマスカードを送ろうと思ったのですが、住所が分からなくて。」

「そう言えば住所は私も分からないですね。手紙は大学へ出すという手もありますね。」

 森山孝司先生は日本から行った教授で、専門は法学だがカリフォルニア大学バークレー校で博士課程まで終わって、その後、州立大学で日本語を教えている。佑司は森山先生にお世話になったが、隆はそれほど会っていないようである。だから、結局、そのままカードは出さないのではないだろうか。

「それで、大学院の入学試験を受けたのでしょう?」

「十二月に州立大学で統一試験を受けて、その結果が一月に送られてきました。」

「なるほど。それから各大学に応募したというわけですね。」

「そうです。カリフォルニア大学バークレー校なんか早かったですよ、不合格というのが。応募書類を出して、ほとんどすぐ返事が来て。州立大学は二流ということで、そこを卒業して入学した人はいないんじゃないかな。」

「各大学院が書類選考だけで、選ぶんですね。」

「そうです。日本との違いは『推薦状』ですね。日本ではあまり使われないし、使われても良いことばかりが書いてありますよね。合衆国では違います。どれだけ本当らしく書かれているかですが、アメリカ人はあまりウソを書かないというか、知らないということは知らないと書くというか。」

「それが日本との違いというわけですね。」

「応募書類に、入学後、その推薦状が見たいか、なんて質問と、読みたい・読みたくない、みたいな選択肢があって、それが推薦状を書く人に分かるようになっています。私は社会心理学の教授と森山先生に頼みました。」

 次郎も興味深そうに聞いている。

「あ、そうだ、一校だけ面接を受けました。ハーバード大学。」

「やっぱり受験したんだ。」

「そう、有名な教授が電話で『バークレーまで行くのだが、会えないか?』って。それで出かけて行きました。」

「カリフォルニア大学バークレー校?」

「そう。三十分ほど話したかなあ。その後、なかなか知らせがなかったので、ひょっとしたらと思ったんだけど、結局、ダメだった。結局なんの連絡もなかったんだ。」

「そうかあ、ハーバード大学はもう少しだったんだね。」

「うん。だけどハーバードは入学申請書類が変わっていたね。オヤジの年収だとか、所有している土地の面積だとか、自動車の型だとか。」

「そんなことまで?」

「そう。まあ、だからオヤジが所有していた乗用車が小さかったのが、不合格の理由だって、オヤジたちが来たとき言ったけど、オヤジは黙って何も言わなかった。」

 その冗談はおかしかったとみえ、隆は吹き出した。次郎も吹き出しはしなかったけれど、おもしろいジョークと思ったようだ。小さな乗用車などというが、アメリカへの輸入がその後に増えていった。しばらくすると、乗用車は貿易摩擦のひとつの要因となっている。

 注文した料理の準備ができて、ウェイターは丸いスチールのお盆に乗せて持ってくる。そしてテーブルのそばに台を置いて、そのお盆を乗せると、テーブルの上に間違いなく料理を並べていく。誰がどの料理を注文したか、あらためて聞くまでもないのである。

 料理が並び終わると、隆はまたフローズン・マルガリータを頼んでいる。

「結局、受かったのがコロンビア大学だったわけね?」

「うん、そう。」

「で、村上さんがいる大学の大学院だったんですね。」

 次郎は声を出さなかったけれど、うなずいて隆の発言に応じている。

「村上さんは、出身はどこですか?」

「千葉県の習志野市です。」

「ああ、そうですか。私は静岡県の磐田市です。ところで、村上さんは大学院で何を勉強しているのですか?」

「英語教育です。」

「自分で英語を習うんじゃなくて、英語を教えるんですね。」

「そうです。教育学大学院のマスター(修士)コースです。」

「日本でそういう教育をする人が求められているんですねえ。」

「まあ、そういうことを考えてます。」

「いやあ、ゼッタイそういう人がこれから必要になりますって。」

 佑司はまたビールを注文する。次郎はあまりアルコールに強くないから、料理を中心にする。そして隆はフローズン・マルガリータを飲んでいる。

 佑司はそんな隆に尋ねる。

「篠田さんが南カリフォルニアに来て二年ちょっとになりますね。」

「ええ、早いですね。」

「芝刈り機を売っているんでしょう? あの、エンジンで動くやつ、トコトコと。」

「ああ、あの小さいのもあるけれど、私が売っているのは乗って運転するやつ。」

「ええー、ああそうか・・・。日本みたいに、小さいのを想像したんだけど。」

「うちの会社でも、係によっては、ああいう小さいのも扱っているけど、私は大型の乗るようなやつで、どちらかというと南カリフォルニアというより、合衆国全体を担当しています。」

「そうですか。」

「会社はここノーウォークにあるんですが、対象は合衆国ですね。この間はフロリダに出張しました。向こうに支社があって、社員が何人かいるんです。」

「へえ、なかなかしっかりした会社みたいですね。」

「う〜ん、難しいですね。」

「何が、ですか?」

「アメリカの会社ですが、やはり日本の会社の子会社なんですね。」

「ああ、そうか、そういうことになりますね。」

「ここの社長も日本の会社から送られてきています。」

「なるほど。」

「結局、私は『現地採用』でしかないのかな、なんて考えることがあります。」

 酔っているのか、隆は少し細かいことを話している。

「明日の午前は、日本の親会社の専務が来るというのでロスの空港まで迎えに行かなくてはいけないのです。そういうわけで今日は午後五時って、これで早引けですけど。」

 今日は土曜日なのに仕事をしなくてはいけない。明日は日曜日なのに親会社の専務を迎えに行かなくてはならない。子会社の社員はたいへんである。

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