第30篇 人間とは

少女は歩いていた。

脇には父の手があった。

自分の二倍以上の大きさの父の手を握り、少女は杖をつきながら歩いていた。


盲目なのだ。

戦争で投下された有毒ガス攻撃で、彼女は視力を完全に失った。


戦争は、少女に深刻な心の傷を与えた。

飛行機の音。

銃撃の爆音。

歩兵が喚く声。

すべてが彼女に傷を与え続け、怯えさせた。


父は、少女を連れて歩いていた。

目的地はあった。

現在まだ、安全だと言われるセーフティエリア。

そこに行くためには、いくつもの戦場を越えなければならなかった。


コツ、コツ、と地面を杖でつつきながら歩く。

戦闘機が空を飛んだ。

少女は小さく声を上げて、かたわらの父のジャケットにしがみついた。


「……お父さん……」


か細い声が震えている。

父と呼ばれた存在は、答えることなく、革の手袋をした手で少女のことを抱き上げた。

そして、荒廃した土地を再び歩く。


銃声。

怒声。

悲鳴。

死の音。

死の声。


死。

死。

死。


全てが死んでいく。

全てが全てを殺して、殺されていく。

壊されていく。


少女は見えない目を開いて、父の頬を触った。


「お父さん……」

「…………」

「お父さんはいなくならない……?」


答えはなかった。

父と呼ばれた存在は、無言でただ、少女を護りながら歩き続けるだけだ。

少女は震えが収まった手で、父のジャケットを引き寄せて抱いた。


二人は進む。

死の大地を。

戦争により汚染された土地を。

戦争により荒れ果てた土地を。


放射線。

毒ガス。

赤外線。


全てが人間の生存を阻むために過剰に投下され、広がっていく。

父と娘は、その中をゆっくりと進んでいく。


少女はその光景を見ることはない。

傍らの父の顔も思い出せない。

記憶喪失なのだ。

頭に入り込んだ爆弾の破片により、少女は重度の記憶障害を起こしていた。


自分の名前さえもわからない。

「父」に施された処置で生命は繋いでいた。

繋いではいたが、防護服も装備していない彼女の体は、もはや自立して歩くことも困難な程弱りきっていた。


休憩中、汚泥の上の岩に座った父の膝の上で、少女はか細く笑った。

そして、父の顔を見上げる。


「お父さん、お母さんのところにはいつ着くの?」


父は、答えなかった。

少女は、自分達は母の所に向かっていると思いこんでいた。

歩き続ければ、耐え続ければ。

母に会うことができる。


そう、父に手を引いてもらっているように。


だから少女は、今日も杖をつき、父に寄り添って歩く。

銃撃。

爆撃。

全てが彼らを阻もうとする。


しかし黙々と二人は歩く。


ある日、少女は父に言った。

もう歩くことが出来ないと。

足が、どうしても前に進まないと。


父は立ち止まり、少女が足を踏み出すのを待った。

少女は杖を取り落し、その場に倒れ込んだ。


血を吐いて動かなくなった娘を、父はしばらく見下ろしていた。

やがて彼は、静かに少女の亡骸を抱き上げた。

そしてゆっくりと、再び歩みを進め始めた。


何日も、彼は歩いた。

手の中の少女が腐り、肉が削ぎ落ち。

そして白骨が見えるまで。


着ていたジャケットを亡骸に巻きつけた彼は、何度も戦場を越え、そして辿り着いた。

汚染された土地。

原子爆弾により、まだ中性子レベルが高い場所。


人間も、アンドロイドでさえも長時間の存在が難しい歪んだ場所に、彼は立っていた。


黒い泥濘に、白い木材で作られた十字架が、一面に並んでいた。

数十、数百。

数え切れない十字架だった。


父は、娘の亡骸を近くの穴に入れると、黒い泥濘を手でそっとかけた。

そして木材を組み合わせた十字架を、その埋めた穴の奥に突き刺す。


名前もない墓標。

名前も知らない墓標。


父はそれをしばらくの間見下ろしていた。


さやさやと、風が吹いた。

ここには戦闘機の音も。

爆撃の音も。

歩兵の怒声も。

死の臭いも。


何もない。


ポツ、ポツと黒い雨が降り出した。

父は、ジャケットを振って泥濘を落とすと。それをまた羽織った。


足元には、少女が持っていた杖が転がっていた。

暫く考えるようにそれを見つめ、彼は杖を拾い上げた。

そして、背中を若干丸めて、コツ、コツ、と地面を叩いて歩き出す。


ギィ。


彼の、機械の関節が鈍い軋みを上げた。

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