第21篇 心の在り処
「生体プログラム起動。全ての設定をニュートラルへ。ライフライン、接続開始。覚醒まで六十秒」
AIの無機質な音声が、誰もいない、真っ白な壁と床、天井に囲まれた広い研究室の中に響く。
強すぎるほどの光に照らされたそこに、生物の気配はない。
計器類はまだ生きていて、モニターには様々な数列が表示され、消えてを自動で繰り返していた。
部屋の中央に、十数個の人間大の酸素カプセルのようなものが円形に並べられていた。
その中は低温なのか、氷と霜が張っていて何も見えない。
しばらくして、カプセルの一つから音を立てて内部の冷気が排出された。
そしてガコン、とハッチが揺れ、ゆっくり開き始める。
「意識塊のインストール完了。脳内伝達機構、シナプスの正常稼働を確認。現状認識反応を確認。オールグリーン」
中に入っていたのは「人間」だった。
全裸の女性……二十歳前後ほどの人間が横たわっていた。
彼女は緩慢な動作で体を動かすと、ヒーターで加熱されて溶けた霜から出た水分を、ポタポタと垂らしながら上半身を起こした。
そして、しばらく虚脱した顔で周囲を見回す。
「おはようございます。良い朝ですね」
AIが壁のスピーカーから女性に呼びかける。
彼女は数秒間沈黙した後、軽く咳をしてから細い声を発した。
「おはよう……CA38。今は何年?」
「前回の『乗り換え』から三百五十年四十二日と十一時間五十五分が経過しています」
「三百五十年……?」
信じられない、といった顔で彼女はそう繰り返すと、長い金髪を振りながらカプセルから降りた。
そして裸足で合成リノリウムの床を踏みしめ、計器の方に近づく。
「観測データを出して頂戴」
「かしこまりました」
AI……CA38はそう答えて、モニターの一つに様々な写真や数列を表示し始めた。
それらが画面を埋め尽くす。
女性はやがて、泣き出しそうな顔でモニターから目を背けた。
「……まだ確認されますか?」
「ううん、今はもう要らない」
CA38の言葉を拒否し、彼女は顔を上げて言った。
「衣服を用意して。あと……お腹が減ったわ」
「かしこまりました。ルームのシャッターロックを解除します」
プシュー、と空気が抜ける音がして、研究室の扉から空気が抜け、ゆっくりと開いていく。
女性は一つ、小さな息をついて出入り口に足を向けた。
◇
白衣の研究服に着替え、温かいコーヒーをカップから飲みながら、女性は研究室のモニターを睨むように見ていた。
そして指先でパネルを操作し、計器類を動かし始める。
「報告を頂戴。リアルタイムの」
「かしこまりました」
CA38が一拍置いて続ける。
「観測機周辺大気中の放射線汚染濃度、三千九百四十六倍のシーベルト値。水質汚染、生体反応生存不可値より五百二十パーセント超過。土壌汚染、同様に八百四十五パーセントの超過。動体反応、生体反応、観測エリアA、B、C、D、E全域でゼロ。一切確認できません」
「前回の『保存』からの変化は?」
「ありません」
その端的な言葉に、コーヒーを口に運ぶ女性の動きが一瞬止まった。
彼女はゆっくりとカップをテーブルの上に置くと、深い溜息をついた。
「そう……何も、変わらないのね」
「……分かりません。数百、数千年後の観測で、あるいは」
「気休めはいいわ」
強い語気でその言葉を打ち消し、女性は金色の髪を掻き上げ、気だるげに両手で顔を覆った。
「バイタル値の低下が見受けられます。今回の『体』の性能に若干の劣化があるようです」
「何回繰り返したかしら……これを」
彼女は呟くように言った。
CA38が淡々と答える。
「今回で八十三回目の『インストール』です」
「何も変わらない。私の姿も、私の周りも、あなたも。変わらない時間の中に閉じ込められて、少しずつ体だけが劣化していく。ねえ……私は目覚める度に思うんだ」
「何をでしょうか?」
「私はもう、死んでいるのではないかって」
「ご安心下さい。生体パルスは正常に感知されています。医学的にも、あなたは確実に『生きて』いると言えるでしょう」
「私が聞きたいのは……そんな言葉じゃない……」
絞り出すようにそう、女性は呟いた。
黙り込んだAIに対し、彼女は顔を手で覆いながら続けた。
「何の意味もない。意識をネットワークにアップロードして、培養した『私』のクローン体にその意識をダウンロードする。そうすることで、世界の環境にある程度の変化があるまで『観測』する。その為に私は造られたし、それが私の仕事だとも思っている」
「…………」
「でもね。何百年。何千年経っても何も変わらない、この汚染された世界の中に閉じ込められて思うんだ」
彼女は自嘲気味に小さく笑った。
「私はこの世界に必要なのだろうか。私は、本当に今『生きて』いるのだろうか……」
「…………」
「新しい体は、リサイクルでいくらでも生産できる。この施設だって、半永久的に稼働するかもしれない。もしかしたら、世界が浄化されて、外に出れる日が来るかもしれない」
「それは……」
「分かってる。希望的観測は希望的観測でしかないって。でも、怖い。すごく怖いんだ」
「怖い……とは?」
「CA38は、人間の心ってどこにあると思う?」
唐突に問いかけられ、AIはしばし考慮した末に言葉を発した。
「脳でしょうか?」
「そうかもね……」
女性は息をついて、椅子に体を預けて天井を見上げた。
「どうしてそんなことをお聞きになるのです?」
AIに心配そうに問いかけられ、彼女は少し沈黙した後に言った。
「もし、心が肉体に宿るのだとしたら」
「…………」
「肉体を捨てて、新しい体に意識をダウンロードしただけの私は、もう『前』の私ではなくて。もう、別の存在であって……かつてあった私は、既に『死んで』いるのかなって。そう考えると怖くなるの」
「…………」
「今の私は、一体『何』なんだろう。私は、一体誰なんだろう。何も変わらない、何も進まない。時間が止まった世界に一人だけ生きていて、何の意味があるんだろう」
「…………」
「……ごめんね。AIのあなたに言っても、難しすぎる話だったね」
「……いいえ、お気になさらず」
CA38は淡々と彼女にそう返した。
◇
クローンの体には欠点がある。
それは「長くは保たない」ということだ。
通常の十倍以上の速度で劣化していくため、「観測者」である彼女は、定期的に自分の意識を機械の中にアップロードする。
そして数百年の眠りにつく。
保存された記憶は、セットされた、また彼女が目覚める時間に、新しいクローンの体、その脳に流し込まれる。
インストール、とそれは呼ばれていた。
彼女は、宇宙ステーション内に設置された「観測所」でそれを行うためだけに造り出された存在だった。
その事実でさえも、彼女は知らない。
人間が壊し。
戦争が穢した大地がいつか、自然により浄化されるその時まで観測し続ける。
それが、彼女の役割。
何のために?
誰のために?
それも彼女は知らない。
そもそも浄化されるのか?
大地は元に戻るのか?
それは、誰も知らない。
だからこそ彼女はこの汚染され、時が止まった世界に独り、「設置」されていたのだ。
それが誰によるものなのか。
何に定められた運命なのか分からないが……。
数週間の記録活動を終え、意識をコンピューター上にアップロードして。
機械により生体活動を停止され、今回も彼女は眠りについた。
次に目覚めるのは、同様に三百五十年後。
CA38は、クローン体製造システムを稼働させながら、彼女の「意識」を深い階層に厳重に格納した。
次にCA38が、「彼女」と会話ができるのは、また三百五十年後。
電気が落とされ、暗くなった部屋を見つめていたカメラの電源を切り、AIは自分の意識を待機モードに切り替えた。
心。
彼女はそう言っていた。
心は一体、どこに宿るのだろうか。
もしそれが本当に体に宿るのだとしたら。
彼女の云う通りに、体に宿っているとしたのならば。
それは大層、自分にとって残酷な真実だ。
CA38は、意識が落ちる直前に一つ、意識プログラムの中にそんな「エラー」を吐き捨てた。
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