第17篇 青い空
灰色の世界が広がる。
汚染された大地。
崩れ去った文明。
いつしか人は全てを忘れ、全てを失くした。
見ないふりをした。
記憶から焼却しようとした。
在りし日の繁栄を。
在りし日の幸せを。
その結果、弱く、生き残った人類(ヒト)が取った道は、限られていた。
ある者は地下深くで冷凍睡眠を行った。
戦争のない、浄化された世界で目覚めるために。
ある者はシェルターの奥に隠れ続けることを選んだ。
残存人類殲滅機構が動きを止めるまで、何世代も。
ある者は自らの体を機械と化した。
ヒトを排斥する存在と化すことで、自らの命を永らえさせた。
すべてが灰色だった。
大地も、空も、海も。
何もかもがうねりを上げて、何もかもをも飲み込んでいた。
ヒトは絶滅しなかった。
しぶとく、蟲のように生き残っていた。
そこに何の価値があるのか、何の意味があるのか。
それを、生きる人間達は既に知らなかった。
◇
「今日も、空は青いの?」
少年は、少女にそう聞いた。
地下シェルターの奥、医務エリアの狭い病室だった。
少女はベッドの脇の椅子に腰を下ろしている。
少年はベッドに上半身を起こして、目を閉じたまま少女の方を向いた。
「うん、もうすぐ外に出られるよ」
少女は明るくそう言って、少年の手を握った。
そして強く握りしめながら続ける。
「だから、手術頑張って。一緒に青い空を見るんでしょう?」
「……そうだね」
少年は少しだけ寂しそうに笑うと、ゆっくりと目を開けた。
眼球に既に光はなく、瞳孔が異様な形になっている。。
完全に失明しているのだ。
それに、少年の顔色はまるで白いチョークを塗りたくったかのように真っ白だった。
「青い空かぁ……」
少年は見えない目を指でなぞるように触って、掠れた声で言った。
「手術に成功したら、見えるかな……」
「見えるよ。きっと。だから元気を出して」
少女は今日も、そう言って少年を励ます。
彼の体細胞は放射線の重度被爆により崩壊を始めている。
癌細胞も発達と転移を繰り返し、目は熱により焼けている。
戦争の、傷痕だった。
「また来るね。明日の手術、上手くいくように私祈ってる。ずっと、ずっと!」
「うん、ありがとう」
少年はやつれた顔でにっこりと笑ってみせた。
◇
少年の手術が終了して、更なる治療のために離れた別のシェルターに搬送されたのは、その次の日のことだった。
時を同じくして、少女が住んでいたシェルターが、アンドロイドの残存人類掃討部隊に襲撃された。
銃弾が雨嵐と吹き荒れ、隔壁は破られ、シェルター内のヒトは根絶やしにされた。
そこには幼い少女も含まれており。
その死は、記録されることもなく、ただの「生体反応消失」の一つとして片付けられた。
◇
目覚めた少年は、少女の死と、住んでいたシェルター内の家族の死を聞かされた。
意外なことに、包帯で巻かれた両目からは涙は出なかった。
体の衰弱もあったのかもしれない。
しかし、心のどこかで「自分達は、自分も含めていずれそうなる」……そんな達観した「理解」があったのだ。
心はキリキリと刺すように痛んだ。
もう、家族の声を聞くことはない。
もう、毎日励ましてくれた彼女の声を聞くことも、その体温を感じることもない。
「一緒に、青い空を見るって言ったじゃないか……」
彼に出来たのは、押し殺して掠れた声を、誰にともなく絞り出すことだけだった。
診察をしていた医師が、聞こえなかったのか聞き返す。
「ん? どうしたね?」
「……いえ、何でもないです」
「術後の経過は順調だよ。視力も、少しずつだが戻ってくる筈だ」
「先生」
少年は、空虚な声で医師に問いた。
「僕一人生き残っても、どうせみんな、アンドロイドに殺されてしまうんでしょう?」
「…………」
医師はすぐには答えなかった。
彼は少年の頭をポンポン、と撫でると優しく言った。
「そうかもしれないな……」
「…………」
「でも、私達は生きている。君も、辛い手術を乗り越えてまだ生きている。それは、とても大事なことだと思わないかい?」
「生きて……いる?」
少年は小さく笑って返した。
「生きてしまっている、の間違いじゃないですか?」
「いいや。生きているんだ。たとえ明日死んでしまう命だとしても、今日、私達は、君は、生きている。今、この時を生きているんだ。だから私達医師団は、たとえ明日アンドロイドが攻めてきたとしても、君を助けたことを後悔したりはしないよ」
「…………」
「そして、私達大人から、君達へのこれは、贖罪でもあるんだ」
「……贖罪……」
「身勝手かもしれないが……生きてくれ。君が、君自身が満足できるその時間を、時間いっぱい」
そう言って、医師は静かに部屋を出ていった。
少年は毛布の裾を掴んで、歯を噛み締めていた。
「勝手だ……みんな……」
押し殺した声は、悲痛な響きを含んでいた。
◇
少年のシェルターは、運良くアンドロイド部隊の襲撃を逃れることが出来ていた。
みるみるうちに回復した少年は、目を包んでいた包帯を外し、松葉杖をついて歩いていた。
傍らの医師が、嬉しそうに口を開く。
「どうだい? ちゃんと見えるかい?」
「…………」
少年は周りを見回して、医師に目を留めた。
「はい……見えます。綺麗に」
「そうか……良かったな」
「先生、お願いがあるんです」
少年は息を吸って、そして医師に言った。
「外の様子を見れますか?」
「…………」
医師はすぐには返事をしなかった。
勿論、アンドロイド部隊の襲撃を察知するために、地表に設置された遠隔カメラの映像を見せることは可能だ。
しかし……。
今までの経過を知っていた医師は、言葉を詰まらせたのだ。
「…………」
黙り込んでいる彼に、少年は続けた。
「構いません。見せてください」
「……いいのかい?」
「いいんです。あの子も、そうした方が喜ぶと思うんです」
亡くなった少女のことを口に出した少年を、医師は管制室に連れて行った。
そして、係員に説明してコントローラーを操作する。
しばらくするといくつも重なったモニターの一つに、「外」の様子が映し出された。
それは、かつて「空」と呼ばれていたものだった。
砂嵐が吹き上がり、分厚く浮いている黒い雲は帯電してバチバチと雷を発している。
所々で黒い雨が豪雨となり、カメラの視界を汚していた。
「…………」
大人達は、その残酷な現実を見つめる少年を、無言で見守っていた。
やがて少年はモニターから目を離した。
その両目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「ああ……」
小さく呻くように呟き、少年は両目を覆った。
「そうだね、青い空だね……」
掠れた声が、灰色のモニターを塗りつぶす。
大人達の中で、その時初めて少年は、声を上げて泣き。
そして顔を覆ったまま、その場に崩れ落ちたのだった。
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