第12篇 涙はもう流れない

「病気が治ったら、どこに行きたい?」


彼は、私によく聞いた。

私はベッドに上半身を起こした姿勢で、彼を見て言う。


「病気はもう治らないよ」

「治るさ。絶対に。そうしたらまた、一緒に外へ行こう」


無菌室の壁を隔てての会話。

何十回目だろうか。

いつしか、数えるのを辞めていた。


「帝国との戦争も終わりが近づいてる。そうしたら、また平和な世界が来るよ」

「そう……だといいね」


曖昧に笑って、私は彼に向けて言った。


「毎日会いに来なくてもいいよ。あなたも、軍務で大変でしょう?」

「そんな事言うなよ。貴重な一日のうちの、癒やしの時間なんだ」


彼は微笑んで、椅子を軋ませて立ち上がった。


「さて……もう行かないと。また明日」

「……うん」



それきり、彼はもう現れなかった。

医師や看護師ははっきりとは言わなかったが、態度で示していた。

ニュースで見た、湾岸基地への帝国からの奇襲攻撃。

多数の死傷者が出たらしい。


巻き込まれて、死んだのだろう。


不思議と、涙は出なかった。

戦争に関わる人だ。

いつかはこうなることは自覚していたし、よく判ってもいた。

いつか突然、目の前からいなくなることは、どこか心の中で許容していた。


それが、自分が先か。

彼が先かの違い。

それだけだ。


『また明日』

が先に終わったのは彼の方。

自分ではなかった。

それだけのことだ。



もうベッドから体を起こすこともできなくなった自分。

痩せこけて醜くなった自分を、ベッド脇の鏡でぼんやりと見つめる。

最近は食事をするのも困難になってきた。

栄養は点滴で補っている。


ずっと、無菌室の天井を見上げる日々。

いつまでこうなんだろう。

いつになったら、自分は楽になるんだろう。

いくら考えてもそれは分からないことだった。


彼がいなくなった世界。

この灰色の世界で、私がこれから楽になることはあるんだろうか。

それも分からなかった。


ただ漫然と、ぼんやりと生きている。

生かされている。

眠って『明日』がやってきて。

そして、あなたはもう来ない。



そんなある日のことだった。

私に、アンドロイド化の臨床実験の話が来たのは。

脳組織が崩壊するより先に、脳を機械の体に移植する。

その臨床実験の、提案だった。


人間をアンドロイドに改造する技術。

帝国で発達したそれを、この国でも進めようとしているらしい。

それは医師から聞いた。


どんな副作用があるかも分からない。

そもそも成功するかも分からない。

しかし、どうせ放っておけば死ぬ私のような存在なら、赦されるのだろう……そう、彼らは考えたのかもしれない。


私は、その手術を受けることを承諾した。

どちらにせよもう、幾ばくもない命だ。

どうとでもなれ、と思っていた。



「おはよう、気分はどうだい?」


顔を覗き込んだ医師にそう聞かれ、私は体からモーターの駆動音をさせながら彼の顔を見上げた。


「段々慣れてきました。昨日は10メートル歩くことが出来たんです」

「そうか。術後の神経接続も良好なようだね。じきに脳神経と完全にリンクが終われば、自由に歩き回ることが出来るようになるよ」


医師のどこかいびつな笑顔を、カメラアイで見る。

私の体は、今は銀色のマネキン人形のような機械の体になっていた。

顔面だけ、人工皮膚で術前の顔が再現されている。

顔面の筋肉がまだ慣れていなくて動かないので、能面のような無表情だ。


私は、点滴もされていない腕を上げて、ゆっくりと手を開閉させた。

今迄ずっとあった、体中を包む倦怠感と病気から来る痛みはどこにもなく、そこにあったのはただの「無」だった。


手術を受けて、機械の体になれば楽になるだろう。

そう考えていた。

実際病気の影響は完全に消え、私は動けるようになった。

生きていけるようになった。


しかし、何もない。

何も感じないのだ。

手触りも、空気も、においも、何もない。


何も楽になど、ならなかった。


「無」なのだ。

今の私を包んでいたのは、ただの虚無。

何も感じず、心が動くこともなかった。


「それじゃ、午後からのリハビリをまた頑張ってくれたまえ」


医師がそう言って病室を出ていく。

私はぼんやりとカメラアイで周囲を見つめた。

肉体的な疲れはない。

横になる必要などどこにもないのだが、いつもの習慣でベッドに横になる。


機械の目に、ベッド脇に置いてある小さな写真立てが映った。

そこには、人間の男性の写真がはめ込まれていた。

誰だかは分からない。

昔知っていたような気もするのだが、思い出すことが出来ない。


胸の奥に支えているような、何か気持ちの悪い感触。

そして、どこか懐かしい、安心するような感覚。

何も感じず、虚無になった体だというのに。

何ももう必要ないというのに。


その写真だけは、置いておかなければいけない。

これは、私に必要なものだ。

そう、失ってしまった心がいつも言う。


見つめていると不意に、胸がズキリと痛むような感触を得た。

痛む場所など存在していないのだが、苦しかった。


この写真の男性は、誰なのだろう。

疑問には思ったが、口には出さなかった。

誰に聞くこともない。

この「人」は、ここに居なくてはならない人だ。


目尻が熱くなる感覚があった。

もう、私は涙を流すことなどできないが。

きっと、私の心は涙を流したがっているんだろう。

それだけは、何となく理解できた。



それから十数年の時が流れた。

私は何度も実験を繰り替えされ、遂には脳神経が改造に耐えきれずに破壊されてしまった。


既に人間としての尊厳を失っていた私は、そのまま改造に失敗された実験体達と同じ廃棄場に捨てられる事になった。


もう体はピクリとも動かなかった。

動力が薄れてきている中、じきに人工脳幹の動きが止まり、私の脳も死ぬだろう。

それは紛れもない事実であり。

意外なことに、私はそれに関しては何も感じなかった。


元々は十数年前になくしていたはずの命だ。

それが、虚無の体を得て何の意味もない生を終える。

それだけのことだった。


いつしか機械の体は、私の心を削り取り、何も思考せず、何も考えない、本物の機械に変えてしまっていた。

だから私は、このまま「稼働」が停止するのを待とうと、ただ思った。


右手に、強くボロボロになった写真を握りしめながら、私はスクラップの山の中でゴミを見つめていた。


もう、私には何もなかった。

その筈だった。


「病気が治ったら、どこに行きたいんだっけ?」


そこで、聞いたことのある声が聞こえた気がした。

もう動かないカメラアイを動かそうとして失敗する。

私の隣に、誰かがいるのが判った。


「治ったんだろう? 一緒に外に行こう」


ああ。

神様。

どうして。


どうして最期に、こんな残酷な幻覚を見せるのですか。


折角忘れられたと思っていたのに。

折角機械になれたと思っていたのに。


どうして。

どうして最期の最期にだけ、こんな酷いものを見せるのですか。


私の隣に腰をかけていた男性が、にこやかに微笑んで手を伸ばしていた。


「さぁ、手を握って。立つんだ。一緒に行こう」


私はもう涙を流すことは出来ない。

でも、それでも。

手を伸ばそうとした私の心に。


その時、涙が溢れた。

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