第8篇 雨

雨が降っていた。

ざあざあと、いつまでも。

黒い雨は降り続けていた。


シェルターから逃げ出した。

二人で、手を取り合って。

外を目指した。


一面の黒い雨だった。

防護服をバタバタと殴るその汚染雨に汚れながら、二人は手を繋いで走った。


生きようとした。

アンドロイドの公安部隊がシェルターに突入する寸前、それに気づくことが出来たのは二人だけだった。

青年と少女は、シェルターで生き残っていた他の全ての人間を犠牲にして、自分達だけ逃げた。


逃げた。


だいぶ走っただろうか。

ざあざあと、雨が降っている。

白い防護服はそれでドロドロに汚れていた。

放射線の危険値を示すアラームが鳴っている。


防護服を着ていても、尚遮断できない強い放射線。

青年と少女は、それに少しずつ蝕まれていた。


二人にはもう、行く所はどこにもなかった。

彼らには、未来も、希望も何もなかった。

在ったのは今。

今、ただこうして手を繋いで、滅びゆく世界を前に立ち尽くしている。


黒。

黒。

黒。


黒い雨。

黒い空。

黒い地面。

黒い水溜り。


少しして、青年が少女の手を引いた。

二人は、雨が凌げるガレキの山の中に体を潜り込ませた。



青年は、防護服のヘルメットを脱いだ。

そして大きく息を吸う。

もう、酸素量が残り僅かだったのだ。

少女もヘルメットを脱ぎ、荒く息をつく。

彼女は、ポタポタと体中から黒い雨を垂れ流しながら、小さく笑った。


「はは……」

「…………」

「終わったね、私達……」


少年はヘルメットを脇に投げ捨てると、少女を強く自分の方に引き寄せた。

そして汚染された空気の中、彼女の唇に自分の唇を合わせる。

少女は少し驚いた顔をしていたが、やがて彼の求めるままに虚脱し、貪るようにその口を吸った。


雨が降っていた。

ざあざあと、全ての音を掻き消すように。


しばらく後、青年と少女は膝を抱えてガレキの中、寄り添っていた。

少女は青年の肩に首を預けている。

青年は手を伸ばし、少女の肩をそっと抱いた。


言葉は、もう要らなかった。

二人に残された時間は幾ばくもなかった。

汚染雨は霧のようになり、周囲に放射能を撒き散らしている。

吸い込んだ彼らの顔色は悪く、心臓の動悸が段々と緩やかになっていくのが分かる。


少女は手を伸ばした。

青年はそれに応え、彼女の手を握った。

強く。

強く。


黒い雨が降っている。

何もかもを否定するように。

彼らの脆弱な存在を、消し去ってしまうかのように。


「……あたしね、戦争が終わったら行きたい所があるんだ」


唐突に、掠れた声で少女は言った。

青年が彼女を見下ろして、言う。


「どこに?」

「もう一度、太陽を見たいの」

「…………」

「太陽がある場所に行きたいなぁ」

「行けるさ」


青年は小さく咳をしてから答えた。


「雨はいつか止むんだ。いつか。だから、あの黒い雲の先に、俺達は行ける」

「…………」


少女は泣きそうな顔で青年の手を握った。


「私達は、もうじき死ぬんだよ? 行けないよ」

「…………」


端的に告げられた事実。

その重さを、雨が掻き消していく。

圧倒的に。

絶望的に。

雨音は、止まない。


「約束しよう」


青年は少女の肩を強く引き寄せて、囁くように言った。


「二人で太陽の所に行くんだ。この雨を突き抜けて、俺達なら行ける」

「もう……体が動かないんだ」

「俺もだよ」


やつれた顔で笑って、青年はくしゃくしゃと少女の髪を撫でた。


「だから、こんな体はここに置いていくんだ。体がなければ、俺達に戦争なんて関係ない。この黒い雨だって、放射能さえも関係ない。俺達を否定するものも、阻むものも何もない」

「…………」

「だから約束しよう」


青年は、少女の目を見てゆっくりと言った。


「二人で、行こう。雨の先に」


少女は呆然としたように青年を見ていた。

そしてやがて、ニコリと微笑んで小さく頷く。


雨が降り続ける。

何もかもをも洗い流すように。

ざあざあ、ごうごうと音を立てて唸る。

それは青年と少女の存在を絶対的に否定していて。

あまりにも巨大する壁だった。


しかし、二人は幸せそうに手を握り合い、寄り添い合っていた。

二人にはもう未来はない。

逃げ続ける体力も、身を守る抗体も。

何もかもに見放された、世界に二人だけの男女。


神がもしいるとしたら。

神でさえも、彼らを見捨てているのだろう。


だが、二人は幸せそうだった。

また口づけをして、少女は目を閉じた。

その体からゆっくりと力がなくなっていき。

やがて、彼女は青年に体を預けるように脱力した。


短く息を吐いて、ズルリと力を失って地面を滑る。

死んだのだ。

あっさりと。

放射線被曝で、急速に体内細胞が破壊された末のこと。

口の端から血液の赤い色が流れている。


ポタリ。

ポタリ。


流れる赤い血液は、黒い水溜りに落ちて、淀んだ泥となって消えた。

青年がそこで、大きく吐血した。

自分の口を手で押さえて、彼はそれをぼんやりと見つめた。


そして息を引き取った少女の亡骸をしっかりと抱いて、空を見上げる。

雨は止まない。

当たり前のことだが、降り続けている。

青年は、空を見上げたまま掠れた声を発した。


「待ってろよ。俺もすぐにそっちに逝くから」



ざあざあと降りしきる汚染雨の中、複数の動く影があった。

人間を駆除するアンドロイド部隊……公安だった。

彼らはライトを周囲に向けながら、探索を続けていた。


そのうちの一人が、ガレキで空洞ができている部分に目を留める。

防護服のヘルメットを外した男女が、抱き合って事切れていた。


「何か発見したのか?」


アンドロイド兵士の一人に言われ、彼は振り返って言った。


「いえ、残存人類の反応はありません」



雨が降っていた。

ざあざあと、いつまでも。

黒い雨は降り続けていた。


圧倒的に。

絶望的に。

雨音は、止まない。


神がもしいるとしたら。

神でさえも、彼らを見捨てているのだろう。


だが、二人は幸せそうだった。

二つの亡骸は手を握り合い。

体を寄せ合い。

まるで一つの生物になろうとしているかのように、繋がっていた。


強く。

強く。


雨は。

その手を溶かすことだけはできない。


雨にさえも。

それを否定することは、できない。

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