ボーダーライン

「ラルフを確実に有罪に? ……いや、そんな情報は今更必要ない」

 マーシャの交換条件に一瞬飛びつきかけたが、すぐにロビンは冷静になり固辞した。


「そうなの?」

「ラルフは亜人族を傷つけたところを現行犯で捕らえたんだ。確かに外交特権のせいでこの国では裁けないが、ヤツは母国パルメテールの法廷でしっかり裁かれて牢に入るさ」

 多分それを直接見届けられないことは残念だし、結局ラルフと刺し違えた形になる。受けた痛手は取り返しがつかない程大きかったが、最低限の正義は果たされる。それだけが唯一ロビンを陽の当たる場所に繋ぎ止めている希望といえた。


だが。

「あー……騎士団の人でも、他国の判例までは知らない……っか」

 その気の毒そうなマーシャのつぶやきにロビンは体を強張らせた。

「ど……どういうことだ?」

「何年前だっけ? パルメテール国対ガートナーカルテルの裁判」

 ロビンの首筋に嫌な汗が伝い落ちる。

「亜人族を刈ってその毛皮や牙を輸出してたとして、カルテルの幹部が起訴されたんだけど」

 聞きたくない。


「『パルメテールにおいて亜人族に人権は認められない』ってことで、結局軽微な罰で済んだんだよ。で、ガートナーカルテルは今も悠々と活動してる」


 ロビンは歯が砕けるほど食いしばってその言葉を反芻した。

人権は……認められない?

脳裏にノエミィの無垢な笑顔がよぎる。

「だから、ラルフがパルメテールで裁判を受けても、彼の社会的なステータスも考慮すると……ほとんど無罪って決着になると思うよ」


 また……『大人の事情』だ。

「ふざけるな……」

 地の底から響くようなロビンの唸りに、マーシャは本能的な危機を感じたのか一歩後ずさった。

「お、落ち着きなよ? あたしが下した判決じゃないんだから……」

「さっき……お前が言ってた、ラルフを確実にブチ込める情報ってのは?」

「それこそがあなたへの見返りだから詳しくは言えないんだけど……ラルフが裏で密かに取り仕切ってる闇ビジネスの証拠」


 納得だ。あのクズなら汚いサイドビジネスもやってるだろう。ヤツが亜人族関連の罪に問われない以上、公的な裁きを受けさせるには別件で起訴するしかない。だがその切符を手に入れるには……自分の手を汚すことが代償となる。

「……確実な証拠なんだろうな?」

「実はアイツ、うちの組織――ボーダーラインとも一度取引したことがあるの。その時の記録がしっかり残ってる。それに組織のメンバーの素性も把握してる」


 マーシャが口にした情報から、ボーダーラインとラルフの組織があまり良い関係ではないことが推察できた。一度の取引で終わったということは継続の条件面が折り合わなかったか、トラブルがあったからだろう。

なにより相手の組織のメンバーを把握しているということは、いつかこういう機会に――まさに今なのだが――あわよくば潰してしまうことを望んでいるはずだ。つまりボーダーラインがラルフを庇う理由はないと言える。


「あとは俺の覚悟次第……か」

「自分だけが綺麗な身分でいたいか、それとも多少汚れてでも正義を果たすか……だね」

「綺麗な身分? ははっ。こっちはもうとっくにボロボロで薄汚れてるさ。ウジウジ悩む性分でもないからな」

 ロビンは一度大きく深呼吸して宣言した。


「あんたらのために力を貸す。だが一度きりだ」

「契約成立だね」


 文字通りボーダーラインを今、踏み越えたわけだ。

ロビンはまるで祈るように、垂れ込める雨雲を見上げた。


薄暗い診療所の一室でノエミィの担当医師が渋い顔をしているのを、ロビンは固唾をのんで見つめていた。

マーシャと別れ、ノエミィを見舞いに来たはずが、まず別室に呼ばれたことからあまり良い話題ではないことは想像できた。


「率直に申し上げます。ノエミィさんはもう二度と杖なしでは歩けません」


「……は?」

 ロビンは除隊処分を突きつけられた時とは、比べ物にならないほどの衝撃を受けた。視界がほとんど真っ暗になり、耳鳴りがし始める。

「な……んで……? あのとき……傷口は小さくて……血もほとんど流れてなかった……」

 まるで必死に許しを請うようなロビンの口調に、医師は同情の眼差しを向けて答えた。

「そこが問題なんですね。貫通したのならまだよかった。今回使われた魔弾は通称、ワイルドクロー。着弾すると魔力が熱を持った細かい破片となって体内に散らばり、肉や骨をズタズタに引き裂くんですよ」


 ロビンはその時のノエミィの痛みを想像し、爪を手の甲に深く立てた。たちまち血がにじみ出る。そうでもしないと暴れ出してしまいそうだった。

「知ってます。でもワイルドクローは大型の凶暴なモンスターの殺傷用に使う魔法だ。それをあんな小さな女の子に……」

「我々も最善を尽くしましたが、なにぶんワイルドクローによる傷口を処置するなど前例が有りませんので……。私も長らくこの仕事をしていますが、これはあまりにも残酷です」


医師としても日々様々な魔法による傷や症状を診てきて、思うところがあったのだろう。

「犯人が裁かれる事を強く願ってます。我々は力が及ばなかった。でも騎士団を……あなたの正義を信じています」

 彼の切実で純粋な願いは、ロビンの胸に突き刺さった。この医師は今の彼がもう騎士団員でない事を知らないのだ。だが真実を教えたところで、もう一人絶望する人間を増やすだけだと思い、ロビンは黙っている他なかった。

「ええきっと。……裁きは下るでしょう」

 法の裁きが?


……それだけで充分か?


ノエミィの病室に入る前ロビンはかなりの時間、心を落ち着けることに腐心した。

胸中に抱えているドス黒い絶望を、ノエミィに悟られたくなかったからだ。


「ノエミィ」

 多大な苦労をかけてなんとか笑顔を顔面に貼り付け、ようやくロビンは病室に入った。

「ロビンにいちゃん」

 ノエミィのその声はいつも聞くそれより幾分沈んで聞こえた。傷ついた足は布団で隠されていたが、それでも森で走り回っていた彼女の様子を思い浮かべるとロビンはいたたまれなくなった。

「痛く……ないか?」

「へいき!」

「そうか。ノエミィは強いな」

「でも……もう走れないっていわれちゃった」


 その宣告が彼女にとってどれだけ辛かっただろうかとロビンは想像する。普通なら泣きじゃくって塞ぎ込むのが当然の反応だ。しかしノエミィはそんな悲しみをロビンに見せまいとしているのがわかってしまった。

言葉を継げずにいるロビンを見て、ノエミィは初めて悲しげな色を声に滲ませた。


「ロビンにいちゃん、悲しそうなかおしないで……ノエミィ……も……がんばる……から」


 こんな……小さな子が自分に降り掛かった悲劇よりも、大人の俺を気遣って涙を見せまいとしている。

ロビンは嗚咽を抑えることが精一杯だった。必死に作り笑いを浮かべながらどうにか言葉を並べる

「ノ……ノエミィ、その……頑張ってリハビリを続ければまた元のように……」


 ……いや


つい口をついて出た慰めをロビンはぐっと飲み込んだ。

あの森でノエミィにかけた希望の言葉――嘘が脳裏によぎる。


「きっとノエミィは立派な騎士団員になれるよ」


 残酷な嘘だ。今となっては。何もかも。


 今更根拠のない嘘を上塗りすれば、結局いつかノエミィを傷つけるだけだ。楽観的な希望論なんて、つまるところただ俺が楽になりたいだけの戯言だ。ただ『良い大人』に見られたいがための……。


そんな嘘は、頑張っているノエミィに対して失礼だ。


だから――小さな女の子としてではなく、一人の人間として敬意ある接し方をする。

ロビンは言葉を飾るのをやめた。


「あのなノエミィ。世界は――時に醜くて残酷だ」


 ノエミィは息を呑んだが、その瞳はまっすぐロビンを見据えていた。

「何の罪もない純粋な存在にも、良い人間であろうとあがく者にも、理不尽なことは関係なく襲ってくる。雨や風のように」

 その言葉に不安を感じたのか、ノエミィがぽつりとこぼす。

「……どうしよう」


 ロビンははっきりと宣言した。


「戦うしかない。今自分が使える力を全て使って。戦うんだ」


 日が暮れる頃、雨は本降りとなり街に叩きつけていた。

 そんな中、診療所を後にしたロビンは全力で駆け抜けていた。何かから逃げるのではなく、今はまだ見えない獲物を追う猟犬のように。


 ――もう覚悟は決まった。

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