第26話【第六章】
【第六章】
俺はゆっくりと目を開けた。清潔なベッド、揺れる点滴袋、嗅ぎ慣れた薬品臭。
そうか、俺は三佐との戦闘で負傷したのだ。気を失ってしまったようだが……。
俺は素早く自身の身体を点検した。四肢の有無や関節部の損傷、喉の渇きや空腹具合。
「大丈夫みたいだな……」
ふっと息をつき、僅かに起こしていた上半身を横たえる。
それはいいとして、問題は俺の横にいる人物のことだ。パイプ椅子に腰かけ、舟を漕いでいる。
「あー、薫? お前は大丈夫か? 無傷で済んだってことはないと思うんだが」
返答はなし。というより、穏やかな寝息。まあ、他人の心配ができるなら自身は大丈夫ということなんだろう。
「あら、起きたの?」
「あ、ヴイーナス博士……」
「意識ははっきりしてるみたいね。ただ、残念だけど――」
「おぁあ! そうだ!」
俺が叫んだ拍子に、薫もまた目を覚ました。
椅子が揺らいで、俺の方に倒れ込んでくる。
「って、ちょいちょい待て待て待てえええええい!!」
俺が目を閉じる直前になって、薫は止まった。
「おっとっと……。だ、大丈夫、絢斗?」
「大丈夫じゃねえよ、まったく……」
被害報告をすべきだったが、流石に『互いの唇が触れ合いそうになった』とは口が裂けても言えない。
「あれ? なんの話だっけ……。あっ、絢斗! 大丈夫なの!? ヴィーナス博士は大丈夫だって言ってたけど……」
「薫、確かに博士はそう言ってくれたんだけどな……」
俺は半身を回転させて、一連の騒動を見つめていたヴィーナスに向き直った。
「俺の負傷の具合を見て看病してくださったんですよね?」
「そうよ~、年上はちゃぁんと敬うことね! ふふん!」
ってこの人、やっぱりおかしい。なんで白衣の上から胸のラインが見えてんだよ。
五十口径で撃たれても弾き返しそうな胸だ。
改めて部屋の中を見回すと、ここは個室だった。デモ行進の件で負傷者が結構でたのではないか? 俺が個室を使っていられるのも変ではないか。
「どうして自分が個室を使えるのかが疑問だ。――そんな顔してるわね」
「は、はあ」
「法的にも倫理的にも問題ないわ。安心して頂戴。だって、私が直接ヘリで運んできたんですもの。ここにいるスタッフは、私に頭が上がらないしね」
ってことは、ここは正規の医療施設ではない、ってことなのか? 確かに《ヘキサゴン》にも病院はある。問題なのは、その病院が生物兵器開発のための施設に併設しているということ。
「お、俺、実験台になったんですか? 俺の身体、どうなるんです!?」
「そう慌てないの! 博士の話をちゃんと聞きなさいな」
腰に手を当てて、声をぶつけてくる薫。なんだか昔の夫婦漫才みたいだな。
って、俺は何を考えているんだ、まったく。
いやいや、それよりも。
「俺、大河原三佐みたいな怪物にはなりたくないです!」
「だから大丈夫よ、絢斗くん。実験の一度や二度のために、優秀な治安維持組織の人員を割くのは愚の骨頂ってもんよ」
「はあぁーーーーーーー……」
俺は大きくため息をついた。俺の脳裏にあったのは、怪物化しながら猛り狂う三佐の姿。
知性はあるらしいし言葉を話すこともできるようだが、人間に置き換えて何歳くらいになるのか、そのあたりはまだ把握できていないという。
というより、あの三佐の姿を目視したのは俺、薫、ヴィーナスの三人のみ。信憑性が薄いものと見做されてしまうかもしれない。
って、あれ? それより先に、俺には確認しなければならないことがあったような。
「ああ、ヴィーナス博士!」
「あら、どうしたのよ絢斗くん? 私のナース服姿を見て興奮し――」
「するかボケ!」
いや、三割くらいは本当だが。
「ええい、俺はどのくらい気を失ってたんですか? 光石の能力付与が効くのって、三日間ぐらいなんでしょ? 早く三佐を捕縛しないと、俺たちは能力付与されていない状態でアイツと戦うことになる。いくらなんでも無謀です!」
「あと丸一日、ってところね」
俺を遮るようにして、ヴィーナスが静かに口にした。
「最初の戦闘の後、三佐は地面を打ち割って、大きな廃液用の水道管に飛び込んだ。そこから先にどこに行ったのか、さっぱり見当がつかないの。その水道管、今は機能していないけど、いや、だからこそ安全だと踏んで潜伏してるのね」
「じゃあ、今すぐ殴り込みに行くのは……?」
「それこそ、飛んで火にいる夏の虫だわね、薫ちゃん」
はっとして振り返ると、博士の眼前には薫の無機質な眼球があった。勝手な話をするな、と薫の瞳が博士を糾弾しているが、博士からすればどこ吹く風、といった印象。
「あー、ごめんごめん、お姉さんミスっちゃったわ。詳しい話は二人っきりの時にごゆるりと」
そう言って、ヴィーナスは病室から出ていった。
「なあ、薫。お前も何か事情を抱えてるみたいだけど……。別に、無理に話さなくてもいいんだぞ? 博士はあんなこといってるけど」
「そうね」
そう答えつつも、今の薫は明らかに冷静さを欠いている。立ち上がり、広い病室を行ったり来たり。そうしているかと思えば、壁に背を預けて顎に手を遣り、何某かぶつぶつ呟いている。
「なあ薫、時間はないぜ? 何か話した方がいいと思うなら、早めに決めてくれ」
「……分かった」
俺の言葉がきっかけになったのだろう。
薫はタンッ、と壁から離れ、さっきのパイプ椅子に腰かけた。
「恐らくだけど、あたしたちが取るべき作戦は、大河原三佐のいる水道管に工業廃液を流し込むこと。もちろん、遠隔操作でね」
「でないと俺たちの方が腐っちまうしな」
そういうこと! と言いつつ、薫は俺を指さした。なんだか、テンションのアップダウンが激しいな。
「でね? より具体的な話になるんだけど。博士の裏工作で、三佐の潜伏しているエリアの下水道管に、その工業廃液を流入させることになったの。一定時間、一定の範囲に三佐を誘導できれば任務完了。ただ、本当はその地上部の住民には避難してほしかったんだけど……」
「流石にそこまでの許可は下りなかった、か」
薫は無言で頷いた。
この
そこまでは、流石のヴィーナスも手を出せなかったということか。
「で、俺たちは具体的にどう動けと?」
「それをこれから考えよう、って話。頭はもうシャッキリしてる?」
「へいへい、大丈夫でござんすよ」
俺がおどけてみせると、しかし、薫の表情が負の形に歪んでしまった。
いや、そう見えないように努力しているのが見えてしまった、というべきか。
薫は空咳を数回繰り返し、手を膝の上に置いた。
「絢斗、あんた、自分の過去のこと話してくれたわよね。ご両親のこととか、三佐のこととか」
「ああ」
「あたしも、いつかは話さなきゃって思ってたんだ。自分の人生、っていうの? 生き方、みたいなもの。いろいろ考えたら、やっぱりあんたが適任だと思って」
俺はごくりと唾を飲んだ。
おいおい、いいのか? 俺なんかで?
と、いう俺の狼狽する胸中を感じ取ったのか、薫は続けた。
「あんただからいいんだよ、絢斗。あたしのこと、守ってくれたでしょう?」
「ああ、まあそれは……うん」
「自分の過去を話してくれて、一緒に危険に向かってくれて、そしてあたしのことを守ってくれた。感謝してる」
こうまで言われてしまっては、俺には為す術もない。
薫はすっと唇を湿らせ、ゆっくりと語り出した。
※
十三年前、初秋。
都心からやや離れた、荘厳な和風の平屋建て住宅の門前。黒装束の人々が、暗澹たる表情を並べて俯いていた。
毎年のように、この時期の季節は変わりやすい。この日も例外ではなかった。
今朝快晴だった夏空の残滓は完全に拭い去られ、正午前にはすでに霧雨が舞っていた。
大人たちが悲嘆に暮れる中、唯一明るい声を発している人物、否、幼児がいる。
彼女こそ、七原薫である。
「ねえ、伯父さん、お父さんは? お母さんはどこへ行ったの?」
「そうだな、薫ちゃん。二人は海外に行くことになってな……」
「お巡りさんのお仕事?」
「ん……あ、ああ、その通りだよ。遠いところに行ったんだ」
伯父さんと呼ばれた男性は、いや、薫以外の人々は、あまりに痛々しい現実に打ちひしがれていた。まさかあのおしどり夫婦が、暴力団事務所への強制捜査の際に二人同時に殉職してしまうとは。――こんな幼気な少女を残して。
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