第26話 欺きと脱出
拳の標的は、剣を抜いたイグニアだった。彼女が後ろに跳ぶようにしてかわすと、ヴィゴーレの拳は床を打つ。その瞬間、尋常ではない揺れが俺たちを襲った。
――――なんつー馬鹿力……!
たった一撃で、床が叩き割られた。いくら体を魔力で強化しても、まともに受ければただじゃ済まないだろう。
「上等だ……! 騎士団の名のもとに、貴様らを拘束する!」
イグニアが、自身の体を魔力で覆う。凄まじく洗練された魔力強化だ。ムラのなさだけで言えば、フランと比べても遜色ない。
「下がってろ、アッシュ。ここは私の仕事だ」
「……分かった」
俺は大人しく下がることにした。こんな
「ヴォォォ!」
ヴィゴーレは雄叫びを上げながら、イグニアに向かって突進を仕掛けてくる。その迫力は、闘牛以上だ。
「遅い……!」
イグニアはその突進をひらりとかわし、すれ違いざまにヴィゴーレを斬りつける。しかし、その刃は薄皮を切り裂いただけで、肉を断つに至らなかった。
「無駄だよ、騎士団長の娘。ヴィゴーレの体は常人の数十倍は頑丈なんだ。たとえ刃が触れたとしても、それが内臓まで届くことは決してない」
「チッ」
一太刀で刃こぼれした剣を見て、イグニアは舌打ちをこぼす。一見普通の皮膚のように見えるが、実際はとてつもなく硬く、そしてやすりのようにざらついているのだろう。
反撃とばかりに、ヴィゴーレががむしゃらに振り回した腕を、イグニアは距離を取ってかわす。
「……斬れないのであれば、仕方ないな」
イグニアは深くため息をつくと、そのまま真っ直ぐヴィゴーレに近づいていく。
大振りの攻撃を最小限の動きでかわすと、イグニアはヴィゴーレの膝を蹴りつけた。
すると、バキバキと何かが砕ける音がして、ヴィゴーレの体が崩れ落ちる。
「「……はい?」」
目の前で起きたことが信じられず、俺とブルトンは、同時に目を見開く。
細身の少女が、自分よりひと回りもふた回りも大きな男の脚を蹴り砕いたなんて、一体誰が信じてくれるだろう。
「人を玩具にできるほどの怪力、か。生憎だったな。力比べは、私の得意分野だ」
「ヴォ……オオオ……!」
イグニアはヴィゴーレの頭を鷲掴みにすると、そのまま力を込めていく。
ミシミシという、人の頭から聞こえてはいけない音が聞こえてきた。ヴィゴーレはもがき苦しむが、イグニアは決してその手を放さない。
やがてヴィゴーレは、泡を吹きながら気絶してしまった。その頭部には、手の痕がくっきりと残っている。
――――握力だけで……。
馬鹿力なことは知っていたけど、まさかここまでとは。
「さあ、頭蓋骨を歪められたくなければ、貴様も投降しろ」
「……ふふっ、はははは! まさか、ヴィゴーレが力でねじ伏せられるとは! さすがに面食らったぞ、騎士団長の娘」
「私の名はイグニア=シュトロンだ……覚えておけ!」
イグニアが飛びかかろうとした瞬間、俺はその肩を掴んで止める。
「なっ、アッシュ! 何をするんだ!」
「落ち着け、イグニア。前をよく見てみろ」
「前……?」
俺がそう言うと、ブルトンがニヤリと笑う。
やつと俺たちの間には、目にほとんど見えないほどの細い糸が張り巡らされていた。
もしイグニアがこのまま突っ込んでいれば、糸によってバラバラになっていただろう。
「初見で私の特注ワイヤーを見抜くとは……よく気づいたな、没落小僧」
「ははっ、特注ねぇ。この太さじゃ見え見えだと思うけどな。糸の太さはこれで限界だったのか?」
「……口が回るガキだ」
ブルトンが腕を振ると、俺たちに向かって無数のナイフが飛び出してくる。その柄には、部屋中に張られた糸と同じものがついていた。なるほど、このナイフを突き刺すことで、糸を張るわけだ。
「イグニア、ちょっと借りるぞ」
「え⁉ ちょっ――――」
俺は片手でイグニアを抱き寄せながら、さっきの戦いで刃こぼれしてしまった剣を手に取る。
刃でナイフを弾いたあと、俺はイグニアと共に大きく後ろへ跳んだ。
俺たちの背後に、ブルトンの糸はない。ヴィゴーレが引っかかってしまわないよう、やつは部屋の入口周辺にしか糸を張れなかったのだ。
「おいおい、後ろに跳んだのは悪手だぞ。これでは私のテリトリーが増えてしまう」
そう言って、ブルトンはナイフを部屋中に投げる。
これで、部屋の半分以上にブルトンの糸が張られてしまった。これでは、思う存分戦えない。
「想像以上にできるようだが、もはや勝ち目はないぞ。それとも、その鈍らで私の糸を斬ってみるか? まあ、私の糸は鉄すらも容易く切り裂くがな」
勝利を確信したブルトンが、俺たちに手を伸ばす。
狭い室内に張り巡らされた糸。動けば糸に当たり、動かなければナイフが飛んでくる。確かに、この状況は詰みと言ってもいい状況だ。
「……ははっ」
それでもなお、俺は笑顔を見せた。
「これで追い詰めたつもりかよ、
「……なんだと?」
「はなっから、俺たちとあんたの勝利条件は違うんだ。よーく考えてみろ」
重要かどうかは置いといて、すでに俺たちは、ダケットが残した情報を掴んでいる。
今ここで俺たちを殺さなければ、連中は大きなリスクを背負うことになる。ブルトンは、なんとしてもこの場で俺たちを殺さなければいけない。
それに比べて、俺たちはブルトンを拘束するどころか、戦う必要すらないのだ。
「……まさか」
「気づくのが遅ぇよ」
俺は刃に魔力を纏わせ、斬れ味を補強した。そのまま背後の壁を切断し、人が通れるだけの穴を開けた。
「じゃあな、おじいちゃん。……あんたはいつか、必ずぶっ飛ばす」
「っ! おのれ……!」
俺はイグニアを抱えたまま、開けた穴から外に飛び出す。
屋外に出てしまえば、ブルトンは糸を張れない。この状況で追ってくるなら、そのときこそぶちのめして拘束すればいい。
「ふぅ……危なかったな、イグニア。……イグニア?」
「い――――」
「……?」
「いいいい、いぃぃぃいつまでくっついている気だ! ふしだらだぞっ⁉」
「うおっ⁉」
顔を真っ赤にしたイグニアが、俺を押し飛ばす。
いらない怪力を発揮された結果、俺は地面を転がる羽目になった。
「す、すまない! そこまで強く突き飛ばしたつもりは……」
「いや、悪いのはこっちだから……ごめんな、急に抱き寄せたりして」
俺は砂を払って、立ち上がる。何はともあれ、恋人でもない異性を強く抱きしめるというのは、あまり褒められた行為ではない。紳士として、ここは謝罪が吉だ。
「い、いや……その、嫌とかそういうことではなく……心の準備ができてなかっただけというか……」
そう言いながら、イグニアはモジモジし始める。心配になるな、ここまでちょろいと。
「っていうか……追ってこないな」
俺はダケットの部屋を見上げる。気配も感じなくなったし、とっくに離脱してしまったようだ。さすがに追ってくるほど間抜けじゃなくて、少し安心した。どんなゲームも、敵が弱すぎると拍子抜けしてしまう。
「やはり……ダケットの死には理由があったんだな」
目を伏せ、イグニアはそうつぶやく。
これでイグニアは、ダケットの死の裏にある大きな闇に気づいてしまった。それが吉と出るか、凶と出るかは、まだ分からない。
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