歌手、柏木
と、いうわけで…。私は紆余曲折、歌手としても活動することになった。当然の事だが、今の柏木小音には何も無い。ただ現代社会には、動画投稿サイトやSNSが溢れんばかりに存在し、発表自体はいくらでもできる。そして私に何も無くても、矢野しずくという「とんでもない存在」が側にいるだけで、日の目を浴びないなんてことは、きっとあり得ないだろう。
裏を返せば、だからこそ失敗はできない。そう思うと今までに感じたことの無いプレッシャーが襲ってきて、ちょっと苦しい。のほほんと生きてきた私は、翻って「本番への向かい方」「心の準備の仕方」を知らないし、それらを経験していない。
だから、しっかり経験しておくべきだった、と初めて感じた。それは部活の大会だろうが、大学のゼミの発表だろうが、である。そこに取り組む姿勢や、本番へ向けての「心の持っていき方」が、イマイチ分らない自分に、軽くショックを受けたりもした。
そしてもう一つ「矢野しずくバズらせ大作戦」とは、別に考えなければいけないことがあった。在籍している集報社のことである。
その夜「退職願い 書き方」と、私はインターネットの検索窓に入力していた。部長はどんな反応をするのだろう…。前田さんになんて言おうかな…。そう考えると、何だかお腹が痛くなってくる。
翌日、三日ぶりに会社へ向かった。会社の入るビルは山手線の「内側」にある、割と年季の入った雑居ビルだ。集報社は本社とは別に分社がいくつかあるのたが、私のいる所はこのビルに長年入っていて、この地域内では割と「ベテラン」らしい。その3階、エレベーターのドアが開くと直ぐに、ナンバー式の錠がついた重い鉄の扉がある。毎月変わる4桁のナンバーを入力して中に入ろうとしたとき、内側から扉が開いた。内側から外側に開く事に毎回びっくりするので、資金的に無理だろうが、引き戸かセンサー式のドアにしてほしいと、いつも思う。
出てきたのは部長だった。
「お、柏木!おはよう!漏れる漏れるっ!」
トイレは会社の中になく、ビル内で共用のような感じだ。「朝のルーティン」にいく部長に「お、おはようございます」と返し、慌てて中に入る。
社内にいるのは10人程。和気あいあいというよりは、少し距離感がある気がする。その中でも前田さんは誰に対しても分け隔てなく話してくれていて、彼の事を嫌いな人などは、きっといないのではないだろうか。
「柏木おはよう。あれ?なんか元気ない?」
絶対音幹の存在について、半信半疑だと言っていた前田さんでも直ぐに分かるくらい、この日の私には覇気がなかったらしい。
そうこうしていると部長が戻ってきた。このままいてもモヤモヤするだけだと思い、すぐに部長に話しかける。
「少しお話があって…お昼をご一緒したいのですが」
社内の皆に聞かれるのを避けたかった私は、部長を外に連れ出すことにした。さすがの部長も何かを悟り、珍しく大真面目に「お、そうか。食うもん決めといてな」と、サラッとした大人の対応をしてくれた。だが、それが逆に社内の人間には違和感があったらしく、何人かが仕事の手を止めてコチラをみていた。
会社近くにある、馴染の洋食屋さんに予定通り部長を連れ出した。なんだかこのフレーズだけだと「ヤバい空気が漂う」かもしれない。とりあえず席に付き、看板メニューのデミソースオムライスをお互いに注文。オーダーを取り終えた店員さんがいなくなったところで辞表を部長に提出した。
「お昼休み中にごめんなさい」
部長はさすがに驚いて
「どうしたんだ、急に」
そう答えると、同時に私の顔を覗き込んだ。そうだった、重要な事は何も伝えてなかったんだ、と私は我にかえる。ただ昨日までの全てを話すことはできない。しずくさんのベールに包まれている部分の守秘義務もある。
ざっくりだが、しっかり削ぎ落として伝えた内容はこうだ。私はしずくさんからマネージャーになってほしいとの依頼を受けた。その上で、マネジメントをしながら彼女のピアノが有名になるように、サポート役として、自分の歌声を提供したいという事も。だからそちらに集中したいので辞めさせてほしい、と。
部長の返答は…「籍は置いておきなさい。休職扱いにしておくから。上手くいかなかったら帰ってくればいい」とのことだった。
数日前、「デキる男ではないが何だか魅力的な人」などと軽率に思った私に、喝を入れてやりたい。なんだこの度量の大きさと包容力は。そして私の周りには優しい人が沢山いてくれる。柏木小音はなんて幸せなのだろう。
「じゃあこれからは歌手の柏木だから、カシュワギって呼ぼうかなぁ。笑」
ここで繰り出された、絶妙な「カッコ悪さ」に部下の私はイチコロである。それを聞き食べ進んだオムライスは「涙味」が追加され、いつもより幾分塩っぱかった。それでも、何倍も何倍も美味しく感じた。
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