第5話 初めてのおはようございます

「セレスト……おい、セレスト・エイマーズ。お前、どういう姿勢で寝ているのだ」


「……はい?」


 男子の声で目覚めるという珍しい状況に、セレストの寝ぼけた頭はすぐに対応できなかった。

 もしかしてアカデミーの庭で昼寝をしてしまったのだろうか。天気がいい日ならあり得ることだ。だが今はもう冬。雪こそ積もっていないが、外で寝ていたら風邪を引いてしまう。きっとフェリックスが見かねて起こしてくれたのだ。彼はセレストを嫌っているくせに、ちゃんと人間として対応してくれる誠実な人だから。


 しかし、自分はいつフェリックスの人柄を知ったのか。いつも喧嘩ばかりしていたはず。喧嘩中に誠実さを発揮するチャンスはなさそうだ――。

 と、眠い頭でムニャムニャ考えながら、セレストは重い瞼を開いた。


 目の前に、フェリックスの不機嫌な顔があった。その首から下は寝間着姿だった。

 ここはアカデミーの芝生でもベンチでもない。柔らかいベッドの上だ。

 セレストも寝間着だった。

 布団の暖かさから考えて、かなり長い間、二人でここに寝転んでいたらしい。


 なぜ? 犬猿の仲である自分たちが、なにゆえ?

 セレストは記憶の迷路をさまよい、そして『決闘』という単語に辿り着いた。昨日、フェリックスに決闘を挑まれた、ような気がする。

 激しく戦った。彼の氷魔法と、セレストの魔法剣を何度も激突させた。そして夕日が沈む河原で、二人で大の字に寝転がり、お互いの健闘を称え合った。

 そのあと、どういう流れか忘れたが、お互いの父親も交えてレストランで食事をし、それからフェリックスの家に来たような――。


「フェリックスくん。質問なんですが、昨日の決闘は私の勝ちでしたよね?」


「お前はどういう夢を見ていたんだ。決闘などしていない。婚約はしたがな」


「……婚約?」


 その言葉がトリガーになり、セレストは幻の熱い決闘ではなく、正しい記憶を取り戻した。ようやく夢から現実に意識が帰ってきた。


「おはようございます、フェリックスくん」


「ああ、おはよう。それで、お前はいつまで俺にひっついているつもりだ」


 確かに、セレストの腕はフェリックスの体にしがみついていた。

 昨夜、同じベッドに潜り込んだが、ちゃんと間隔を空けていたのに。

 しかも、ただしがみついているのではない。セレストの右手は、フェリックスの寝間着の隙間から中に侵入し、胸部に直接触れているではないか。


「あ……これは失礼しました……」


 セレストは手を引っこ抜く。

 女性のように綺麗な顔立ちのくせに、胸板は厚く硬かった。その感触に慌ててしまう。


「恋愛小説で読んだことがあります。こういうのをラッキースケベと言うんですよね。それで胸を触られたヒロインが『きゃー、えっち』などと叫びながら主人公にビンタをするんです。つまりフェリックスくんには、私にビンタして制裁する権利があります。ですが私は痛いのが苦手なので……デコピンくらいで許してくれませんか……?」


「ビンタもデコピンもせん。このくらい別に腹は立たん。第一、ビンタをするのは女性側ではないのか?」


「いえいえ。狼藉を働いたのはこちらです。なのに私がビンタしたら話がおかしいです」


「そうか。セレストがそう言うなら、それでいい。むしろ俺が気にしているのは……お前の寝言だ。ボブというのは誰だ? 寝言でその名を呼んでいた。まさか交際している男がいるのか?」


「ああ」


 セレストは、なぜ自分がフェリックスにしがみついたのか瞬時に理解した。日々の癖というのは、自分で思っているよりも強固らしい。


「ボブは、ぬいぐるみです。私は毎晩、ボブを抱っこして寝ています。たぶん寝ぼけてフェリックスくんをボブだと思ったのでしょう。失礼しました」


「ほう。ぬいぐるみを抱いて寝ているのか。意外と可愛い趣味があるではないか」


「意外とは失礼ですね。私だって女の子です。ボブは本当に可愛いサメなんですよ」


「ぬいぐるみと言うからクマやウサギを想像したが……俺はサメと間違えられたのか。人生なにが起きるか分からんな」


「フェリックスくんはクマやウサギと間違えられたかったんですか? 意外と可愛い趣味ですね」


「別に間違えられたかったのではない。いいから起きろ。今日は引越し作業をすると、お前が昨日言ったのだ」


 そうだった。

 セレストはこの家で暮らしていくのだから、私物を持ってこなければ。

 今日と明日は週末の二連休。引越し作業には丁度いい。

 もっとも前の家は店舗、、としても使っているので、そのまま借り続ける。だから急ぐ必要はない。とはいえ少なくともボブを持ってこないと、毎夜フェリックスに抱きついて迷惑をかけてしまう。

 こんな陰気な女に抱きつかれるなんて、さぞ気持ち悪かっただろう。なのにビンタもデコピンもせずに許してくれた。

 セレストはフェリックスの心の広さに感謝しながらベッドから降りる。

 そして鏡の前で、四方八方に跳ねまくった自分の黒髪を発見した。まるで活きのいいタコかイカの触手みたいだ。


「そう言えば、乾かさないまま寝ちゃってましたね」


 セレストは両手の指を暴れる髪の間に差し込み、「ふん」と一気に腕を振り下ろそうとした。


「おい、待て。そんな乱暴に……髪が傷むだろうが。まさか毎日そんな真似をしているのか?」


「いえ。普段はメイドのドロシーがやってくれます」


「メイドがいるのか。まあ、お前のようにボンヤリした顔の奴に一人暮らしはさせられんか」


「フェリックスくんはたまに優しいですが、やはり九割はイジワルですね。ボンヤリな顔なのは、寝起きだから仕方ないでしょう。そして私はアカデミーで『文武共に最強』と呼ばれる才女ですよ。一人暮らしだってちゃんとできます」


「寝起きだから仕方ない? ならば昼間のお前と今のお前が、どう違うのか言ってみろ。それと学校の成績と生活能力にどんな因果関係があるのだ?」


 セレストは才女と自称した手前、論理的に語ってやろうとした。だが二つの質問のどちらにも答えられず、ボンヤリするしかなかった。


「やれやれだな……来い、髪を直してやる。お前の部屋にブラシくらいあるだろう」


 腕を引っ張られ、昨日からセレストのものになった部屋に連れて行かれる。そして化粧台の前に座らされた。

 フェリックスはヘアブラシを手に取り、慣れた手つきでセレストの髪をとかし始めた。

 複雑怪奇にうねっていたのに、見る見るうちに真っ直ぐになっていく。


「俺には妹がいる。よくこうして髪を直してやった。だから慣れている」


「なるほど。私はてっきり、フェリックスくんに長髪だった時代があるのかと思いました」


「俺が長髪か。似合うと思うか?」


 フェリックスは無表情のまま尋ねてきた。

 セレストはふと想像してみる。

 あまりに美しすぎて奇妙な敗北感に襲われた。


「大勢の女性から嫉妬を集める美人になるでしょうね。フェリックスちゃんと呼んでもよろしいですか?」


「よろしくない。決して髪を伸ばさないと決心した」


 美人の誕生を阻止してしまったセレストは、それはそれで残念だな、と勝手なことを思った。

 勝手な思いといえば、この状況でフェリックスが平然としているのが気にくわない。

 女性の髪に触れているのだ。少しくらいは緊張するものではないのか。そもそもセレストは寝ぼけて彼に抱きついた。きっと胸が当たっていた。

 こんな陰気な顔と婚約させてしまいフェリックスには申し訳ないが、しかし胸の大きさにはそこそこ自信がある。いくら冷徹王子でも十八歳の少年だ。女性の胸が当たったら、照れてくれてもいいだろう。

 それが頬を赤らめるでもなく、視線をそらすでもない。いつもと変わらない氷の表情。

 やはり、それだけ自分に女としての魅力がないのだな、とセレストは残念に思った。


        △


 目覚めたばかりのフェリックスは、セレストが自分に寄り添っていると知り、一瞬気絶した。

 数秒で意識を取り戻したが、油断するとまた頭が真っ白になりそうだった。


 セレストはすやすやと寝息を立てている。どうやら寝ぼけて抱きついてきたらしい。

 ただ抱きつくだけならともかく、胸部がフェリックスの腕に押しつけられていた。

 ネグリジェの薄い布越しに、好きな女子の体温が伝わってくる。

 これで正気を保てというのは、ほとんど拷問である。


 この状況を楽しむ余裕をフェリックスは持ち合わせていないので、セレストを起こそうと試みた。

 すると彼女は「ボブ」と男の名を呟いた。フェリックスは心臓に針と錐と釘を一度に突き刺したような衝撃を味わった。

 その後、ボブがサメのぬいぐるみだと判明し、本当に安堵した。もしセレストに交際中の男性がいたとしたら……いや、思いを寄せる相手がいただけで暴れたくなってしまう。


 それにしてもセレストの髪の美しいこと。フェリックスはブラッシングをしながら、その上質な絹糸のような手触りと、黒真珠を思わせる輝きを味わった。

 彼女の頭の天辺から足の爪先まで、全てが愛おしい。

 この溢れ出しそうな好意。告白する前に伝わってしまうのではないかとフェリックスは本気で心配になった。

 今のところは隠せている。隠せているはずだ。

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