コーヒーの中で

守宮 靄

やわらかくあたたかい闇

 下品なネオンと撒き散らされた吐瀉物、吹き溜まりの煙草の吸殻や蹲る酔っ払いどもの脇をすり抜けて裏路地へ入っていく。混濁した喧騒が遠ざかっていき、ついには聞こえなくなるのを頭の片隅で意識しながら、さらに細く、狭く、暗い路地を選んで歩を進める。人一人が歩ける限界の幅になった道のどん詰まり、そこにひっそりと隠れるように佇む扉を開ける。


 ドアベルの澄んだ控えめな音の余韻がいつまでも響き続けるのは、ひどく暗い空間だった。真っ暗闇ではない。親指の先ほどの小さな電灯がひとつきり、天井からぶら下がってオレンジ色の光を放っている。頼りない光の輪の中に浮かぶのは木製のカウンター、そしてその奥にて半ば暗闇に溶けている人影。


 迷わずカウンターの前に置かれたたった一つの椅子に座り、目の前の人影を見上げる。白シャツと黒ベストに包まれたやたらと細長い身体。腰には黒いエプロンを巻いているようなのだが、暗い物陰に滲んでいて輪郭を捉えることはできない。脚があるのかないのか、はたまたありすぎるのかも私は知らない。


 しかしこのひとを特徴づけるのは服装でも体格でもないだろう。白い襟元から伸びているはずの首はなく、ただ空洞があるばかり。そこから十センチばかり上、本来なら頭があるであろう場所に何の支えもなく浮遊しているのは、オレンジの光を透過しながら反射する、組み合わされたガラス。フラスコ型と漏斗型のこの器具は。

 コーヒーサイフォンである。


「いつものをお願いします」


 じろじろと顔、に相当するであろうサイフォン部分を見てしまっていたのに気づいて恥ずかしくなり、澄ました態度を取り繕って注文を告げると、そのひとは動き始めた。漏斗型のガラスを両手で持ち上げて取り外し、一度カウンターに置く。脇に置いてあった銀色の水差しを持ち上げ、フラスコの中に水を注ぐ。水差しの表面に電灯のささやかな輝きと、影が落ち大きく広がって歪む私の顔が映っていた。フラスコの半分くらいまで水が注がれると、襟の内側の虚から黄金色の炎が覗いた。炎は輝く爪や舌を伸ばしてフラスコの底を炙っている。私は揺れ動くその金色で眼を灼いている。




 初めてここに辿り着いたのは偶然以外の何物でもなかった。歩道いっぱいに広がって歩いてくる酔った若者を避けるために道を折れ、路上で絡み合うカップルの迷惑そうな視線から逃げるように路地に飛び込み、どんどん狭まる道に不安を煽られながらも引き返す気にはなれず進み続けた先にあの扉があった。好奇心から中に入り、暗い室内に浮かぶ明らかに人間ではない姿を目にし驚きのあまり恐怖を覚え損ねた私に、このひとはコーヒーを振る舞ってくれたのだ。




 ネルフィルターを取りつけた濾過器を漏斗に入れて固定する。漏斗を持ち上げフラスコに差す、が、完全に差しこむにはまだ早い。漏斗の先から垂れる濾過器のチェーンがフラスコの底に触れ、輝く気泡がぽこぽこと上がったならば湯が沸いている証である。漏斗にコーヒー粉末を入れ、ゆっくりとフラスコに差しこむ。湯の中の泡は炎を映して金色に燃え、生まれては消えていった。フラスコから容器へ吸い上げられた湯と粉はすぐには混ざらないから、篦で掻き混ぜる必要がある。右手に篦を持ち頭上で粉を攪拌する手つきは危なげがない。直接視認できない頭上で作業するのは難しそうに思えるが、慣れで解決してしまうのか。それともこのひとの視界は、見えている世界は私の世界と全く違うのか。




 元々コーヒーが好きである、と言えなくもないと信じている。味にも過程にも全くこだわりがないので、他人が見ていないところでは一リットルペットボトルをラッパ飲みしているのだが、消費量だけを見れば『コーヒー好き』にも見えるだろう。だが自ら名乗るのは許さないと言われたら、ただのジャンキーに成り下がるほかない。


 初めてここでコーヒーを差し出されたときは、変に緊張したものだ。こんな洒落た、上品な、水を上げてまた下げるというよくわからない過程を経て淹れられたコーヒーの味わい方など知らないのだから! しかし断るのも申し訳ないので口をつけてみたところ、なんとも普通のコーヒーであった。感動も何もない。しかしその熱さは、散々道に迷った末に奇妙な建物にのこのこと侵入し、挙句の果てに人ならざるものに接待されている状況に対する混乱と緊張を解きほぐすのにちょうど良かった。あまりに平々凡々な味だったから、ここが夢でも異界でもなく、現実の延長にある場所だとすんなり受け入れることもできた。コーヒーを飲み干してしまってから、目の前でじっと立っているだけの相手と、磨かれたカウンター、薄暗くてさっぱり様子がわからない室内を順々に見渡して、そこでやっとここが『店』であると気づいた。気づいてしまった以上、相手から差し出されたとはいえ食い逃げ(飲み逃げ?)するのは気が引けたので、カウンターに五百円硬貨を置きながら口の中でもごもごと礼を言い、そそくさと立ち去った。


 繰り返すが、コーヒーの味は凡庸そのものだった。だからその一週間後に今度は自分の意志であの扉を探しあて、今ではほぼ毎週訪れる常連客にまでなってしまったのは、決あのコーヒーの虜になってしまったからではない。サイフォンでコーヒーを淹れるさまを見るのも好きだが、それだけでもない。




 小さくなっていた火が消えてしまった。白い襟から覗く炎がふっと見えなくなるこの瞬間、いつも少し寂しいような切ないような気分になる。そういう気分になることを伝えるには、カウンターたったひとつ分の隔たりはあまりにも大きすぎた。火が消え、フラスコが冷めると、黒い液体は濾過器を通り下へ落ちる。液体が全てフラスコの中へ戻ったら、漏斗を外し、フラスコからカップへとコーヒーを注ぐ。完成。

 カップが私の目の前に置かれる。黒い液面は振動の名残で僅かに波打ち、たった一つの灯りを震えさせた。静かにカップを持ち上げ、一口啜る。相変わらず平凡な味だ。特段感想も浮かばないほどに。


 カップに口をつけながら、あのひとの顔を盗み見る。目鼻も口もない、つるりと透き通るガラスから表情が読み取れるわけもなく、ただカウンターの奥闇を透過させているだけだった。


 今日ここの扉を開くまで、ここに向かって歩いている間は、何か一言、少し気の利いた──このカウンターを乗り越えることはできなくとも、ほんの少しだけ距離を縮められるようなことを言えたらいいと思っていた。いくつかそんな言葉の候補だって挙げていたのに、扉を開き、不確かな灯りを中心に広がるあたたかい闇と、静かに佇むあのひとを見たときにすべて霧消してしまった。


 そして今日も、先週や先々週をなぞるように、一言も発しないままコーヒーを飲み干してしまう。あらわになったカップの底を見ながら、帰らなければ、と考える。飲み物がなくなってなおここに留まる正当な理由を私は見つけられていない。いつものように硬貨をカウンターに置き、席を立つ。扉を開けようとノブに手をかけたとき。


「あの、」


 上ずった声に驚く。当然あのひとではない、喋るための口がないのだから。声は私の口から出ていた。言うべき言葉はなにも準備していないのに、魔が差したとしか言いようがない。


 カウンターの奥のスペースで影に埋もれて何かをしていたあのひとがこちらを向く気配がした。一瞬ちらりと光って見えたのはフラスコの表面で反射した電灯の色だったかもしれない。


「……また来ます」


 たったひとこと絞り出して、店内に背を向ける。視界の端に映った白いものが、私のために振られたあのひとの腕であればいいと思いながら、今度こそ外へと踏み出していく。


 私は帰っていく。醜悪で猥雑な、忌々しい光の中へ。

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コーヒーの中で 守宮 靄 @yamomomoyan

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