第3話:悪魔は召喚される

 全身が優しい温もりに包まれている。その感覚に、涙腺が緩みそうになる。

 まるで母親に抱かれているようだ。壊れ物を扱う繊細さと、誰にも傷付けさせないという確固たる決意の篭った腕に護られながら、絶対の愛情を目一杯注がれる。ここが世界で唯一の安全地帯だと確信する。

 そんな赤子の気分に浸っている俺の耳に、嘲りの声が這入る。


 ——お前に母親なんて居たか?


 居たさ。

 生物なら誰しも母親を持っている。顔を知っているか否かは別にして、ヒトを含む哺乳類には、どんな形であれ母親が存在する。子の殆ど全ては母親の胎から生まれるのだ。


 そこまで考えて小さな違和感を覚える。

 違和感は次第に大きく成長し、矛盾を孕み、やがて強烈な一撃となって覚醒を促す。


(いや。俺に母親は居ない)


 何故なら俺は——



 * * *



「——俺の名はセイル。ソロモン72柱の序列70番目にして君主を務めている。きみが望むのならば、どんなものでも運んでみせよう。在るものも、無いものも……ね」


 は??


 暴力にも等しい光に目が眩んで瞼を閉じ、開いた次の瞬間、勝手に口が開いていた。

 意味不明な展開に思わず「は??」と声を上げそうになる。が、すんでのところで内心に留めた。けれど「は??」という感想は変わらない。

 俺は今、何と言った。「『きみが望むのならば、どんなものでも運んでみせよう』?」「『在るものも、無いものも……ね』?」


「はあ?」

「はあ?」


 不意に揃った声に、意識がそちらへ移る。


 眼前に人間が居た。

 見た目からして十代の少年だろうか。光源が四隅のランプだけの薄暗い空間なのでよく判らないが、学生と思しき黒髪の人間が、目も口も『O』の字に開けて俺を凝視している。まさに「ぽかーん」と言える表情だ。実に間抜けである。

 しかし実のところ、俺も似たような表情を浮かべている自信があった。世界で一番くだらない自信だった。けれど本当に「は??」で「ぽかーん」なのだから仕方がない。

 待って、これどういう状況????


「おや、成功しましたか」


 少年の向こう側に広がる薄闇から聞こえる、落ち着いた声。

 少年が背後を振り返る。俺も声の主に視線を遣る。こつん、こつんと踵を鳴らしながら歩いて来た人物は、意外にも、俺が知っている悪魔ひとだった。


「……イポス、さん?」


 イポス。

 地獄の三大支配者に仕える上級精霊の一柱・ネビロスの部下。

 顔見知り程度の仲なので詳しい悪魔柄ひとがらは知らない。

 が、先程の台詞になぞらえるなら——ソロモン72柱の序列22番目、伯爵にして君主。


「ほう、セイルくんですか」


 緩い癖のついた前髪を指先で横へ流し、灰色の目を細めながら「上出来ですね」と続ける。


「きみの性格との相性はともかくとして、有用であることは間違いありません。一先ず、よくやりました。ケイトくん」

「……ありがとうございます」

「しかし、これからですよ」

「判っています、

「先生!?」


 意味不明過ぎる展開と会話に黙っていたが、聞こえた単語に思わず口を挟んでしまう。

 この少年、悪魔を「先生」と呼んだ? 正気か?


「何ですか、セイルくん。私は先生ですよ」

「待ってください、イポスさん。……いやマジで待ってください、どういうことですか。何なんですかこれ。説明して下さい。何でイポスさんが居るんです。あなた、行方不明になっている筈だ——謎穴に吸い込まれて」


 そう。

 彼は消息不明な悪魔の一人。最後に目撃された場所が神出鬼没な例の謎穴付近だったので、そこに吸い込まれたのだろうと推測されている。


「ええ。きみの言う通りです。私は穴に吸い込まれました」

「じゃあ、何で帰還しないんです。一昨日帰って来た奴は、あなたよりずっと等級の低い奴でしたよ」

「ちょっと訳ありでして」

「訳ありぃ?」

 

 それってまさか、この人間が言った『先生』ですか?

 と、少年を指差して訊ねる。指した方向から気分を害したらしい気配が漂って来たが、知らん。今は人間に構っている場合ではない。


「その通りです」

「……何で悪魔が『人間の先生』をやっているんだ」


 こうべを垂れて額を押さえつつ、溜息を一つ。

 ここで更なる驚愕の事実が俺の眼に映る。


「は、はあ!? 何これ!?」

「何か不具合でも?」

「不具合ですよ、これ……正装じゃないですか!!」


 記憶が正しければ、イポスさん達と対面する前、俺はパーカーにジーンズとスニーカーという休日に相応しい極めてラフな恰好だった。『運送業』の仕事中でさえ、動き易さ重視の服装を好んでいる。

 正装なんて結婚式か葬式か、何かしらの式典や儀式の時にしか着ない。そしてそれらは俺には無縁なイベント(特に葬式、悪魔が魔界で死ぬことは滅多にない)である。だから正装は箪笥の肥やしになっているのに——!


「俺、着替えた覚えないですけど!? あ! 髪のリボンもない! くっそ、最悪! も〜〜やだやだ今すぐ髪結びたい! ジャージに着替えたい!!」

「セイルくんの正装嫌い、本当なんですね」

「本当ですよ! 見てください、この無駄に長いマントみたいなコート! ひらひらした袖! 邪魔! シャツとベストとスラックスは良いとして、クラバットと手袋は暑いしブーツは脱ぎ履きが面倒臭い! それに何より色! どうして白基調なんだよ悪魔なら黒だろ!!」

「私に訴えられましても」

「イポスさんは暗色のスーツだから俺の苦悩が判らないんです。ああ……どうして正装なんか……」

「召喚されたからですよ」

「………………は?」


 召喚?


「……誰に?」

「彼に」


 と言って、傍らを指差すイポスさん。

 そこには、すっかり空気と化していた人間——先程まで対峙していた少年が一人。


 小さな咳払いをしたイポスさんが「順を追って説明しましょう」と告げ、話の口火を切る。


「現在人界ではテロリストを筆頭に犯罪者と天使が手を組んで、多種多様な悪行に勤しんでいます。その悪行は、規模はさることながら、手法や残酷さが常人の手に負えないレベル。困った人間達は藁ではなく悪魔に縋り、対抗手段として我々を召喚。犯罪の阻止と収束に躍起となっています」


 情報過多が過ぎて、どこから突っ込むべきか判らない。

 俺の困惑を察しているだろうに、イポスさん全て無視して話を進める。


「セイルくんが『謎穴』と呼んでいる異物。あれは召喚陣の入口です。出口は、きみが今立っている場所。ほら、よく見ると例の穴と同じ大きさの召喚陣が描かれているでしょう。人間がここで悪魔召喚の儀を行うと、入口側で何らかの現象が起こり、近くに居た悪魔ないし魔獣が吸い込まれて出口へ排出される——という仕組みになっているようです」


 でも、と呟いて、喉の張り付きを自覚する。

 唾液を無理矢理飲み込み、言葉を続ける。


「召喚には正しさが肝要です。時、贄、呪文、魔法陣……それらを完璧な手順で正しく実行して初めて、俺らが召喚される。なのに、これは」

「何もかも、めちゃくちゃ。そう言いたいのでしょう?」

「……そうです」

「私も同感ですよ。しかし、これが現実です。私は別の人間に、セイルくんは彼——ケイトくんに召喚され、今ここに居る」

「…………」

「ルシファー様なら何か、ご存知かもしれませんがね」

「……帰って訊く勇気はないな」

「でしょうね」


 と言うより、ルシファー様、苦手なんだよな。

 パリピだから。


 深い溜息を吐いて襟足を摩り、それじゃあ、と話を戻す。


「俺は、この人間に従わなきゃいけないんですね?」

「いえ、別に」

「え?」

「ちょ、先生!?」


 焦る少年をやっぱり無視して、イポスさんは「従う必要はありません」と言い切る。


「きみは、に過ぎない。力のある者なら問答無用で服従させることも出来ますが、彼にそんな力はありません。まあ、折角喚べた悪魔なので、是が非でも契約したいでしょうけれど。きみが『No』と言えばそれまで」


 全ては、セイルくん次第です。


 そう言われ、ちらっと少年を見る。

 彼は真っ直ぐに俺を見つめていた。直立不動。ジャケットの裾を握り締めながら、唇を真一文字に結んで。

 全身から緊張が伝わってくる。瞳からも緊張と、何か別の色がちらちらと見え隠れしている。恐怖か。それとも……まあ、何だって構わない。

 答えは決まっている。


 少年の白い右手が、ゆっくりと差し出される。

 俺も姿勢を整え、彼の眼をじっと見つめ返す。


「僕と契約して、人間に協力してください」

「嫌です」



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