1章:チュートリアル

第1話:想像は創造である

「地獄」という単語を耳にした時、人間はどんな景色を思い浮かべるのか。


 燃え盛る炎? ごろごろと転がる屍体? 甚振られる亡者と、亡者に永遠とも思える苦しみを与える鬼たち? ダンテの『神曲』で描かれる『地獄篇』? 神の命により堕天使が閉じ込められたカオス?

 どれこれも間違いではない。

 が、実際は異なる。


 亡者を拷問する鬼は当然いる。監禁中の堕天使も存在する。

 けれど前者は人界で言うところの看守——高給取りな公務員で、後者は地獄法に引っ掛かった犯罪者。燃え盛る炎があれば消火される。屍体が転がっていることはない。不衛生だから。もしも転がっていたら警察が来る。

 そして全体的に暗く、ジメッとしている。

 空気は淀んでいるし、太陽の光なんて全くない。毎日が曇天。あるいは曇りのち雨。もしくは雨。雷雨の日は、どっかの間抜けがお偉いさんを盛大に怒らせた日だ。割とよくある。

 因みに三日前は嵐だった。寛大な方の地雷を、誰かさんが盛大に踏み抜いたのだろう。これも割とよくある。


 でも、悪い場所ではない。

 例えば、俺が暮らす地域の家賃は安い。誰でもwi-fiが使い放題。必要なものはネットで購入可能。娯楽と求人もそこそこ豊富。ロンドンとラスベガスを足して割ったような街の周囲には森が広がっている。

 俺が知る「地獄」は、そういうところだ。



 * * *



 どうして「人間がイメージする『地獄』と、実際の『地獄』について」の独白を始めたのか。

 理由を簡単に説明しよう。

 魔界に現れる謎穴に吸い込まれて帰還した某悪魔が一昨日、こんな証言をしたのだ。


「人間に『想像と違う』と言われた」


 想像って何だよ。

 某悪魔の証言を聞いた、全悪魔の感想である。

 俺も思った。想像と違うって何だ。勝手に作り上げたイメージを押し付けるんじゃない。一方的に惚れられて一方的にフラれた気分になる。某悪魔もそう思ったらしく、「結局どうしたんだい?」と訊いたら「取り敢えず殺した」と返された。

 取り敢えず精神で気軽に殺すのはマズイんじゃないかな。と、思わなくもないが、性質的には何も問題ないので取り敢えず黙っておいた。

 気に入らないから殺す。悪魔あるあるである。


「でも、その人間の気持ち、マノコ判るなあ」


 とは、同居人であるマノコ——自称・俺の妹の言。

 彼女は紅い瞳をキラキラと輝かせながら語った。


「だって、セイルお兄ちゃんは悪魔っぽくないもん。確かに悪魔だけど、アタシが知ってる悪魔と違うってゆーか……優しくて綺麗で、ちょっと儚げな雰囲気もあって(中略)……まるで<パンタレイ>に出てくる天——」


 全部言い切る前にデコピンしておいた。

「いったあああああい!!」と叫んで床を転げ回っていたが知らん。地雷を踏む方が悪い。

 この話を昨日、アスモ先輩に話したら「気持ちは判らんでもない」と苦笑された。

 その気持ち、どっちの気持ちですか? とは訊けなかった。仮にマノコの方だった場合、先輩のデコをピンする羽目になる。そんなことをしたら丸焼きの刑に処される。

 簡単には死なないが命は惜しい。




「……俺だって、好きでこんな見た目をしてるんじゃない」


 洗面所。陶器製のシンクに両手をつき、鏡を睨みつけながら独り言つ。

 そこには一人の悪魔が映っている。

 襟足を伸ばした白銀色の髪。髪と同じ色の睫毛に縁取られた紫色の眼。身長は高いが、下手すると女体の悪魔より細い身体。おまけに、誰に似たんだか判らない(そもそも俺に親って居るのか?)幼さが微かに残った容貌。

 どんなに矯めつ眇めつして見ても間違えようがない——俺だ。


「くっそー。俺もアスモ先輩みたいなゴリマッチョになりたい」


 殺意の篭った紫眼を睨み返し、呟いて、盛大な溜息。

 うだうだと言っても仕方がない。鏡の悪魔から視線を外して俯き、頬を叩く。そして顔を上げて髪に櫛を通す。

 ピロリン、とスマートフォンが鳴った。手に取ってメッセージアプリを起動する。送り主の名は【上司】


『至急』


 その後に続くは座標のみ。呼び出しだ。相変わらず部下遣いが荒い。しかも、短文を通り越した超簡潔メッセージ。よほど不機嫌とみた。ご機嫌取りを兼ねて、上司から貰った深緑色のリボンで後ろ髪を結う。

 自室に戻ってジャージからパーカーとジーンズに着替え、スニーカーを履き、リビングへ向かう。

 ソファーで寛いでいるマノコから「お兄ちゃん!」の声。


「どこ行くの? 今日、オフだよね?」

「ああ。アマイモンさんから呼び出された」


 言った瞬間「うげー」と顔を顰められる。

 理由は知らないが、上司と妹の仲は余りよろしくない。


「お兄ちゃんの貴重なオフを潰すとか、あいつ何サマなわけ?」

「俺の上司サマだな」


 そして魔王サマでもある。


「はー、ムカつく! アタシがめちゃつよインキュバスだったら即ぶっ殺すのに!」

「ご冗談を」


はは、と笑ってマノコのピンクオレンジの髪を撫でる。


「どんなに強くても、不機嫌なアマイモンさんには敵わないよ」

「不機嫌?」


 眉を顰めるマノコに、トーク画面を見せる。すると何を思ったのか「アタシも行く」と言い出した。珍しい。割りかし何処でも付いて来たがる彼女だが、アマイモンさんのもとには絶対来たがらないのに。

 いつもやってるソシャゲは良いのか? と訊いたら「いいの」と返される。


「今アルブス回復中だから!」

「あ、そう」


 何のことだか判らんが良いらしい。


「それに上司のパワハラから、お兄ちゃんを守ってあげなくちゃ!」


 ……自称・妹に守られるほど弱くないんだけどな。

 そんな微妙な気持ちを呑み込んで、もこもこの部屋着から外出着(ミニ丈のゴスロリ服に、太腿を強調するニーハイブーツという些か目のやり場に困る恰好)に着替えたマノコを左腕にくっつけ、座標の位置へ——



 * * *



 瞬きの間に辿り着いた場所は、鬱蒼とした森の中だった。

 高い木々が空を隠し、ただでさえ暗い世界を更に闇深くしている。風はない。魔獣の気配も一切ない。その奇妙な静けさこそ、と言える。

 空へ向けて呼びかける。


「アマイモンさーん、来ましたよー」

「遅い」


 背後に音もなく降り立つ気配。振り返ると確かに居た。


 アマイモン。

 東の魔王。

 現在は東北東を統べる王子様。

 小柄だけれど、めちゃくちゃ狂暴。

 怒らせると怖い鬼上司。


「遅くはないですよ。速さで俺に勝てる悪魔ひとは居ません」

「ボクが呼んだら一秒で来い」

「それは無茶です」


 俺にも生活があるので。

 そう続けようとしたが、上司の鋭い視線が左腕に抱き付いているマノコに向けられていることに気付き、思わず閉口する。

 ああ、琥珀色の瞳が暗闇でも判るほどギラついていらっしゃる。


「どうして、こいつがここに居る」

「マノコは——」

「お兄ちゃんを守るためよ!」

「守る? 何から?」

「クソパワハラ上司からに決まってるでしょ!」

「セイルを想うなら、まずアバズレの始末からだろう」

「アバズレって誰……ま、まさかお兄ちゃん、ストーカーされてる!?」

「馬鹿か? 貴様のことだ」

「アタシ!?」

「そうだ。アバズレ」

「きぃいいいい!! ムカつくぅぅうう!!」


 甲高い叫びが森に木霊する。

 ……深くは考えなかったけれど、この場にマノコを連れて来たのは間違いだったかもしれない。

 放っておいたらいつまでも口汚く罵り合いそうな二人を制止し、さり気なく左腕からマノコを剥がす。オフの日に態々呼び出した理由を訊ねると、アマイモンさんは端整なお顔をぐしゃっと歪めて


「例のが出現した」


 と言った。


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