第13話
◇
義姉の悲鳴が聞こえた瞬間、楓は走り出した。
その剣で従姉妹を守ろうとしたからだ。
しかし長船は、長船は走らなかった。
走れなかった。
脅えたからではない。
放心したからでもない。
女を傷付ける事さえ目的とあらばその是非を問わない維新志士のやり方に。
そして痛みに歪んだ義姉のその顔が喪った妻によく似ていたからこそ。
長船は走れなかった。
身を捩る様な激しい怒りで。
気が触れてしまいそうだった。
死んでしまいそうだった。
一歩、一歩。
長船は静かに歩き出す。
倒れた義姉の元へではなく、大切な家族を傷付けた維新志士の元へ。
どうやら強く叩かれた事による気絶のようで義姉の命に別状は無い。
あったら大変だ。
人間でいられる自信が無い。
民の避難は事前に和尚が済ませてくれていたようで民に被害は無い。
あったら大変だ。
妻との約束を守れる自信が無い。
ゆらりゆらりと歩く長船をサムライだと認識した維新志士数名が取り囲む。
義姉の近くでは先んじて楓が踊る様に宙を舞いながら戦闘を繰り広げている。
近付いて来るサムライだと知った維新志士は。
目の前のこの男が会津の鬼黒田だと認識したのだろう。
次々に刀を抜いて襲い掛かって来る奇兵隊という名ばかりの志士達。
「佐幕の者、死すべし!」
志士が斬りかかって来た。
だがなんだ、この遅さは。
左足を後ろに引き、半身になって軸をずらすだけで長船はそれを躱す。
「攘夷の者、死すべし!」
別の志士が突いて来た。
だがなんだ、その緩さは。
一歩前に踏み出し、相手の胸に鞘に納めたままの刀の柄尻を当て、突きの向きを変える。
「会津の鬼黒田、死すべし!」
死なねえよ。
殺せねえよ。
なんでもかんでも、まずは自分の意見を通す事が重要だと思っている。
なんでもかんでも、徒党を組んで力で抑えつければ通ると思っている。
なんでもかんでも、まず最初に数を揃える事が一番だと思っている。
なんでもかんでも、デカい声だけ出してりゃ立派だと思っている。
「なんでも_。」
長船のその声は低く覇気が篭らない。
志士の動きはよく稽古を重ねている事が伝わるものであり、連携も取れていた事から実践形式の訓練もされてあることが伺えた。其処だけは奇兵隊を称賛しても良い。しかしその練度の低くない志士とは決して刃を交えず長船はただ避けるばかり。囲まれていても背中に眼があるように長船は全ての斬撃を避ける。全ての斬撃が温い。江戸千葉道場での北辰一刀流の稽古はこんなものでは無かった。そして国の行く末を案じる者同士のぶつかり合いである幕末の戦いとはこんなものでは在り得なかった。
「なんでも、かんでも_。」
長船のその声は怒りに震える。
志士はこの面妖な島に居た侍が尋常では無いと判断したのか隊列を組み直し刀での自由戦闘から槍による陣形戦術に戦法を変更した。槍衾を展開し、ジリジリと摺り足で長船との距離を詰めようとする。しかし当の本人である長船はゆらりゆらりと歩幅を保ちゆっくりと歩いて来る。
あの槍の柄で義姉は殴られたのだ。視線をやれば楓が義姉の傍で戦闘をしていてくれる。優秀な部下だ。何より上司の気持ちを優先して動ける奴である。
安心して、暴れる事が出来る。
大切な家族を傷付けた者をこのまま返すわけにはいかぬ。
お前の姉を傷付けた者を許すわけにはいかぬ。
槍の穂先をゆっくりとした流水の歩調のままで掻い潜り、身を屈めた長船は右拳を固めた。
直後、島の空気が一変した。
空気が。
風が。
海が。
山の木々が。
小川のせせらぎが。
鳥の歌声が。
島の異常にざわつき、騒ぐのを止めて。
皆一様に《脅えた様に》。
水を打ったかのように静まりかえる。
キィィィィンと耳鳴りまで呼ぶような静けさの中。
長船の握る拳だけが。
べキベキと鳴った。
お前、あの時二人で交わした約束を破る事を許せ。
お前、今一度、鬼に戻る事を許せ。
「思い通りになると思ってんじゃねえぞハゲェェェーーーーーーーー!!!」
◇
剣の極意は振りかかる問題を連続で処理する事に在る。故に周囲の空間認識能力と問題解決の為の処置の早さが肝心である。楓はだからこそ剣とは斬った相手を見ない事が重要になると考えている。一太刀で絶命させる事が出来ればそれで良し。よしんば一太刀目を耐え、斬りかかって来たのであれば二つ目の太刀を重ねれば良い。討ち損じた事など自分が斬られる事に比べれば重要度は低い。多数を相手にする事を前提にする自由剣は危険予測と危険回避だけを極めた剣術なのだと考えられる。その二つを極めた結果が舞う様に剣を振るうと言われるに繋がっただけで、本来自分が使う剣は臆病で派手さの無い防御に忠実な剣だと考えている。
何人目を斬ったのかを覚えていない程度には切迫した緊張感。従姉妹の事もある。斬った相手に視線を送る事は無いが、従姉妹から視線を外す事だけは出来ぬ。
そう思っていた楓は敵からも従姉妹からも視線を外した。
あの堅物で何をやっても空回りの残念な上司の雄たけびが聞こえた。
そして楓は己が眼を疑った。
その上司に殴られた志士が、大量の血を吐きながら凄まじい速度で吹っ飛んでいた。
吹っ飛ぶというよりカタパルトで撃ち出されたに近い。吹っ飛んだ志士は勢いそのままに海面を何度も跳ね、その度に大きな水飛沫を上げて、やがて海に隠れた礁に激突し一角を赤く染める。
その殴った本人がインパクトの際に発生した衝撃波で纏う衣服を大きく損傷していた。着物が破れ露わになった長船の肉体は、それこそ南蛮由来の彫刻のようであった。
筋肉の塊、それも無駄な肉の無い完全な戦闘用の筋肉だと視る者を強引に納得させる。
上司は痩せているのだとばかり思っていた。
しかし考えてみれば長船はベルト給弾式のミニミ機関銃を片手で操作しているのだ。
そんな人間が非力な筈がない。
月代を辞め、四畳藩に倣い坊主頭になった長船。
細身でも筋骨隆々のその肉体が坊主頭に良く映える。
仁王立ちという言葉は、あの上司の為にあるんじゃないだろうか?
志士を殴り飛ばした後に裏拳で槍の穂先を叩き割る様なあの規格外の上司の為に。
いつか、侍とは如何なる生き様かを上司が言った。
あの残念で底意地の優しい目をした侍はこう言った。「日々の厳しい鍛錬とそれによって生まれた鋼の精神で己が信念を貫く者だ」と。文明の利器や未来技術だと言っても過言では無い程に最新鋭の装備を揃えた四畳藩に籍を置いても長船は身体を鍛える事を止めない。便利な道具を用いて効率よく立ち回る事こそが四畳藩を四畳藩で足らしめる理由であるのだと誰もが長船を憐憫の眼差しで見たが、それでも長船が身体を鍛える事を怠けた日は無かった。
晴れの日は畑を耕し土を相手に鍬を振るい、領民の誰もが手を付けないような荒れ地をたった独りだけで、それも鍬一本だけで耕し、その地を領民に自由に貸し与えた。
雨の日は書を読み知識を蓄え、治水や開墾について学び、屋敷内では水瓶を手にして腕力を鍛え、次の日が晴れれば書で知った知識と技術を実際に試してみる。
強き風の日は年寄の領民の家を訪問し持ち運んだ大きく重い木板で家屋を補強し。
日照りの日は子供達に熱くないか、苦しくないかと聞いて回る。
身体一つで何でもやろうとするし、そして何でも出来てしまう。
全てはその鋼の精神により支えられている。
全身鎧を着込んだ重装兵すら長船は片手で地面に叩きつける。また発生した圧の分厚い風が楓を強く叩いた。それは踏ん張らなければ立っていられないような風だった。
上半身半裸のまま憤怒の形相で維新志士を睨めるその姿は正しく鬼のよう。
ゆっくりと歩いて次々と志士を蹴散らす長船。
自分も遅れてはおれぬと次々と志士を斬る楓。
四畳の侍は二人のみ。
一騎当千が二人のみ。
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