第7話 新生四畳藩の始動

 髭を剃っておると顎に一本白い髭が生えていた。とうとう自分にも白髪が生えて来たかと思いそれは自然な事であると気付き、抜こうとする自分の考えを払った。髪の分け目に白髪が増えたのは妻を喪った時からである。ならば鼻毛にも髭にも白髪ぐらい生えて当然であろう。若白髪なのか本物の白髪なのかを思えば本物の白髪なのだろうからそれを何とかしたいと思うのは人間には、否、全ての生物には不可能な事である。

 老いは必ずやって来る。身体の機能はある日を境に頂点を目指す成長からゼロへ還る退化の道を進むようになる。長船の場合、それが髪と髭に顕著に現れたというだけ。長船よりも年上である筈の元新選組の斉藤一が何であそこまで若々しいのかの疑問はあった。きっと生真面目なふりをして夜な夜な若い娘の生き血を吸っておる。それか奥方のトキオさんの生き血を吸っておる。

 長船は妻の生き血を吸った事は無いが。あの猪突猛進の妻の生き血を吸えば栄養があり過ぎて暴走するような気もする。短い夫婦生活の中で喧嘩は一度も無かった。それは喧嘩になりそうな雰囲気になれば長船がすぐに謝る事に理由があったのだが、長船は妻に蹴られても噛み付かれても嬉しかったのだ。斉藤は噛み付いたままスッポンのように離れない妻を見ては大きく溜息を吐き「夫婦の仲が良いのは美徳ですが噛み付いたままの奥方を城に連れて来る事は悪徳です」と長船を嗜めた。何でそんな事を言われたのかって仕事の時間になっても子泣き爺のように背中に張り付いて首筋を噛み付く妻は全く離れず、一人バックドロップや受け身の練習をしても「負けんぞぉ~!」と言っては更に強く長船に抱きつく。だから仕方ないのでそのままカミさんを連れて職場に行ったのであった。

 何故噛み付いて来たのかといえば屋敷で一人待つ妻の寂しさが限界を突破して、今日は仕事をズル休みして自分と遊べと無茶を言い出したからなのだが。

 戦であっても妻を城に連れて行けば城内は和んだ物であった。

 ピンク色の兎の着ぐるみパジャマのまま長船の背中から絶対に離れようとしない美しい娘をなんとか引き剥がそうと会津の侍は頑張って引っ張ったのだがビクともせず。妻のあしらい方が長船より上手い斉藤一が会津名物揚げ饅頭を差し出した所で喜んで自ら離れたのである。

 まあカミさんはカミさんで揚げ饅頭を食べてお茶を飲んで満足したら、また同じように長船に飛び掛かって同じように長船の背中にくっ付いて来たのだけど。

 子猿かお主は。

 そう、妻にツッコんだ事もあった。

 桃色の着ぐるみパジャマを着た美しい娘を背負って城に登る侍など、日本広しと言えども長船ぐらいだろう。

 城に向かう途中の市中でも奇異の視線を向けられての出社であった。

 まあ、妻は涙を流して本気で寂しいと言っていたので。

 長船はその日、妻から離れる事はしなかったのだが。

 尻に敷かれマン日本代表。

 でも背中のカミさんが終始楽しそうであったから良いのだ。

 斉藤殿は頭を振っていたが。

「あの斉藤殿が居れば会津はまだ抵抗を続ける事が出来るであろうが。しかし会津の侍は集団戦闘を得意とする新撰組のような戦い方が出来ぬか」

 斉藤の力量は凄まじいがそれでも個人が組織を相手に出来る事など限られている。人が集まる江戸には実力も無く口が悪いだけの無能な小心者が多く居たが、会津の士は無口な者が多いので組織的な動きをするにはどうしても隊列を組んだ訓練が不可欠になる。しかし戦火にある中で組織的な訓練は難しいだろう。「だりぃ」だの「うぜぇ」だのを口癖としていた江戸の小心者は恐らくは新政府に加担しておるであろうから新政府の人間に同情しなくもないが。

 口を動かす前に手を動かせ。

 そう言われておる事が容易に想像出来る。

 オサレ感覚で維新に参加しておるのであれば戦になれば尻込みするのも当たり前なのだが。

 そう思う様に成った事も老けた証か。若者に不満を漏らすようになる事が老けた事の第一歩である事は今も昔も変わらぬ。そうした若者は如何生きれば良いのかを知らぬだけであるので長船達大人が上手く先導してやらなければならぬのだが。

 島の若者もそうだ。

 男はチャラチャラしておる。

 女はキラキラしておる。

 全く、嘆かわしい。

 この前、楓と一緒に行った「冥土喫茶」なる所が死後の世界を仮想体験出来るものであると思っていた長船は大きく口を開けて驚くばかりであった。御主人様御主人様と、太ももを露わにした面妖な格好をした娘が法外な値段でパンケーキを販売しておった。あれもある意味では死後の世界であろうか。その後に楓と飲みに行った「水着パブ」なる場所では相当寒そうな格好をしたオナゴが沢山居た。半裸の姉ちゃんと酒を飲んで楽しいとは思わぬ。長船は着ていた上等な羽織をそっとオナゴに着させてそこそこに飲んで早々に帰ったのであった。

 全く、嘆かわしい。

 この島は如何なっておるのだ。

 風呂上り。屋敷で独り、熱燗を飲んでおる。

 いつの間にか屋敷に居ついた子犬の柴犬が長船の傍らで丸くなり寝ておった。

 ナナと、名付けた。

 ハチ公に肖ってナナと名付けた。

 ハチ公が分からぬが。

 きっとあと五十年もすれば主人の帰りを待って毎日駅前で待つ健気な犬が現れる。

 そんな予感がしたからナナと名付けた。

「ごめんくださいまし。黒田さん、味噌汁をお持ちしたよ?」

 長船には毎晩味噌汁を届けてくれる女が居た。

 義姉だ。

 ムチムチがええ感じ。

 ロングでウェーブの妻と違って義姉の髪型は前下がりボブだが。

 ムチムチがええ。

 長船、努めて鼻の下を伸ばさぬようにした。

「かたじけない義姉上」

「なんだい。もう飲んでるのかい」

 そのまま台所へと進み、味噌汁が入っている鍋を温め直してくれる義姉。

 ケツをガン見する長船。

「義姉上。そういえば種子島という若い職人と知り合いました。スッポンを喰わせると約束したのですが、何処かこの辺りでスッポンを扱う飲み処はございませぬか?」

 ケツを見たままで長船は言う。

「そうだねえ。島には元々揖保寺ってお寺があったんだけど。其処の住職が明治の廃仏毀釈でお寺を追われちゃってさ。今は立飲み屋を経営してるんだよ。あの店、立飲み屋にしては何でもあるし。其処ならスッポンもあるんじゃないかい?」

 明治政府になって大急ぎで先んじて政策を打ち出したあれか。神仏別離を謳ったものでしかないというのに廃仏運動が全国各地で起こるという現代の一揆騒ぎ。その和尚も気の毒に。信仰の対象はどんな時でも狙われるような事があってはならぬというのに。

「竜胆ちゃんに会ったのであれば装備も新調したのかい?」

「竜胆?ああ、種子島ですね。ええ。ジャージという洋装と幾つかの佐渡兵器を」

「じゃあこれで黒田さんも四畳藩の仲間入りだね。あとはその和尚の立飲み屋で飲めば完璧さ。和尚は先代藩主と仲の良いお方でね。生前は揖保寺に和尚の料理を食べに行ってたとか聞くよ。凝り性なのか作る物が何でも美味しくてねえ」

「まだ外で飲む気にはなれませぬ。余裕が無いというか島に慣れる事が出来ぬというか」

 誰も護ってくれぬ状況に放り出される事には慣れているが。

 何も解らぬ世界に放り出される事は初めての事であった。

 誰も護ってくれぬ事が当たり前であったので些か心乱しているともいえる。

 多くの者が自分を護ってくれる。

 こんな事は初めてであった。

 共に失うしかなかった妻との生活とも違う。

 平社員からいきなり重役になったからだろうか。

「義姉上。俺はこれから島に眠る白船を動かそうと考えております」

「白船を?またどうしてさ?あれは五年前の戦で動かなくなったんだよ?」

「戊辰の戦を止める為、会津を救う為です」

「まあ好きにすりゃ良いさ。黒田さんは四畳の老中なんだから」

 勝手にやれと。

 認めてくれた。

 突き放された。

 何故かを長船は思う事が出来ない。

「なので封鎖区画に向かおうかと思っております」

「でもあそこは高圧電流の流れる有刺鉄線で封印されてるんだよ?万が一にも触れたら大変な事になるって黒田さん解ってるかい?」

「高圧電流?義姉上、もしもそれに触れれば如何になるのですか?」

「大仁多先生になるね」

「大仁多先生かぁ…」

 ならばファイアーと叫ばねばならぬ。普通の人間が大仁多先生状態になれば生きてはいまい。

 あれは大仁多先生だからこそ出来る荒業だ。

 大仁多先生になっては敵わぬ。

 いくら侍として身体を鍛えていても感電だけはどうしようもない。

「それに扉には鍵がかかってるから入れないしね。その鍵は先代が何処に隠したのか判っちゃいないし。竜胆ちゃんも同じような事を言ってたんじゃないのかい?」

「ええ。アイツの場合は長い事放置された白船を修理しなくてはならないと。ですので職人を集める事を約束して来ました」

「スッポン食わせたり職人を集めたり、黒田さんは約束事が多いお侍様だ」

「約束事が無いと動かないグータラな性根ですので」

 さて本日の味噌汁は大根と人参が大きめに切られ、薄切りにされた筍の水煮とぶつ切りにされた厚揚げが共に煮られた白味噌と酒粕のものである。

 朝にこそ味噌汁は良いが。

 実は夜にも良い。

 発酵食品である味噌も酒粕も多く食べるのが良い。

「白船を修理出来る者が多く集まればよいのですが」

「難しいかもね。そもそもこの島の技術は秘匿性が高いし。ところで黒田さんは何で其処まで白船に拘るんだい?」

「皆が幸せになれば良い。そんな魔法が在れば良いなと思いまして。白船はその魔法です」

「みんな幸せになぁれ、だね?」

「でもそれは簡単な事である筈なのに相違点を有耶無耶に出来ない一部の人間が皆平等に幸せになる事を拒むと言いますか。こう、自分が発案した考えじゃないと絶対に賛同しないような人間だと言いますか。まあ皆が幸せになるって事は侍が職を失うって事ですから反対してるのは一部の侍って事になるんでしょうけど」

「もうどうにでもなぁれ、だね?」

 どうにでもならぬ。

 どうにでもしてはならぬ。

「テクマクマヤコンと唱えて世界中の人々が幸せになぁれと唱えれば、戦が無くなるのでしょうか。貧困に喘ぐ子供や格差や差別に苦しむ民が居なくなるのでしょうか?」

「テクマクマヤコンじゃ無理じゃないかい?あれアッコちゃんだけが変身するんだろ?」

 アッコちゃんでも不幸になる民を救う事は出来ぬか。

 よしこちゃんならば、どうか。

 無理か。

 アッコちゃんがテクマクマヤコンしても世は変わらぬ。

 よしこちゃんはテクマクマヤコンが出来ぬ。

 長船、笑福亭笑瓶師匠のヨシコちゃんの物真似が大好きであった。

 多分、今の子は知らぬ。

 あの弟を模した人形をブンブン振り回す物真似が大好きなのである。

「世界に干渉する魔法はどっちかといえばサリーちゃんじゃないのかい?」

「マハリクマハリタでしたか」

「マハクリマハリタだね」

「サリーちゃんのパパがどっからどう見ても鉄拳の三島平八にござりまする」

「成長した鉄腕アトムってアタシ等は言ってたけどねえ」

 サリーちゃんについては悪口しか出て来ぬ。

 よしこちゃんが登場しないからか。

 それともサリーちゃんにこそ、よしこちゃんが登場したのか。

 どっちがどっちだか覚えておらぬ。

「今日、屋敷に種子島が来る事になっているのですが。どうです義姉上。義姉上も俺等と一緒にスッポンを食べに行きませぬか?俺はその立飲み屋が何処にあるのか解りませんし」

「嬉しい御誘いだけどね。スッポンってお高いんだろ?」

 高級食材だ。少し前までは何にでも効く漢方の原材料でもあった。四肢をぶつ切りにして出汁とショウガで煮込めば冷えを癒し、甲羅を剥いで中身を啜れば皮膚を健康に保ち、その生き血を飲めば活力が湧き出て来る。

 それとは別にスッポンの骨を乾燥させ砕けば生薬となるらしいが。

 要は栄養満点であるということか。

 長船は既に何度か食べた事があるのだが。

 あまり美味しいとは思わなかった。

 妻は。

 妻はムッチャ食っておった。


貴方!

スッポンよ!

亀食ってる!

私、亀食ってる!

スッポンは亀とは別?

んじゃ何亀だコヤツは。

猛り立つエナジィー♪

戦慄くエナジィー♪

ハゲ。

こりゃ天然のエナジードリンクだぁ♪

ハゲ。


 その後、元気が出過ぎて鼻血を出しながら流しの遊女と取っ組み合いの喧嘩を始めたのだが。流しの遊女が何を意味するのかを知る長船はその喧嘩を止めねば妻が殺されると本気で焦ったものであった。

 しかしなんとまあカミさん、流しの遊女、つまりクノイチに喧嘩で勝利したのだった。

 その際の決め手は前蹴りからの連絡変化でタイガードライバー。

 妻は元気の良い娘であった。

 クノイチに喧嘩で勝つぐらいには。

 拘りがあるのか、決め手は直下型であるタイガードライバー91であった。

 投げっぱなしであるタイガースープレックス85も使っておった。

 三沢社長のファンだったのだろうか?

 後日、クノイチを成敗したとの事で妻は会津の殿さまに表彰をされたのだが、嬉しくて何が何だか分からなくなった妻は会津の殿様にもタイガードライバーであった。

その時にカウントスリーを数えたのは長船で、後で殿さまにビンタされるのだけど。

「一応、老中なんで金はありまする。義姉上は気を遣わないでくだされ」

「お給料は会津の時の十倍ぐらい貰ってるんだったかい?」

 十三倍だ。

 燃ゆる水の恩恵がデカ過ぎて怖いくらい。

 正直これだけ金を頂いても何に使って良いのかが解らぬ。妻が生きておれば妻に美味しい物を食べさせてやりたかった。これだけあれば妻の最終目標であった『メニューにあるもん全部』が出来たかもしれぬ。

 全く、皮肉なものだ。妻を喪ってから妻に使いたいと思う物が手に入る。

 皮肉と言うのであれば維新叶って民の暮らしが変わらなかった今の世こそなのだろうが。

 味噌汁を肴に冷酒を飲む。

 島の訳が分からない食べ物ではなくこうして日本酒を飲むのが良い。

 良く冷えたビールは美味いがこうしてチビチビと日本酒をやるのが良い。

 騒がしく飲むのは苦手だ。そもそも騒がしいのは苦手なのだ。

 一日の疲れを飲み干すのはビールであろうが。

 一日の出来事を噛みしめるのは日本酒が良い。

「銭については義姉上は気になさるな。家族の為に使う金ならば死に金にはなりませぬ」

「ハゲ。幾ら貰ってんの?」

「気にすんなっつってんのにグイグイ来ますね」

 知りたがりな義姉。

 この辺、妻によく似ておった。

「アタシ。コンビニとキャバクラで月の稼ぎ結構あるけど?」

「そうですね。軽自動車を現金で毎月買えるぐらいとだけ」

「ハゲ。貰い過ぎだぞ?」

「…ええ。俺もそう思います」

 会津の殿さまが給金を決めたのだが、一体何を期待してこんな金額にしたのか。

 多分、幕府の大老ぐらい貰っておる。

 あの、牢屋にぶち込みまくって斬られて死んだ大老ぐらい貰っておる。

 クソジジイ。

 テメエのせいで日本分裂しちゃったじゃねえか。

「安政の大獄以降、この国には休まる時がありません。ペリーがこの国に来た事もそうですが何よりもあの『ワシの言う事に反対しちゃう奴はみーんな牢屋にぶち込んじゃうぞ☆』の一件が原因で国は割れました。国を割った老人はその後、脳天をかち割られたんですが。ですが割れた国は未だ割れたままで迷走を続けています。なんとかしようと立ち上がった者は浮足立つ部下を抑える事で精一杯。この島のこの空気感が別の國のようだと俺が感じるのも無理はないのかも知れませんね」

「この島は完全に独立してるからね」

 そんな事は絶対に不可能な筈なのだ。元々佐渡は金山があるとの事で幕府の直轄であった筈なのだし。やはり先代が何か思惑がありこの島を独立させたのだとしか思えない。そしてその金山跡地には今もまだ何かが行われておる気配がする。

 臆病な長船には解る。

 まだ、金山には人の出入りがある。

 金掘ってんの?

 何掘ってんの?

 基盤作ってんの?

 何作ってんの?

 そんな風に聞く事が出来る程に長船は友好的な態度を取る事が出来ぬ。

「そろそろ種子島が来る頃ですね。義姉上も外に出る準備をして下され。鍋と食器はまた明日藩邸に向かう時に持って行きますから」

「なら、相伴に与らせて貰うとするかね」

 長船は黒い袴に黒いジャージ、更にその上に四畳藩軍用ジャケットを羽織り。

 義姉はシックなパンツルックに同じく四畳藩軍用ジャケットを羽織って屋敷の外へと出た。

 夜であるのに星より町が明るい。

 まだ島の夜には慣れぬ。

 悲鳴と啜り泣く声が聞こえぬ夜に。

 血と泥と硝煙の匂いがせぬ夜に。

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