第3話

 四畳藩に来て二週間が過ぎた。

 もう長船は島についての理解を放棄していた。

 なので此処でも自分らしく生きればいいやと思っておった。

 春でも日差しが強く風が無い日はとても暑い。会津や江戸に居る時は春であってもウナギや鯉を求めて暖簾を潜ったものである。川の魚は暑さを和らげる効果を持つ事が多く、ウナギが高くて手が出ないという事で庶民に流行ったのが柳川鍋であろう。その柳川鍋も庶民の味というには値が吊り上り高級品となってしまったが。その内、ルパンが泥鰌を盗みに来るような時代になるかもしれぬ。店に来ないで川行けよと言われればそれまでだが。


 _話を戻して。

 春というのは暑い日と寒い日が交互にやって来る事が多い。ゆえに体調を崩しやすく、春のスタートダッシュに躓く事が多いのは単に体調管理が如何という話ではなく、意地悪な春の気候と緊張して張りつめた肉体に負荷がかかるからであろう。其処で暑い日でも寒い日でも等しく身体に栄養を行き渡らせる料理として便利なのは鍋である。長船は《とある事情》があり戦う医者としての修練を重ねて来たので体調管理や健康面の管理というのには人一倍敏感なのだ。

 米の研ぎ汁でコトコトと煮込まれる大根が透き通る。

 それは長船の心の在り方にも通じていた。

 濁っていた心から、段々と透き通っていく。

 キャピキャピした藩邸の飯炊きや気持ち悪い姫、そして気ままな部下の体調面を気遣ってこその上司であり侍であろう。メゾネットタイプの長屋前で炭に火を熾し、鉄鍋に出汁と生姜を大量に入れた米の研ぎ汁で大根の下茹でを行う長船。あとはこれに豚肉を入れて味噌で味を調えるだけで良い。栄養が偏れば折角の訓練も筋肉に形成しない。抵抗力が落ちれば弱い菌にも身体は負けるであろう。幾ら面妖な島の文化があろうとも人間の基本は食である。それは幕末期から変わらぬ。

「何をやってんですか老中」

「楓か。豚肉と大根の味噌煮込みを作っておった」

 気ままな部下が藩邸に戻ってきおった。

 その手には謎の水色のシャクシャクと音がする氷の棒が在る。

 ゴリゴリ君だ、あれは。

 暑いからコンビニという名の面妖な万屋でゴリゴリ君を買って来たのだ、コイツは。

「ショウガの香りが堪りませんが、何故に豚肉と大根の味噌煮込みなんですか?」

「豚肉というのはタンパク質とビタミン、そして脂質を兼ね備えた健康食なのだ。其処に食物繊維と酵素が豊富な大根を加える事で、藩邸勤務の皆に春の邪気にも負けぬ身体を作る事が出来る様にと思ってな?」

「春にジャギですか?島でジャギを見た事が在りませぬが…」

「安心しろ。幕末にジャギいねえよ」

 居たとしても長船は北斗神拳を使えぬ。

 それに春の邪気はジャギ以上に厄介だ。

「春といえば酒が美味い季節です」

「だから花見だの新歓だので飲む機会も多い。内臓は傷付いて行くばかりだ。特に若いオナゴがそうだな。飲む機会を断れずに内臓はドンドンと痛みを蓄積していく。だからこそ春には鍋物や粥が良い。それとショウガを焚いて汗を出す薬湯を常備するのが好ましい」

 特に北国では酒を水代わりに飲む習慣が多い。

 寒過ぎて飲むしかねえからだ。

 長船も会津に居た頃は何人ゲーゲー吐く町娘を介抱したのか覚えておらぬ。ゲーゲー吐いて道端に倒れる町娘や侍を介抱する事こそが春の風物詩。泥酔状態で長船にも絡んで来るような輩には水を飲ませずに腹部にパンチして黙らせる事もあった。まず若い娘が道端に転がっているというその状況がムチャクチャ危ないのだが_。会津ではそういう行き倒れというか飲み倒れを番所に連れて行って酔いが醒めるまで牢に入れていたのである。これも治安が良いからこその人情であろうか。

 これが東京だったら町娘は襲われ放題であろう。

 女が欲しいと刀を持つ阿呆も世の中にはいるが。

 維新志士め。

 女にモテるからを自由民権の理由にしてんじゃねえ。

 女が欲しいからという理由だけで生き方決めてんじゃねえ。

「しかし老中。豚肉と大根の味噌煮込みを作られたところで我々は飲んだ次の日はウコンドリンクとヘパリーゼ錠とアミノバイタルを飲んで酒を抜くのです」

「なんで幕末にそんなモンあるんだよ」

「ペリー持ち込んだんじゃね?」

「ペリー色々と持ち込み過ぎだろ」

 国を開けなさいどころか変えてやがっておる。お土産で次世代ゲーム機を持って来るオジサンみたいなもんだ。それを貰った子供は勉強しなくなってゲームばかりみたいな?

 実際はゲームがあったところで勉強する子は勉強するのだが。

 逆に子供の時に束縛し過ぎると大人になってから混沌を求める様になるので要注意。そしてその束縛したがる親というのは子供が大人になったら親はもう関係無いと考えてしまうものだ。結局は子供より自分が中心であると考えているという事なのだろう。

 いつの世も親が子を腐らせる事は珍しくない。

 それ以上に友が人を腐らせるのが世の常なのだが。

 まあ、そんな事を言い出せばキリがない。結局のところ、人間とは孤独な者だ。こんな文明があったところで寂しさが人の味方になる事は無いだろう。だから人の歴史とは常に寂しさと戦うものである。幕末は結構独りぼっちが当たり前なので飄々と過ごす事が出来るのだが。なんせ今は他人に干渉する者は斬られる時代だ。ある意味では良い時代だと言えるだろう。この時代に人付き合いで心を悩ますなどというのは武士ぐらいのものではないのだろうか?


 まあその武士がこうして長屋の外でコトコトと鍋煮てんだけど。

 まず島に侍が二人しかおらぬ。


 琉球の侍は刀が重いので筆を持ち書を描くようになったと伝わるが、その島の若い侍は刀が重いので缶ビール片手に街を闊歩しておった。

なってない。

 四畳は風紀がなってない。

 風紀がというか色々なってない。

「楓。まだ昼間だぞ?缶ビールが美味いのは解るが」

「幕末は起きたら飲む侍が当たり前ですけど?」

「それは日本酒とか焼酎の話でビールは不味いんじゃねえか?」

「今日も燃ゆる水は元気よく出ていますからね。我々の仕事はもうありません」

「セキユ、といったか。昔から越後の辺りは燃ゆる水が滲む沼があるとは聞いていたが。燃ゆる水が単体で噴き出すなど聞いた事はなかった。それも海底から汲み上げているのであろう?」

「佐渡の文明を支える貴重な資源ですからね。燃ゆる水があれば侍は何もしなくて良いのです。逆に燃ゆる水が無くなったら侍は死ぬしかないのだと」

 侍の生き死に、燃ゆる水次第。

 あの黒い泥に生殺与奪権を握られておる。

「飯炊きのオナゴもどっか行っちゃうしな…」

「飯を炊いたので男を漁りに行ったのでしょうね」

 なってない。

 四畳は人間がなってない。

 人生なめてるとしか思えぬ。

「姫は姫で気持ち悪いしな…」

「今日は夕方まで寝るのかと。夕方まで寝たらまたゲームでしょうね」

 なってない。

 なってないモノが多過ぎて何がなってないのかすら既に解らぬ。

 特に姫は人生というか全てをなめてるとしか思えぬ。

「これは姫の夜食にするか。伸縮性の良さそうなあの寝巻のような洋装のままウロウロされては藩主の沽券に関わる。叛意を持つ藩士が現れなかったのが不思議なぐらいだ」

「その藩士も今までいませんでしたからね。老中が島に来るまでは私も農民でしたし」


「ちなみに俺は既に謀叛したくて仕方がねえ」

「奇遇ですね。私もです」


 毒入れようかな?

 それぐらいはスンナリ思いついた。

 それでも見た目が気持ち悪いのに生命力だけは結構あるらしい姫は毒を盛られても生き残るのだろう。恥も外聞もかなぐり捨てて欲望のみに忠実な人間がどれほどまでに恐ろしいのかを長船は戊辰の戦で嫌という程に知った。嫌だといっても止めてくれないのが戦であるが、行き着くところまで行くしかないのが殺し合いであるが。そもそも戦の始まりが無血開城と大政奉還に異を唱える会津が暴れた事に端を発しているので会津藩士である長船としたら何とも言い訳が出来ぬのだが。

 それでも戦なんぞはしない方が良い。

 殺すだけじゃなく滅ぶまでやらなきゃ止まれなくなるのだから。

「四畳藩ってカミさんの出身地なんだっけな」

「ええ。山本家は島の住宅地にポツンと在ります」

「楓。お前山本家の事、知ってんのか?」

「だって私の本家が山本家ですもん」

 今明かされる衝撃の真実。

 早くも、衝撃の真実。

 部下、親戚なのだった。

「…んじゃ俺とお前も遠縁って事になるんじゃねえか?」

「老中気付いてなかったんですか?私、だから老中の部下になる為に侍の身分を与えられたのだとばかり思ってましたけど?」

「…世間は狭いな。しかし、ならばこそ早めに挨拶行っておいた方が良いか。双子の姉が居るとは聞いていたモノの、挨拶には終ぞ来る事が叶わなかったのだし」

「由美姉ですね。確かに奥方様瓜二つです」

 んじゃ早く行きたくなるのも未亡人の性か。

 カミさんの双子。

 それだけで結構長船的にはポイントが高いのだけど。

「もう仕事ねえなら、俺チョロっと行って来ていいか?」

「どうぞどうぞ。どうせ何にも仕事なんか無いんですから」

 コトコトと煮ていた鍋はそのままに。

 藩邸の中に入れれば腹を空かした姫が勝手に食うだろう。

 よしんば熾した炭が藩邸に燃え移って姫が焼け死んだとしても別に構わぬ。

「んじゃ。ちっと行って来るわ」

「ええ。留守番はしておきますので」

 長船は実は親類であった部下に留守を預け住宅地に向かう。

 足早に。

 そそくさと。

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