第3.5話 篠宮綴は文字が汚い


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 篠宮パソコン教室の講師である篠宮綴しのみやつづりには、幼い頃からのコンプレックスがあった。


 それは、『つづり』という名前なのに、文字が異様に汚いことだった。本来なら最も親しみがあるはずの自らの名前ですら、自分なりに一生懸命書いているのに、バランスが崩壊してぐちゃぐちゃになってしまう。


 小学生の頃から、人前で文字を書くと、ほんの少し、クスッと笑われる。表立って馬鹿にされたり、いじめられたりするようなことはなかったが、それでも、幼心にそれが無性に恥ずかしくて、情けなくて。


 いつしか篠宮綴は、小さな文字ばかり書くようになってしまった。

 

 小学校教師の経歴があるというのに、黒板に板書を書くことすら苦手で、印刷したプリントを貼り付けて授業をしていたほど。コンプレックスは根深いものだった。


 篠宮綴は、自分のいびつな文字が嫌なあまり、スマホやパソコンに出会ってからはほとんど文字を書くのをやめている。


 履歴書やその他の提出書類も、全部パソコンで仕上げて印刷してきた。そちらのほうが間違えても修正が効くし、量産も簡単だと自分に言い聞かせていた。


 笑顔の裏の、心の奥底に、ずっと奥に、コンプレックスを押し込めながら……。


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 しかし、最近篠宮パソコン教室に入った八十歳の初枝の文字は、思わず息を飲むほど美しかった。


(こんな綺麗な文字を書けたら……)

 

 そう思い立った篠宮綴は、仕事終わりの休憩時間に、少しずつ、ペン字の練習を始めていた。ペン字練習の本は、書店で買ってきたものだった。

 

 ずっと、汚い文字がコンプレックスで、長い間、文字を書くことを避けていた。自分には、きっと綺麗な文字を書くことなんて一生できないと思っていた。


 だから、お手本の文字をなぞることすら覚束ない。


 それでも、勇気を出して頑張っている初枝のようになりたいと、篠宮綴は思ったのだった。


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 ――ピンポーン!

 

 そんな時、篠宮パソコン教室の呼び鈴が鳴った。篠宮綴が「はーい!」と返事をして出入り口に向かうと、扉越しに初枝の姿が見えた。


「篠宮先生、恐れ入ります。私、忘れ物をしてしまいました……。申し訳ございません。実は、忘れ物というのが、とても大切な筆箱なんです。もしよろしければ、取りに戻ってもよろしいでしょうか?」


 初枝は申し訳無さそうに眉を下げて、深々と頭を下げた。


「初枝さん、頭を上げてください! 大丈夫ですよ! さあ、上がってください!」


 篠宮綴は笑顔でそう伝えた。篠宮パソコン教室は規模こそ小さいが、家族経営なので、融通が効くのだ。閉館時間になったからといって、問答無用で締め出すほどに厳しくはない。そこまで畏まった態度を取られると、篠宮綴のほうが申し訳なくなってしまう。


 許しをもらえた初枝は、顔をほころばせて笑った。

 

「本当にありがとうございます。忘れ物を見つけたら、すぐにお暇しますから」

 

 そう彼女は言って、パソコン教室の授業で普段初枝が使っている席に急いで駆け出していこうとした。

 

「慌てなくて大丈夫ですよ、ゆっくりどうぞ」

「ありがとうございます」

 

 頭を下げた初枝は、転ばないように落ち着いてパソコン教室の中に入る。そして、忘れ物の上品な花柄の筆箱を見つけると、大切そうに抱きしめた。


「これは、亡くなる少し前に、いさおさんが買ってくださった大切な筆箱なんです。家に帰ってから、置き忘れてしまったことを思い出して。ああ、失くしてしまわなくて、本当に良かった……」


 初枝は涙ぐみながら、筆箱を優しく持って、微笑んだ。篠宮綴も、初枝の大切なものが見つかったことに安堵して笑顔になった。


「大切な筆箱が見つかってよかったです! あ、今後何かあったら、わたしの方から初枝さんのお家にお電話差し上げてご連絡しますね!」

「お気遣いありがとうございます」

 

 そういって、初枝は、唇を綻ばせて、花が咲いたような可愛らしい笑顔を見せた。


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 帰り際、初枝は、篠宮綴が持っていたペン字講座の本を見かけた。

 

「あら、篠宮先生も、何か講座を受けていらっしゃるのですか?」


 篠宮綴は照れくさそうに笑って、頬を搔いた。


「はい。わたし、あまり文字を書くのが得意じゃなくて。ずっと……文字を書くのを避けていたんです。でも、苦手意識があることでも頑張っていらっしゃる初枝さんのお姿を見ていたら、わたしも何か頑張りたくなって、始めてみたんです。も、目標は高く! 初枝さんのように綺麗な文字を書くことです。なんて……」 


 初枝は、その言葉を聞いて、感じ入ったように目をうるませた。


「……この年になって、こんなにも褒められることがあるなんて思ってもおりませんでした……」


 初枝は、両手で顔を覆って、ほんの少しだけはらはらと涙をこぼす。初枝はもともと、激しい感情を表に出す方ではなかったのだが、長く連れ添った夫、功を亡くしてから、涙もろくなってしまっていた。


 そんな初枝に、篠宮綴は、ティッシュを差し出してくれた。片方の手で、ゴミ箱もそっと持ってきてくれた。篠宮綴は、初枝が落ち着くまでそばにいることにした。


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 篠宮綴は、感極まって泣いてしまった初枝のために温かい緑茶を淹れてきた。綴は、緑茶を淹れるのが得意だった。篠宮家では幼い頃から緑茶を飲む習慣があり、綴の仕草は洗練されている。


 急須の中からとぽとぽと注がれる緑茶の色は、色鮮やかでとても美しかった。


「粗茶ですが、よかったら。初枝さんのお時間が大丈夫そうなら、お茶とお茶菓子をご一緒しませんか?」と、綴は尋ねた。


 初枝はぱあっと顔を綻ばせて嬉しそうに微笑んだ。「お気遣い、ありがとうございます。篠宮先生のような若い方とお話できるのは嬉しいです」と、初枝は答えた。


 もう、初枝の目には涙は見られない。どうやら、彼女の気持ちは落ち着いたようだった。



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 夕暮れの篠宮パソコン教室に、オレンジ色の夕焼けの光が差し込んでいた。そんな中、篠宮綴は、モジモジと手を合わせて、緊張した面持ちで問いかけた。

 

「……あの、初枝さん。初枝さんは、元々、お習字の教室を開かれていたのですよね?」

 

「はい。若い頃に」と、初枝は微笑みながら首肯した。

 篠宮綴は大きく息を吸って、大きく息を吐く。深呼吸を終えると、真剣な顔で、初枝に問いかけた。

 

「あの……! ご迷惑かもしれませんが、初枝さんに、どうしてもご相談したいことがありまして……!」

 

「私に相談? どんなことでしょうか?」


「……不躾なお願いだとはわかっています。お忙しかったり、ご迷惑だったりしたら、断っていただいて大丈夫ですので! きちんとした額の月謝をお支払いいたしますので、授業終わりの三十分間、私に習字のお稽古をつけていただくことはできますでしょうか……?」

 

 篠宮綴は、勇気を振り絞って、お願いをした。彼女は縋るような眼差しで、初枝を見つめていた。

 

「え?」

 

 初枝は予想外の言葉を聞かされて、びっくりしたように目を見開いている。

 

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 篠宮綴は、必死に自分の思いを伝えた。

 

「わたし、初枝さんのような素敵な文字が書けるようになりたいんです! 初枝さんの文字が、理想なんです! わたし、ずっと長い間、文字を書くことから逃げてきました。だから、一人じゃ心が挫けてしまいそうで。憧れの初枝さんと一緒なら、頑張れるって思ったんです。勝手なお願いでごめんなさい。でも、よかったら……お願いします!」

 

 篠宮綴は、深く深く頭を下げて祈るように両手を組んでいた。まるで、その姿は、パソコン教室に来たばかりの日の初枝を見ているようだった。


「……本来なら、パソコン教室の生徒さんに、こんなことお願いするべきじゃないって分かっています。でも、この機会を逃したら、一生、笑われるような汚い字のまま終わっちゃうかもしれない。そう思うと、すごく怖いんです。……わたし、綺麗な字が書きたいんです! だからどうか、お願いします! 私の先生になってください!」

 

 篠宮綴は、頭を深く下げて懇願した。

 彼女の言葉を聞いた初枝は、大きく目を開く。


 そして、顔を綻ばせて大輪の花のような笑顔を浮かべると、目を細めて喜色のこもった声で告げた。

 

「まあ! まあまあ! 嬉しいわ。この年になって、お習字を教える事ができるなんて……!」

 

 初枝は、そっと篠宮綴の手に触れて、優しく微笑んでくれた。

 

「是非、こちらこそ、よろしくお願いいたします。自分の培ってきたことで、お役に立てるなら、何よりも嬉しいですわ」


 篠宮綴は、初枝の手を握り返して、感極まった表情をしていた。目をぎゅっとつぶって涙をこらえ、初枝の手を握り返した。


「よろしくお願いします、!」


 数十年ぶりに『先生』と呼ばれた初枝は、嬉しそうに、「はい」と返事をした。彼女の目には、篠宮綴との新たな関係を築く、深い喜びが宿っていた。

 


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 この日から、パソコン教室の授業終わりの三十分間、初枝は篠宮綴にとっての『先生』になってくれた。

 

 初枝は、優しく柔らかな筆致で、『篠宮綴』という名前のお手本を書いてくれた。生まれて初めて、篠宮綴は、自分の名前が好きだと感じた。このお手本の紙は、篠宮綴にとって、とても大切な宝物になった。

 

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