第3話 『あいこん』と『まうすかーそる』
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うららかな日差しが差し込む、篠宮パソコン教室。
ホワイトボードの前で教鞭をとる篠宮綴の明るい声は、心地よく教室に響いている。
いつもの和装に身を包んだ八十歳の初枝は、真っ直ぐに手を伸ばし、挙手をした。
「篠宮先生。『あいこん』とは、どういうものでしょうか?」
篠宮綴は元気いっぱいの満面の笑顔を向けて、初枝に向き直った。
「はい! お答えします! アイコンというのは、画面の中にある小さな絵のことです」
「小さな絵。具体的には、どんなものでしょうか?」
篠宮綴は、初枝の眼前のパソコンに近づく。画面上に配置されている『G』のアイコン、某有名動画サイトの赤いアイコン、メモ帳のアイコンを、篠宮綴は一つ一つ丁寧に指さしていった。
「『これ』と、『これ』、『これ』のことを、そう呼びます。アイコンという言葉には、『図で表現されたもの』という意味があります!」
初枝は、興味深そうに頷くと、すぐに手帳に記録した。初枝の筆致は、誰もが見惚れるほど美しい書体だった。
「成程。これが『あいこん』。様々な色や形がございますね」
「そうです。アイコンには、初枝さんの仰るとおり、色んな柄や色があります。それぞれ役割や機能がありますが、今回覚えるのは一つだけで大丈夫です! 今日授業で使うのは、この『メモ帳』です」
初枝は、凛とした姿勢のまま、ほっと息を撫で下ろした。
「今から、この画面にある『あいこん』の名前や形を全て覚えなくてはいけないのかと思っておりました。本日は、一つで良いのですね。それならば、きちんと覚えられそうです」
初枝は、画面に穴が空きそうなほどしっかりとメモ帳のアイコンを凝視した。
「この、小さな手帳のような絵ですね。覚えて、記録も取りました。……もしかして、この『めも帳』というものには、文字や言葉が書き込めるのでしょうか?」
篠宮綴は、笑顔を浮かべて頷く。
初枝の座席に備え付けられているものと同型のキーボードを持ち上げて、わかりやすく示してくれた。
「はい、そうです! お手元にある、黒い長方形のこの板、キーボードを使うことで、言葉を記録できますよ!」
初枝は、流麗な筆致で、手帳にキーボードの記録を書いた。初枝は絵も上手で、簡易ながらもキーボードだとすぐ見てわかるイラストも側に描いていた。
「『きーぼーど』は、何となく理解できます。この文字一つ一つを指で押すことで、タイプライターのように文字を入力できるのですね」
篠宮綴は笑顔でこくこくと頷いた。初枝は、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて、そっとキーボードを撫でた。
「……夫が、毎日かちゃかちゃかたかたと、楽しそうに操作をしておりましたから」
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初枝は、怖ず怖ずと挙手をして、恥ずかしそうにはにかみながら告げた。
「……あの、篠宮先生。私、『きーぼーど』をかちゃかちゃ、かたかたと、格好良く動かすことに憧れていたのです。後ほどで構いませんので、少しだけ、触ってみても宜しいでしょうか?」
「はい! 少し準備をした後に、一緒にやってみましょう!」
篠宮綴の明るい言葉に、初枝は嬉しそうな微笑みを見せた。
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「ではまず、先日行った『クリック』の復習から行いましょう!」
初枝は、凛々しい表情でマウスを構え、左部分のボタンを人差し指で押した。
――カチッ。
初枝の指によって生み出されたクリック音が、パソコン教室に響き渡る。
「そうです! 素晴らしいです!」
篠宮綴は、右手でマウスを握る仕草をして、横にスライドさせるジェスチャーをして見せた。
「初枝さん。マウスを握ったまま、横に動かしてみていただけますか? 地面に接地したまま、滑らせるような感覚です」
初枝は、篠宮綴の仕草を真似して、マウスを左右にすべらせる。
「こうでしょうか? ……あら? 黒くて小さいものが動きました。虫……? 小蝿かしら。それとも私、とうとう
「初枝さん、大丈夫ですよ! この黒くて小さなものは、『マウスカーソル』といいます。この小さな黒い矢印と、マウスの動きは連動しているんです」
「連動。成程。だから、『まうす』と一緒に動いたのですね」
「次は、マウスを机から浮かさないで、くっつけたままで、少し、左右に動かしてみていただけますか?」
初枝は、恐る恐るマウスを左右にスライドさせた。すると、画面の中で、黒く小さなマウスカーソルが、左右に動いた。
「あら! まあ! 動きました……!」
初枝は、マウスを動かして、マウスカーソルをぐるんぐるん動かして遊んでいた。まるで、新しいおもちゃに出会った子どものようである。
しばらく遊んでいたあと、初枝はハッとして恥ずかしそうに赤面した。
「申し訳ございません。授業の途中だということを忘れておりました」
「大丈夫。いっぱい楽しむことが、パソコンマスターへの近道です!」
「……それなら、もうちょっと、遊んでもよろしいかしら」
初枝は、それからしばらくマウスカーソルを動かして遊んでいた。その姿を、篠宮綴はにこにこしながら見ていた。
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「『まうすかーそる』の動かし方、習熟いたしました」
たっぷり三十分ほど遊び尽くして、初枝は嬉しそうだった。実際、初枝のマウスさばきは熟達し始めていて、初日のような覚束なさはなくなっていた。
初枝は、元々書道教室を開いていたこともあって、手先が器用なのだろう。
「たった二日の授業でここまで習得できる方は、滅多にいません。素晴らしいです」
篠宮綴が本心からそう言うと、初枝は満更でもなさそうにはにかんでいた。
「では……『マウスカーソル』を、『メモ帳アイコン』のところまで動かしてみていただけますか?」
少し難易度の上がった指示だったが、初枝は凛々しい顔で、ばっちり決めてみせた。
数日前の初枝だったら、言葉の意味すらわからなかった。初枝は、着実に進歩している。
「そして、『メモ帳アイコン』と、『マウスカーソル』が重なったことを確認したら、『クリック』してください」
――カチッ。
初枝は、堂々たる風格で、きっちりクリックした。
すると、パッと画面が切りかわり、画面全体にメモ帳が開く。
「あら……すごいわ、真っ白。ここに、文字が書き込めるのですね」
初枝は、淑やかな微笑みを浮かべた。亡き夫である功に、思いを馳せながら。
そんな初枝をよそに、篠宮綴は、少しだけ悩んだ。
キーボードには、大きく分けてローマ字入力と、ひらがな入力の方法がある。篠宮綴は悩んだ末に、キーボードに慣れる目的も含めて、ひらがな入力を選ぶことにした。
「初枝さん。このキーボードのどこかに、『あ』がありますので、ゆっくり『あ』を探してみていただけますか?」
「『あ』……。『あ』……。どこにあるのかしら……」
初枝はしばらく探し回ったあと、キーボードの左上側を見て「あったわ」と小さく告げた。
篠宮綴と初枝は、いたずらっ子のように目を合わせて、微笑みあった。
「では、お待ちかねの」
「かちゃかちゃかたかたの時間ね」
初枝は、そっと『あ』のキーボードに触れた。
すると、空白だったメモ帳に、『あ』という明朝体の文字がくっきりと刻まれる。
その光景を見て、初枝は、目頭が熱くなるのを感じた。在りし日の夫、功も、こうして文字を紡いでいたのだ。初枝は、ぐっと唇を噛み締めて、涙をこらえようとした。
「ぱそこんなんて私なんかには無理だって思っておりました。でも、……でも、私にも、功さんと同じことが、少しだけ…………」
そう言って、初枝は涙ぐんでいた。
篠宮綴は、初枝の涙を見て、もらい泣きしてしまった。
寂れた町の片隅にある小さなパソコン教室で、世界にとっては小さな一歩、個人にとってはとても大きな躍進が起きていた。
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