第2話 『まうす』と『くりっく』
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八十歳の老婦人、
初枝は、初めての授業の日に胸を躍らせていた。
和装を乱さない優雅な姿勢、緊張と期待が入り交じった気持ちで講師の篠宮綴の話を真剣に聞いている。
やがて初枝は、真っ直ぐに手を伸ばし、挙手をした。
「篠宮先生。『くりっく』とは、どういうものでしょうか?」
「はい。お答えします! ではまず、復習も兼ねて、この『マウス』という道具のことから説明しますね。初枝さんの目の前にある様々な機械の中で、『これ』を、マウスと呼びます!」
篠宮綴は、右手に灰色のマウス、左手にマウスから伸びるケーブルを持って掲げた。
「『マウス』はズバリ、鼠という意味です。この有線ケーブルが尻尾が生えているように見えて、鼠に似ていることから、そう名付けられたんだそうですよ!」
篠宮綴は、大きめな鼠の絵を書いて説明する。大きく書くのは、様々な年代の方でも見えやすくするための工夫だ。
「鼠さんに似ているから、マウス……」
初枝は、教えてもらった内容を、手帳にしっかりと記録する。初枝の文字は、素人の篠宮綴が見てもわかるほど美しい達筆だった。
篠宮綴は、思わず初枝の書いた文章に見惚れる。
「初枝さん、すごく文字がお綺麗ですね」
「ありがとうございます。……実は若い頃、書道教室を開いていたことがあるのです。文字を書くことに関しては、
初枝は、恥じらうように俯いた。
「申し訳ございません。きっと、『まうす』や、『くりっく』のことなんて、とても初歩的なことなんでしょう? 中々覚えられなくて……」
「とんでもないです! 授業の内容に興味を持って質問してくださるのは、『先生』冥利に尽きます!」
篠宮綴は、胸を拳でドンと叩くジェスチャーをする。
初枝は、綻ぶような笑顔を取り戻してくれた。
「私も、書道教室を開いていた時、通ってくれていた子どもたちに、篠宮先生と同じ言葉を伝えていました」
篠宮綴と、初枝は、視線を交えて笑顔を交わした。
『先生』と呼ばれて、子どもたちと接してきた者同士、不思議と通じ合う何かが二人の間にはあった。
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「では、授業をゆっくり再開していきますね。次は、初枝さんの質問にもあった、とても大事な基本操作、『クリック』についてです。マウスの左側のボタンを押して、すぐ離す。この操作のことを、『クリック』といいます」
篠宮綴は、初枝の前で、実際に手本用のマウスを握り、クリックの仕草を間近でして見せた。
「クリックは、英語で、『カチッという音』という意味です。試しに押してみてください。本当に、カチッと、音が鳴りますから!」
初枝は、こわごわとマウスに触れて、恐る恐るマウスの左側のボタンを指先で押した。
――カチッ。
小気味いい音が、篠宮パソコン教室の部屋に響いた。
初枝は興奮したように、カチカチカチカチと連続でクリックしていた。
「すごいです。本当に、かちかちと音が鳴りました」
「バッチリですね! 今日はとても大事な操作を覚えたので、初枝さんの目的まで大きく躍進しましたよ!」
「ありがとうございます。篠宮先生」
初枝は笑いじわを深めて、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、篠宮綴は、とても幸せな気分になった。
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