006

集中力が切れて窓から見上げた青い空に、季節外れの入道雲が浮いてるのを見た。

ほんの少しだけ疲れ始めた眼がやわらぐ。

「疲れたかい?」

気遣いがじったその声に気まずく思いながら視線を少し横にずらすと、窓際の席に座る四十も見えてきて皺の増えてきた優しげな灰色の瞳がこちらを見ていた。


「すみません少し集中力切れてました。」

「仕方ないよ、今日は朝から手伝ってもらってるし、そろそろ昼食が消化される頃だしね。」

壁掛け時計を見ながらそう言うと少し休憩にしようかと、伸びをして立ち上がり入口近くまで歩いて慣れた手付きでカップに紅茶を注ぐ。


「飲むかい?ユア君も。」

「飲みかけがあるから大丈夫ですよ。」

机の中心から避けていたカップを手に取って答えると、

そうか、とそらに言って、カップにミルクを加えて席に戻るとどこか優雅に口へと運ぶ。

その姿を視界の端に、手に持った飲みかけを隅に戻して背もたれに深く座ってまた空を見る。


「どうだい、そろそろ慣れてきたかな。」

一口飲んで落ち着いたのか、カップを置いて正面を向いて問いかけてくる声に視線を向けて返す。

「毎回丁寧に教えて下さっているので自分なりに覚えられてきてるとは思ってます。」

「それは重畳ちょうじょうだ。」


「ユア君は飲み込みが早いからね、教え甲斐がいがあるよ。」

いえ、と返すと「謙遜する必要はないさ」と穏やかに笑いながら話し続ける。

「そうだな、これから学校でもっと専門的な知識も蓄えていくわけだしね。このままいけば卒業後にはすぐにでも代官だって村長にだって、なれるんじゃないかな。」

「…勘弁して下さい。」

褒め殺しにどう返して良いのか分からず目をそらして降伏する。


「困らせてしまったかな。…ただ、お世辞のつもりじゃないとだけは言っておこうかな。」

そう言いきると、一呼吸置いてほんの少しだけ真面目くさったような声で続きを話す。


「実はね君さえ良ければ僕はいつか君に託せたらなんて思っているんだ、この村を。」

初めて聞いたそんな言葉に冗談だろうと思って視線を戻すと、冗談ともどちらとも取れるような変わらない穏やかな笑顔のままこちらを見ていた。

「うちは女の子が二人だからね、いつかは嫁に出さなきゃいけない。それなら出来る婿に来てもらって私の次をいでもらうのが自然かなってね。」


突然の話に考える脳もろくに働かず、答えに困窮こんきゅうする。

そんな姿にどう思ったのかは分からないが、何故か少し満足そうに話を続ける。

「…別に今すぐ考えてくれって訳じゃないんだ、いつか学校を卒業した時に進路を考える時にそういう道もあるって知っておいて欲しかったんだ。」

そこまで話し終えると乾いた口を湿らせるためにかカップを口にゆっくりと運んでいるのを見て、その間に動かない脳みそを回して失礼にならない答えを探す。


「自分は今のところは義母ははの後をいでこの村で薬師くすしになるつもりでいます。正直それ以上は今の所何も考えてはいないんですけど。ただ、どうなるにせよミコさん位魅力的なら村の男連中も放っておかないでしょうし。卒業する頃にはすでにいい人を見つけてらっしゃるでしょうからそんな話にはならないと思いますよ、そもそも。」

いつの間にか両腕肘をつき手の甲に顎をのせて口元が隠れた状態で、正面を切ってこちらを見ていた瞼が少し落ちた優しげな灰色の瞳に、正しいのかも分からない言葉をただただつづり伺いを立てるように冗談めかすように話すと変わらないそのままで話す。

「ミコの事、魅力的だとユア君は思っているんだね。」

「ああ、いや。それは。」

真面目な声を出したと思うとふふ、と笑い出し「ごめんね」と何に対してなのかに謝った。


「どうあれ、僕は。そうはならないと思うけどな。」

何か確信めいたものでもあるのか視線をそらしてどこか遠い目をすると、もう一度小さく笑うとどこかおかしな空気が流れていたものをぱっと変えて、別の話題を切り出す。



「まあそもそも、僕が無事に村長になれるかどうかも分かっていないこんな状態で話す事ではなかったかもしれないね。」

ははと口角を上げて笑い出した姿に、ようやく自分に関する話ではなくなった事に緊張を解いて楽な言葉を返す。

「事務は今トリイさんがすでに仕切ってるんですから、むしろトリイさんがこのまま村長になってもらわないと皆困っちゃいますよ。」

「はは、全員そう思ってくれていれば良いんだけどねえ。」

「違うんですか?」

気軽に聞いたそれに、意外にも肯定を返される。

「どうにも上の世代に人気がなくてね。身内を褒めるようであれだが、父が偉大すぎるのも考えものだよ。」


知らなかった。

確かに村長は全白髪の年齢の割に今でも頭の回転も早く、偉いはずなのに偉ぶりはせずあくまでも一村民といった態度を崩さずに子供にも視線を合わせて話す姿は自分の中でも人の上に立つ時の理想像として記憶はしているが。

それこそ常ににこにこと笑って柔らかな空気を作り出して誰もが話しやすい空間を作り出すことがうまく、手伝わせてもらっている限り仕事だって目立ったミスもなく何でもそつなくこなす印象の、目の前の線の細い。今ですら女性を泣かせていそうな切れ目の貴公子然とした人が成り立たないとは決して思えはしなかった。


「トリイさん以上なんてあまり考えられないですけどね。」

「そうかい?ユア君にそう言ってもらえると嬉しいね。」

ここに若い婦人でも居たらころりとやってしまいそうな無邪気な笑みをこぼす。


「まあ、今は父さんに頑張ってもらって世代交代した時に頑張るとするさ。」

やりやすいよう現村長に出来る限り長生きしてもらわないとね、

そんな冗談をつくと上に大きく腕を伸ばして、時計を見る。

「っとすまない、僕の話なんかしてても仕方ないな。」


そこから二、三言世間話をしているとそれ程大きくはない力で扉がノックされた。

部屋の主であるトリイさんがそれに返事を返すと扉が開き外から他の部屋で作業をしていた村唯一の文官であるラッカセイさんが入室の挨拶をして入ってきて、話し出す前にこちらを見た。


「ああ、今日はユア君が来てる日だったか。」

軽い挨拶を振られて答える。

「仕事の話なら席外した方が良いですか?」

「いや、そんな大した話じゃないよ。陳情ちんじょうにあった自警団の設備に関しての件ですけどいいですよね?」

途中からトリイさんに視線を移してそう問いかけると、

「問題ないよ。」ということで目の前で報告が開始される。


問題ないということだったので流れを聞いていると、どうやら自警団の設備が一部劣化したので、確認して見積もりをしてほしいという話だった。

「という訳で、今から行ってきますね。」

「…いや、ちょっと待ってくれ。」

失礼しますと、報告は終わったと立ち去ろうとしたラッカセイさんを何故かトリイさんが引き止める。


止められると思っていなかったのか意外そうな声を出して振り向く。

「あれ、何か問題でもありましたか?」

白髪とは違うダークグレーの髪を揺らして僅かに首を振りながら意外な答えを口にする。

「いや、問題はないよ。ちょうどいるしどうせなら彼に行ってもらおうと思ってね。」

「自分ですか?」

手のひらをこちらへと向けたのを見て、会話に割って入る。


「そう、行ってもらえるかい?」

「行くのは勿論良いんですが、見積もりと言われても指標も額も分からないのですが。」

「ああ」と、曖昧にうなずくと何故か立ち上がりラッカセイさんの耳にこちらには聞こえない声で小さくささやくと、「…頼むよ」と普通の声量で一言をかける。

ちらりとこちらを見てから退出するラッカセイさんに疑問符を浮かべながら、トリイさんを見ると楽しそうな表情でこちらを見ていた。


「一度行ってもらった人間に付添つきそいを頼むことにしたから、門の前で待っててもらえるかい?」

「門の前ですか?」

よく分からずに聞いた質問に肯定を返すと、壁を見て急かしてくる。

「すぐに来ると思うから今やってる作業は中断してそのままで、今から行ってくれるかい?」

「はぁ、わかりました。」

気の抜けた返事に触れることもなく説明をまくし立てる。

「向こうに行って誰か捕まえて見積もりに来たって言えば通してくれるからそこで確認して帰ってきてくれればいいから。分からないことがあったら今日はユア君のお父さんもいるだろうし聞けば教えてくれると思うよ。」


ほら立った立った、と言う声に従い。有無を言わさずに荷物を持って部屋から出されると扉を閉める直前、

「行ってらっしゃい。」

と手を振られ声をかけられたので返事を返すと、扉を閉めて玄関へと歩き出した。


§



「それでまた、村を横断する長距離歩く仕事を押し付けられたのね。」

「いや、そんな話ではなかったと思うんだけれど。」


少し速歩きに一歩前を歩く、付添いを頼まれた同い年の村長の孫でありトリイさんの長女であるミコの風に流れる黒い長髪を避けると、を合わせるように横に並びながらそう声を返す。


「違わないでしょ、こんな仕事覚えて何になるのよ。」

「それは。いつか役に立つかもしれないよ、こういう仕事をした時に。」

その返しに気に入らなそうに視線をだけ寄越よこして言葉を放る。

「なら、文官にでもなるつもりなの。」

「いや、まあ今の所はそういうつもりはないんだけれど。」

尻すぼみになる言葉に目をけわしく細めて前を向く。

「…だったら無駄じゃない。」

そう言われると弱い問いに返す言葉もなく、ただ横に並んで人の居ない晴れた日の下の道を歩く。


「お父様も何を考えてるのよ…。」

呟くように小さく吐いた言葉はよく聞こえず、吹き抜けた風にかき消えていく。



そこから少し会話もなく歩くと、気まずくなって用向きを話の種に声をかける。

「前に一度行ったことあるって聞いたけど、何をすればいいのかって聞いていいかな。」

特にこちらを見ることもなく、そのままの状態で話を返す。

「別に、壊れてるか見るだけよ。何が壊れてるかいくつ破損してるか、計上して報告するだけ。」

「そんなもんでいいんだ。」

軽い気持ちで答えを返した途端に細められて向けられた目に間違えたことだけは悟った。

「だから、誰でもいいのよこんなの。」

表情や言葉とは裏腹に思った以上に小さな声が気になって、続けて言葉をかける。


「その、ごめん。もしかして忙しいのに付き合わせちゃった?」

「そうじゃないけど…。」

よどませた途切れさせた言葉にこれ以上は聞いてほしくはないのだと言葉を止めると、一度こちらにまた視線を向けて。弾けるように声を出す。


「今。家の手伝いだってやってて、勉強だってしてるんでしょ?」

「まあ、してるけど。」

思ってもみなかった角度の質問にほうけて、ただ肯定の言葉を返す。

真剣さが足りない言葉に業を煮やしたのか進路を遮って止まると、身体ごとこちらへ向けて口を開く。

「それなのにこんな事やってていいの。目的のためなら嫌なことは嫌だっていうのも大事なんじゃないのって、そう言いたいの!」

久しくこんな距離では見なかった睫毛の長い整った焦げ茶色の瞳が真っ直ぐとこちらへと向いているのを見て、ようやく何故不機嫌そうにしているのかが分かった。


「心配してくれてるのか。」


自分でもどういう感情で話していたのか分かっていなかったのか。その言葉に冷静になったのか、どの距離で話しているのかに今更気づいたかのように恥ずかしそうに視線を泳がせると、一歩引いて振り向き更に足を早めて行ってしまった。

慌てて追いかけて見た真っ赤になった横顔に、恥をかかせてしまったと後悔する。


「ごめん、茶化すつもりじゃないんだ。」

「知らない!」

子供の頃に戻ったように感情の篭もった言葉に真剣に返す。

「ありがとう、考えてくれて。」

聞く耳を持ってくれたのか少しだけペースが落ちる。近づいた横顔に続きの言葉をかける。

「ただ、大丈夫なんだ。勉強の時間は十分に取ってもらってるから。」

「…そう。」

そのままゆっくりと足を遅め、最初よりも小さな歩幅で安定するとそっぽを向いて風景を眺めだしてしまった。遅くなった足に合わせてゆっくりと並んで歩き出す。



快晴の中。種まきを始めた畑を見ながら畦道あぜみちを通り、街路樹が等間隔で並ぶ並木道の下を二人で歩き、また無言で数分歩いていると、彼女の見ている方向に見覚えのある場所を見かけた。


「懐かしいな、ここでよく遊んだよね。」

「…そうね。」

変わらず顔を見せないままこちらを見ることもなく、けれど確かに答えを返してくれた。

その黒くなびく反射光がきらめく後ろ姿越しに、何もないただ開けているだけの広場に座り込む黒髪の女の子の横顔を幻視げんしする。


色んな所で二人が座れる位の布をいて、書き損じの裏紙の白い所全てが埋まるまで見えたもの全てをえがいた。

紅葉の流れる河原、視界いっぱいに広がる稲穂、白い息越しに見た雲の流れていく高い空、霜柱しもばしらに崩れた土に生える芽、誰にも踏まれていない転げ回った新雪、冷たい雪解け水の流水、風に舞う掴もうとも取れない散っていく桜の花弁はなびら、暖かな陽だまりで編んだ小さな花かんむり、霧雨に喜ぶ沼に浮かぶ蓮に座る蛙、強い雨に振られて倒れた倒木からこぼれる雫、強い日差しに照らされた青々とした果実、跳ねる麦わら帽子の背景に見た向日葵ひまわり畑、まだ汗がにじむ暑い中でまた色づきはじめた木々の葉を。

どこへ行くにも時間も決めずに、初めて出会ったこの場所で待ち合わせて。畳んでもはみ出る布を覗かせた鞄を肩に掛けた手に連れられて、連れ去った。


幼い頃、決まって朝から昼に変わる位に昼ごはんを包んだ巾着袋だけを持たされて一人で外へと出されて、行く宛もなく彷徨さまよった末にこの場所で出会ったのが似たように一人でつまらなそうにぽつんと座っていた彼女だった。

赤ん坊の頃からこの村にいたわけではなくきずかれていた関係性の中で少しだけ浮いていた僕と、村長の娘でその体質から一歩引かれた彼女。

空いた心を埋める様にぽつぽつと二人だけで辺りが暗くなるまで話をした。

次の日も行く宛もなくここへと辿り着くと同じ状態の彼女がいた。

あくる日もそのまた次の日も、どこへ行くわけもなくここに来ては隣りに座った。

初めは顔も合わせないで弾まなかった会話も、日が経つごとに少しずつ距離は近づいて。

いつの間にか敷かれた布の上に一緒に座って、笑顔を見ることが増えた。


広場の中だけで遊んでいた遊びも、いつかは飽きて公園から抜け出し二人で少しづつ範囲を広げて村中を見て回るのが通例になって。

いつの日からか気に入った場所を見つけては、その場で布を広げて彼女が持ってきた紙と色鉛筆で絵を描きながら会話を交わすのが日課になった。

そこからの毎日は目まぐるしくて、その手を繋いでどこまでも歩き回った。

雨の日も、強い風の日も、凍えるぐらいに寒い日も、寄り添っては触れ合う手の冷たさに笑いながら。いつの日も一緒にそばに居た。


そんな日々が日常になって何年も経って、隣に見る横顔が可愛らしいものから綺麗になっていくのを知りながら、その手を掴んで広場を抜け出した。


気持ちはそのまま、けれど大きくなるごとにやらなければいけないことが増えて会えない日が多くなった。

一日、二日。毎日合わせていた顔は見れなくなり、すれ違っていつからか会えない日の方が多くなって、ここへ来ても待ちぼうけをして空を見ていることが増えた。


いつからだろうか、待ち合わせをすることをやめたのは。

会えない日々が増えて仕方無しに、会える日を聞いて家へと迎えに行くようになった。

いつも決まった日々が崩れて、歳もあってかその内に繋いでいた手は離れて、更に会う日は少なくなって。


いつの間にか久しく、その瞳すら見ることも少なくなった。



こんなに近くに居る今ですら、その顔は見えない。

どんな表情をしているのか、何を思っているのかも言葉も交わさなければ分からない。

昔は確かに、傍にいるだけで何となく分かったのに。

いや、違うのだろうか。分かった気になっていただけだったのかもしれない。

そうでなければ今だって彼女を怒らせるようなことは無かったんだろうか。



見えない表情を、日陰から吹く冷たい風に揺れる髪を後ろから眺めていたくなくて、何でもいいから言葉をかける。

「あのさ、」

風に擦れる葉の音が聞こえる。そこに答えはないが、耳を向けて続きを待ってくれている姿に頭をひねる。

「楽しかったんだ、ここに来ていつも自分でもわからないどこかへと遊びに行くのが。」

その後の事を考えながら、何もないこの広場でただ空を見上げている時間さえも楽しかった。

どこかで何気ない事で脳裏に光景がちらつく度に、あの時の早くなる心臓の鼓動を思い出して胸を掻きむしりたくなる。

知りもしない幻痛みたいな苦しさで、息がつまるみたいに呼吸がうまくできなくなる。


「それは誰じゃなくて君と、ミコと一緒に居れるからなんだって。会う機会が減ってきて気づいたんだ。」

傍で見ていたその仕草が、言葉にもならないで耳に聞こえるその声が、今そこに無い事にたまらなく追いすがりたくなる。

みっともなく追い縋れば、振り向いてくれるだろうか。


「最近、ほとんど顔を会わす事も無くなっただろ。つながってる同じ屋根の下に居るはずなのにさ。嫌なんだ、それが。」

立ち止まった動かない小さな背中に、言葉を投げかける。


「昔みたいには、なれなくても。また遊んでくれないか。この歳で何をするんだって言われれば困るけど、二人で顔を合わせて会えればそれだけで楽しいんだ。」


「なんて、一方通行だよな。そもそも来年にはこの村を一度出るつもりなのに。けれど言わないではいられなかったんだ。」

「…今でも、大切な友達だと思っているから。」


そこまで言い切ると、彼女の止まっていた足が動き出すのを見て、話は終わりを迎えたのだと悟った。

重い足を上げて隣に並ぶ。


薄暗い並木道に出来た影を見ながら歩いていると、突然目の前に正面を向いた靴が、足が視界に入る。

ぶつからないように足を止めた、その筈だった身体はドンと胸を打つ強い衝撃を受けて小さくよろける。


気がつけば胸に寄りかかるように抱かれた、記憶よりも小さな身体にどうすることもできずに、うつむいたその頭から香る嗅いだこともない花の匂いにどぎまぎするしかなかった。


「なら、なんで」

かき消えるぐらい小さな声で呟いたその言葉に耳をそばだてて注視していると、彼女は顔を上げて呼吸すら聞こえなそうな距離で今日初めて顔を合わせた。


「騎士になってくれないの?」

震える声で、けれどしっかりと聞こえる音で。

面影はぶれて見えても、すっかりと知らない美人になった彼女の、泣き濡れたまぶたの落ちた瞳と目が合う。

ぞっとする程綺麗で、悲しい顔に適当な言葉は何も言えなくて。


見つめ合う時間は瞬きを忘れたように何分にも渡って続いて、永遠にも一瞬にも感じるその時間は彼女の僕の胸の上に置いた腕が伸びて、暖かな体温が離れていく空気の冷たさに終わったことを気付かされた。


確かに求めていたその焦げ茶色の瞳が振り向いて見えなくなって、

目的地に着くまで静かに歩いている中、もう一度声をかけることは出来なかった。


§



沈黙の中、近づいてくる自警団の田舎に在る割には立派な詰所つめしょと、柵越しに見える刃の潰した剣が叩き合う金属音を耳にしながら歩く。

何もない村外れにあるここへ歩いてくる姿に用向きがあると分かってくれたのか、訓練をしていた中でも若い一人が息を上がらせながら、頭をガードしている皮の帽子を外してこちらへと向かってくる。


「どうされましたか?」

村長の娘である事を知っているのか、主に彼女に向かって話しかけてくるのに合わせて隣で彼女が返答する。

「…設備が壊れたと聞いて見積もりに来ました。」

その言葉に何か思い出したのか、頷いて答える。

「あー、そういえばそんな話聞いてたな。」


遠くに声をかけるように団長と目の前で声を張ると、他の団員に指示をしていた見覚えのあるアインツの父親が切り上げてこちらへと歩いてきた。

「団長、設備の見積もりの件で来られたそうです。」

紹介するようにこちらへと向ける手に合わせて、僅かに首を動かして辺りを見渡して視線がぶつかるもすぐに離れてミコの方を向いて口を開く。


「お二人だけですか?」

「はい、駄目でしょうか。」

持たされていた背負い鞄から取り出した、紙の束を彼女に手渡している途中に掛けられた言葉に返すと不服さをにじませた声が返る。

「…いえ、失礼しました。」


隣で待機していた若い団員に口を隠して何か指示を出すと団員は彼女の方に一度視線を向けて、

「こちらです。」

と腕を差し出し方向を示して歩き出す。


訓練というよりは実践に近い演習のようなことをしていて怒号が飛び交う脇を通って、詰所の外廊下を歩く。

「皆さん凄く白熱されてますね。」

剣戟けんげきが近くで行われる姿に圧倒されて、空に言葉を放る。

「団長の方針でね、演習も実戦形式に近い装備、状況を想定して行われているんで、皆本番のつもりで毎回やってるんだよ。」

「余計なことは話さなくて良い。」

わざわざ上半身だけ振り返って教えてくれる若い団員に、まるで挟むように後ろへと回って着いてきていた団長がいましめる。


おっと、とどこか軽い言葉と共に前を向いて先導する彼に着いていくと完全に壊れて倒れた頑丈そうな柵の前に通される。

「ここでしょうか?」

「ええ、他にも単純に器具とか細々としたものとかもあったりするんですけど、一番大きいのはここですね。」

無言で近づいて検分を始めた彼女にならって側に立って見る。

太い柱は根元から折れており、少なくとも交換しない限り直るどうこうは不可能そうだった。

明らかな異変に、言葉少なくしていた彼女もぽつりと言葉を漏らす。

「何があったんですか、こんな。」

「それがよく分からなくて獣とかじゃないと思うんですけど、子供の悪戯いたずらにしては手が込んでるしで、調査は一応したんですが何も分からずで。」

「パイアパ!」

再度団員に叱咤する声に肝が据わっているのかどこ吹く風といった様子で肩を竦めて話を続ける。

「何にせよ、この位そこの木でも切って直せばいいんじゃないかって話も出たんですが、」

「我々のすべきことではない、中途半端な仕事になるぐらいなら村の大工に最初から頼むべきだ。」

「…と、団長のお達しがありまして。こうして陳情した次第です。」


「それで、どうですか。通りますかね予算。」

一応色んな角度から柵を眺めていた彼女に向かって団員が声をかけると、終わったのか戻ってくる。

「…完全に壊れてるので大丈夫だと思います、特に山に面した柵ですし明日にでも大工さんの側にも話は通します。」

「そりゃあよかった。」

話もまとまって、別の場所へと向かうべくまた外廊下を歩いていると、ちょうど終わったのか滴る汗を拭きながら休憩している団員たちの会話が聞こえてくる。


なんて事の無い感想戦が並ぶ中、「…なんて、騎士様みたいだったよ。」そんな他愛の無い冗談が飛んだ瞬間、


「……我々は騎士だッ!」


近くに居た自分ですらぎりぎり聞こえる声にそっと目を向けると、何かを噛み切ろうとしているぐらい強い力で歯を噛みしめて見ている姿がそこにはあった。

一瞬の内に気づかれる前に視線を戻し、前を向いた。



§


「おう、こんな所でどうしたよ。」

演習が一段落着いたのか各々の修練に変わった動きを見ていたら、重そうな皮鎧を身に着けた見知った顔が赤い髪から汗をしたたらせながら声をかけてきた。


「手伝いだよ、村長さんのところの。」

「あぁ、だから姫様と一緒に居たのか。」

隣に音を立てて座った男の納得といった表情に気づいていた事を驚く。


「見てたのか。」

「そりゃ、な。」

姫様は目立つからな、という言葉に今は返す気もせず黙り込む。

「俺だけじゃなくて若いやつらは皆姫様に良いところ見せたくて、いつもより何割か増しで怒号が飛んでたよ。」

「…なるほど。」

やけに気合が入っていると思ってはいたがそういうことだったか。


「それで、その姫様は?」

「中で事務の人と話してる。」

「ふーん。」

その言葉に何か思いついたのか立ち上がり、他の団員達のところに向かうと話しかけ刃の潰れた剣を二振り持ってくると、差し出してくる。

取らずに赤い瞳と目を合わせると早くしろとばかりにうながしてくる。

「持てよ。」

「…何でだよ。」

目の前に差し出されたままだと話し辛いので取り合えずで受けとると、ストレッチを始める。


「久しぶりにやろうぜ、腕は落ちてないだろ。」

「落ちてなかったとしても更に伸びてるアインツに適う訳無いだろ。」

ため息をつくように文句を言うと、不適に笑う。

「そんなもん当たり前だろ、年齢分お前より経験があるんだ。負けて当たり前なんだよ。」

「…高々一年と少しだろ」

二年だ、と訂正すると振り向きどんどんと遠ざかる。

ある程度の距離になるとこちらへと向き、口元に手を当て声を張り上げる。

「いいから、胸を借りたつもりで来いよ。」

挑発するかのような仕草を交えながら語るその言葉に、本当のため息を一つこぼして剣を手に立ち上がり、近くの大分歳がいったベテランの団員へ声をかけ木製の盾を借りると、体中の筋を伸ばす。


「好きなタイミングで来いよ」と、剣を向けて揚々とする姿に辟易へきえきとしながら構えると、ゆっくりと近づく。


「おいおい、切りかかってこいよ。」

「そんなタイプじゃないって知ってるだろ。」

じりじりと盾を構えながらにじり寄って、お互いの剣の範囲に入ると足を狙って剣を払う。

避けながらもそのまま勢いをつけて叩きつけてくる剣を盾で流しながら、追撃するように足をもう一度払うも避けられる。


「おい、足は何もついてねぇんだからあんまり狙うなよ!」

「こっちは何もつけてないよっ!」

話しながらも剣を叩き落そうと仕掛けてくる力の篭った一撃をそのまま剣で流すと、空いた胴体に体ごと盾を叩きつける。だがそれも分かっていたようで少し距離が離れるぐらいで大した一撃にはならない。

フェイントを入れながら次の手を仕掛けようと構える姿を眼を忙しなく動かしてどうにかとらえようと剣先を注視していると、わざと盾を狙って蹴りつけてくる。

下手に力を入れて体勢を崩されるのを嫌って数歩下がると、一瞬の意識が外れた瞬間をのがさずに思い切り振りかぶって上段切りを仕掛けてくる。

たまらずに腕を振り上げた方にほとんど転がるように盾をかかげながら体を丸めて避ける。

一矢報いようと足をかけようと伸ばすも瞬時に地面を蹴り、下がって避けられる。


「殺す気かよ!!」

「お前ならさばくって分かってるからやってんだよ!」

立ち上がるのを待ちながらにやにやと笑う姿に苛立いらだちながらズボンについた土ぼこりをはたいて落とす。


そこから何度か隙を突いては切るというより叩きつけてくる剣の一撃をどうにかさばきながら反撃を狙うも、良い当たりをする事も無く時間は流れ、気が済んだのか軽く息を切らしながら動きが止まる。


「相変わらず筋がいいな、何で辞めたんだよ。」

「…良いだろ、何でも。」

近くに来てくれていた盾を借りた方に盾を返すと、膝に手を置く。

「勿体無いな、どうせ学校行くんだってなら、お前なら騎士にだって目指せるだろうに。」

「…似たようなことを、さっき他の人にも言われたよ。」

辺りを見渡すふりをしながらもちらりと詰め所の方を確認してからそう言うと、見透かすような眼でこちらを見ていた。

「ふぅん、誰だか知らないが見る目があるな。」



借りた剣をアインツが返しながら一言二言話しているのを呼吸を整えながら見ていると、すぐにこちらへと来る。

でかい図体が隣に座り込む前に口を開く。

「もし誰かに騎士になって欲しいと言うんならどんな理由があると思う。」

「さぁな、分かるかよ。」

ほとんど考える時間も無くばっさりと切る言葉に、隣を見る。

暑そうに首元をぱたぱたと服をまくって風を送り込もうとしながら「あちぃ」とぼやく男に取り出して手に持っていた水筒を渡す。

「おっ、あんがとさん。」

口をつけずにごくごく飲んで、ほとんど空になった物を受け取って鞄に戻すと、言葉を続けた。


「まぁ、どんな事情があるかなんて当人にしかわかりゃしないけど、わざわざお前になってほしいって口に出して言ったんならそれがよっぽど大事なことなんだろうよ。」

「大事…。」

「ふん、なんか大切なこと忘れてんじゃねぇの、お前。」

「……。」

思案し始めると、不愉快そうに息を吐いて立ち上がる。

「まぁいいや。休憩時間は終わりだからそろそろ行くぞ。」

「あぁ、じゃあ。」

適当に返したのが伝わったのか頭を軽く押されて、強制的に意識を戻される。


「どっかの誰かさんについてのことかは知らないが、そもそも俺は妹の味方なんだ。

今度時間のあるときにミイに会いに来いよ、最近会えて無いってうるさいんだ。」

じゃあなモテ男、と勝手なことを言って気障ったらしい仕草をしたと思うと、腕をぷらぷら去っていく。


一瞬、終わっていないかと入ったはずの扉を見るも未だに出てくる気配はなく、前を向く。

そうすると、機をうかがっていたように、入れ替わるように声をかけられた。



「基礎訓練は怠ってないみたいだな。」


声の方を見れば、赤毛の年齢に対して締まった身体をしたよく見た顔が、身体に似合わず優しげな笑顔を浮かべながらそこにいた。

義父とうさん。」


今は忙しくは無いのか、息をついて隣に座りこむとゆっくりと話しかけてくる。

「どうした、訓練でもしにきたのか。」

「まさか、村長さんの手伝いで壊れた設備の見積もりに来ただけだよ。」

「見積もり?ああ、あの柵を見たのか。」

毎日来ているわけでもない義父とうさんでも知っていたのかと思うのと同時に、思いついていた疑問を問いかける。

「あれって何で壊れたんだと思う?」

「…熊や大型の動物の可能性は低いらしいんだがな、かといって自然に倒れたとも考えづらいらしい。なら、残るは人間だけだろう。」

「誰かがやったってこと?」

「まぁ、そうなんだが。そうなると誰がやったのかと疑わざるを得ない、それも嫌な話だな。」

重い溜息を一つ吐いた、その姿を横目に話を続ける。


「自警団としては犯人探しとかやるのかな。」

「どうだろうな、一応指南役とはなっているが私は正式にはここの所属ではないからな。一人一人の剣の振りの癖以外はそれほど詳しくは知らないんだ。」

そう言って見つめる先、型をなぞるように土煙を上げて数を数えながら振られる剣の軌跡を一緒になって、口に出さずに数を数えながら頭の中で振る。


「また、やりたくなったんじゃないか?」

そんな頭の中を知ってか知らずか問われた話にいつもと同じ答えを返す。


「いや、剣は最低限振ることさえできればそれでいいよ。」

「…そうか。」


頂点からは落ち始めた太陽の多少温度が下がった日差しを浴びながら、同時に振り続けられる剣を見ているとぽつりと義父とうさんは言った。



「ユアが、全て背負う必要は無いんだよ。」


一瞬、本当に何の話をしているのかが分からなくて隣を見ると、変わらず前を向いたまま何でもない話をするように話していた。

「…背負う?何も背負ってなんか無いよ。」

全てを見透かされているような言葉に、意地で平静を装って返す。

「まだ人生は長いんだ、剣だけじゃない好きなことを今からでも見つけてやればいい。」

「…だから何言ってるんだよ、好きなことをやらせてもらってるよ、今だって。」



「あのの病は先天性のものだ、治るようなものじゃない。」



その言葉に勢いよく立ち上がろうとして、やめる。

最初から知ってはいた、それなのに全身に力が入ってどうしようもない怒りが噴き出そうになる。

「…だから、なんだよ。」



「……母さんもあのが生まれてきてから十七年も研究してきた。都にある研究施設からも資料だって取り寄せた。」


「未だに進行を遅らせる薬すら見つかっていないんだ。いつになるかは分からない、それでもあのは決して長くは生きられない。」


一朝一夕いっちょういっせき、お前が研究をして何になる。」


「あのが生きる倍以上の時間をお前は生きることになるんだ。」


「あのの為に、お前まで人生を棒に振る必要はないんだ。」



「なんだよ、それ。」

たんたんと、表情を変えずに一点を見つめたまま話すその姿に絞り出た言葉は否定でも肯定でもなかった。

ただ、悔しかった。

自分の無力さが、みじめだった。



無言の時間が少し流れて、何か追加の言葉を語るでもなく隣で立ち上がるのを感じながらも言い返すことも出来ずにうつむいているだけだった。


肩をとんと叩いて歩き去っていく中で、

「…やる前から、諦めてたまるかよ。」

確かに聞こえていただろう筈の僕の言葉に、足音は止まることもなく遠ざかっていくのをただ聞いている事しか出来なかった。

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