003


黒革の椅子に沈み、毛布にまみれて本の山を見る、見続ける。ただ見る。

暗闇で眼を開いてから、が出てからある程度時間が経っているのを肌で感じていても毛布をどかす気にもならなくて、ただ瞼を開き続けている。

何も聞こえない。ただ毛布に香る何の匂いかもわからないけれど、悪い気はしない空気に包まれて呼吸だけを繰り返す。

刻々と時間だけが流れる中変わり行くのは光の角度だけで、脳裏に写真のように映って記憶されていくのを感じる。


無意味な時間だ、眠って休むわけでも行動するわけでもない。

頭のどこかでクリアにそんな言葉が聞こえても、それでも頭と身体のコントロールが切り離されたみたいに動き出すことはなく、時間が経つごとにそれどころか身体は椅子にうずもれていく。

本当はただ、力が抜けて頭の位置が下がっているだけだと分かっていても、安らかな中眠りに落ちていくようなそんな快感に似た感情に流され、


そのままありもしないどこかへと落ちていってしまいたい。

感傷に浸って、冷たい空気に触れることもなく溺れていきたい。

そんな中で消え去りたい。


けれど、そういうわけには行かない。

少なくとも今はまだ。

まだ、身体は動く。


足を床につけて、身体を前に倒す自重じちょうに任せて起き上がって、ずり落ちる毛布を取ることもなく立ち上がる。

暖かさに包まれていた所から抜け出して感じる肌寒さに震えながら、力を入れる気もない足を揺らして歩きだす。


§


井戸から道具で吸い出された水をたらいに溜めて顔に刷り込むように擦り付ける。

ぽたぽたと、鼻から頬から水滴が落ちていく。

それを見ていると自覚した瞬間、たらいごと持ち上げて汲んだ水を頭へとかけた。

首元の衣服まで濡れて感じる不快感が、苔に似た青臭い水の匂いが、髪にしみて直接頭皮を冷やし流れる水滴がぼやけていた頭を少しだけ覚ます。


「お目覚めですか?」

差し出されたタオルをそっと受け取り、飛ばないよう押さえつけるように髪を拭くと頭を上げて、仄かに光るその青い瞳と視線を合わせる。

「ありがとうございます、おかげで目が覚めました。」

「…目が覚めても、風邪を引いてしまいますよ。」

こちらを伺う彼女に適当な言葉をつむぐ気もせず、

「すみません、せめて今度はタオルを持った上でにしますね。」

そう言って口角を上げた今の顔は笑顔のていを成しているだろうか。


下がっていた視界に入り込むようにそっと手が差し出された。

「お預かりしてもよろしいですか。」

「ああ、すみません。」

そのまま洗濯にで持っていくのだろうと、拭いた箇所をくるんで渡したタオルはどこかへといくことはなくむしろ持ち上げられて近づいた。


「――失礼します。」

答えを待つこともなくそっと触れるように髪に布地が当てられる。

撫でるようなそんな動きに身をゆだねる。

つつむようなその温かさに心が少しだけ溶けていくのを感じた。


触れた感触が離れたことに気づき終わったのだろうと視線を上げると、揺れた瞳が僕を見ていた。

「…申し訳ありません、出過ぎた真似をしました。」

「いえ、そんなこと。」

むしろ覚めていたとばかりに思っていた脳が、一瞬で視界が拡がって色がついたようにも感じたのを把握して、本当の意味でようやく起きたのだと理解した。

そうしてくれた行動に嫌も何もない。

けれど、そんな思いは伝わらずにタオルを掴むその白魚の指に力が入るのがわかった。


「失礼します。」

会話を途切れさせ足早に去っていく、揺れた白金の髪がなびく後ろ姿にかける言葉が見つからず。ただ見送るしかなかった。


§


その部屋は一庶民としてはいるだけで居心地の悪ささえ感じる。

広すぎる床一面に張られた細かく編まれた模様が綺羅びやかな絨毯じゅうたんは歩く度に埋まる程に柔らかく、白の陶器の額縁に飾られた絵画やそこらに置かれた机や椅子、化粧箪笥けしょうだんすにソファーに天蓋付きのベッド、家具一つ一つどころか窓にかかったカーテン一枚とってみたとしてもどれほどの価値があるか検討もつかない。

豪華絢爛ごうかけんらんという言葉にふさわしい、余程の貴人でも住んでいたのだろうと推測される場所だった。

初めて城へときた時に枕が5つ置かれた巨大なベットに絵画や調度品が多数置かれた部屋を見てすごい部屋もあるものだと思っていたが、まさかそれ以上が有るとは思いもしなかった。


巨大な目に眩しいシャンデリアの下から遠ざかるように部屋の隅で、窓の先にあるバルコニー越しに湖を見る。

まだ陽が高い昼の明るい空の下にも関わらず、尚も底から青く光る水面は大きく揺れることもなく静かで。

その手前、一つの村程の敷地に詰められた家屋に施設は、相も変わらずただそこにあるだけで、ハリボテと何も変わらない。

何も。


何十年もついていた眠りから覚めて、になるはずの記憶も混濁こんだくとしてこの街に城に一人残されて。

そんなヒトに気を使わせてしまっている。

ただでさえ食事も頼っていて、他にもあずかりしらない所で迷惑は何個もかけているだろう。

何よりも僕は招かれるでもなく、土足でこの城へと入っている。

そんな存在のことをどう思っているのだろうか。

客人として扱われているのは感じる。けれど心の底では我が物顔で闊歩かっぽする姿を苦く思っているのだろうか。僕が、苦しめているのだろうか。


人形、ではあるのだろうと思う。

けれどタオル越しに触れられたその手は確かに暖かくて、撫でるようなその動作には感情があった。

魂が人には有ることを僕は見た。

人に近づけた人形になら魂は宿るのだろうか、そもそも何がどう動いているのか。


ぽつりぽつりと会話をすることは増えた。けれど、何をどう思っているのか。普段何をしているのかそれすらも知らない、聞けてすらいない。

揺れた瞳に籠もる感情は何だったのか、タオルを強く握ったあの意味は、彼女の脳裏に浮かぶ何かの記憶に起因でもしているのか。


城も魔法も彼女のことも、何もかも知ろうと出来ることはないかと自分なりに動いているつもりなのにその動きは遅々としていて、自分であるのに自分のことなのにもどかしく肌に爪を突き立ててしまいたい程に苛立いらだたしい。


自分の無力さを無知さを、呪う。

今このときも無駄な感傷に流されて、吐きそうな気持ちになりながら思考を散らせて進まずに立ち止まっていると、心のどこかで他人事みたいにわかっているはずなのに。


せめて、何もできなくても自分の足でどこかへと行ってここ以外のどこかで学ぶことができれば。

少なくとも僕は彼女を苦しめることも、悲しませることもないのに。

―――そんな顔を見なくて済むのに。

結局どこまで行っても自分本位で見えているものしか見ていないんだ。

だから、どうか僕なんかのことは意識の外へと放ってどこか適当なところにやってほしい、心を揺らさないでほしい。

ただ、くだらない男なだけなんだ。


寝不足で縮こまった脳みそにはフラッシュバックのように揺れた瞳が繰り返されていた。


§



階段を下る、下る。

音を消して歩いているつもりでも、足音が遠くに響く。


降りきった先にはいつかに見た吹き抜けで作られた薄暗い講堂があった。

複雑な模様が荘厳な柱に挟まれた、天使が象られたステンドグラスは光を降らし、椅子でできた道の中央を通る。

講堂の一番後ろの列の端、そこに彼女がいた。

うつむいて手に持った何かを見つめてじっと動かない。


気づかれることもなく無言で立ち去るつもりで静かに降りきると、突然立ち上がり歩きだした彼女と視線があった。

眼を見開いたと思ったら、手に持った青い刺繍が入ったハンカチを後ろ手にして、まぶたを少し下ろして小さくうつむいて。躊躇ちゅうちょをするように視線を少しずらしてこちらへと歩いてきた。


「……。」

近づいてきていたので何かを話し出すかとこまねいてみるも、無言でいる彼女に話しかける。


「すごいですよね、ここ。何度見ても圧巻されるっていうか立ち止まって見てしまいます。」

彼女からピントをずらして少し見上げながらそう言うが、彼女の視線は変わらない。

「メインさんはお好きなんですかここ。」

「ここを…。」

今何を話しているかワンテンポ遅れて気づいたのか、ゆっくりと振り向いて同じ景色を見る。

うわ向いたまま止まっていた時間は、ぽつりと彼女の声で動く。


「ここに来ると、思い出すんです。」

「楽しかった想い出も、幸せだった想い出も。…思い出したくないことも。」

「断片的に、ですけど感情が溢れるんです。」

「もう戻ることができない、って分かっているのに、楽しかった時間が、笑った声が耳に聞こえて離れなくて。」

「何でもなかった毎日が、嫌だったはずの事が、次々と浮かんできて全て大切なものだったみたいに、胸の奥が破裂しそうになるんです。。」

「温かった言葉が、幸せだった言葉が、一生忘れないと想った景色が目に映って、私の名前を呼んでくれたあの声が。。。」

「思い出せばすぐ近くにいて、あの時のままでずっと笑顔を、言葉を交わしているのに。。」

「手を伸ばせばそこにいるのに、いるのに。」


震えた声で息を吸い込む音が聞こえた。

「でも、どこにもいないんです、どこを見てもどこに行っても、どこにも、」


そう言い切ってほとんど倒れるように屈みこんだ後ろ姿に、小さく一歩でた足は硬直したみたいに止まって、一巡いちじゅんしてもう片方の足を前に出し駆け寄る。

正面に回り込んで屈んで見たうつむきがちな、重く瞼を開き鈍く光る青い瞳を震わせて、こぼれた涙がステンドグラスの光に照らされた、その顔が近くで僕を見た。


「悲しいんです、どうしようもないことだって分かっているのに、悲しくて。

どこもかしも、大好きだったはずの場所なのに。」

何かにすがるように震える手を伸ばして、側頭部そくとうぶに触れると力を落とすように、ずり落ちるようにゆっくりと髪を撫でる。

その青い、半分閉じた彼女の瞳には誰が映っているんだろうか。


――彼女が語る言葉を理解したいと聞いていても、僕にはそのほとんどが分からない。

ここで何が合ったのか、どんな想い出だったのか、どこまで思い出したのか、どう悲しいのか。

結局の所、同じ景色を見ていない僕に言える言葉は、かけられる言葉はまやかしぐらいのもので。


けれど、そんな事はどうでもいい。

いざ目の前にくればそんなことより、ただそんな顔をしていてほしくなくて、言葉を絞り出す。


「…僕には、貴方が感じる悲しみを本当の意味でわかることはできないと思います。」

「僕はメインさんのことを知っているとは口を裂けても言えないですから。」


「楽しかった想い出も、幸せだった想い出も。でも、確かにあったんだと思います。」

「周りの人がどう思っていたかまで言えません、けど。でも、貴方はそう思っていたのでしょう?ならそれは間違いのない本物でしょう?」


「今は、失ったばかりで悲しさが勝っているかもしれませんけど、本当に幸せだった想い出はきっと、いつの日にか。…悲しみを癒やしてくれるから。」


嘘だ。


「目が覚めたばかりは、まだ頭も心も半分眠っているものでしょう。だから、今はまだ心を揺らさないでください。」

「目を開いていて苦しいのなら目を瞑っていたって良いんですから。」

綺麗事がすらすらと口をく。


「…時間が経って、起きていてそれでもまだ悲しいと思ってしまうなら、」

誰かの代わりになどなれるわけではない、けれど。


「出来る限り、大切な人の行く先も何もかも、貴方が知りたいことがあるのなら一助になれるよう努力します。」

「今はまだ何もできないけれど、足を使っていくつも時間をかけてでもきっと、探してみせますから。」

「60年前に戻ることは出来ないかもしれないけれど、今いる僕に出来ることがあるのならいくらでもします。」

「だから、どうか。」


どうか。

泣かないでください。


その青い瞳に映る僕の顔は、綺麗に笑えているだろうか。


§


すっかり日の落ちた夜の暗い廊下を歩く。

床に映る外から窓に差し込む独りでに点いた人工灯の光を数えながら、進んでいく。


そんな僕にどこかから歌が聞こえた。

綺麗な声だ。


本当ならばすぐにでもどこかへと立ち去るべきなのだと分かっている。

けれど、その悲しげに歌う歌声に、きつけられて。

窓の外を見ながらしばらく続くその歌を聴いていた。

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