プロローグ、エピローグ。

眠い、眠たい。

もっと眠っていたい。


なにか幸せな、楽しい夢をみていた気がするから。

甘くて、舌触りの良い、軟らかななにか。


もう少しだけ、あと少しだけ。

微睡んだまま目を瞑っていたい。


けれど起きなくてはいけない。

───誰かが、傍にいる。


重いまぶたを開く。

ぼやけた白い頭のまま、思ったそのままに視線を移す。

気配を感じたそこには。くすんだ色素の薄い黒い髪、白い肌が目につく綺麗な顔。けれど何処か強張った表情の青年が、私に触れようとしている。

……?。いたずらでもしようとしているのかしら。

触れようとしたその手を、そっと掴む。

見ている青年は息をそっと呑んで、触れた腕をじっと見つめて、そして視線をゆっくりと私に移す。

強張った頬、揺れる瞳、静かな部屋に響く、押し込めたような息。

知らない人だ。

けれどここに居るのなら、お客様、いやご主人様なのだろうか?

まぁ、どちらでもいい。もてなさなければ。いけな、い。


「   。」

目覚めたばかりの白濁とした意識の中、白い脳裏には困ったような淡い笑顔が浮かんでいた。



§


カップの中の水面みなもが揺れる。

「どうぞ。」

後ろからそっと、音もなく手元に置かれたカップの中身は。仄かに甘く匂う、湯気立つ紅茶だった。

テーブルを周って正面、机上にカップを置くと薄く目を瞑って一礼し、彼女はスカートを抑えながら正面の席へと座った。


隅で、燃料もなく赤々と燃える、小さな赤煉瓦れんが暖炉だんろ

特段目に入る物がそれ位しか無い。他の部屋と比べれば、さして広くはない壁と壁との距離が安心する、窓からの光が部屋を色づかす、面長おもながな部屋。

壁際、部屋のすみには、小物が置かれた箪笥や引き出しのある机が並び。

中心には、白い花柄の細かな刺繍ししゅうの編まれたテーブルクロスが掛けられた、テーブルと八つの椅子。

そして、

「良いお紅茶を入れましたので。」

薄くにこりと笑い、正面の僕を見る青い瞳。いつかに見た軍服じみたメイド服を着た、彼女人形

乾いた喉を湿らすように小さく口をつける。


彼女が目覚めた後、

瞼を開くなりゆっくりと立ち上がり、そこからこちらに一瞥をくれるとそのまま部屋を出て。慣れたように廊下を少し歩いた先、中庭に続くのだろう、わずかに色づき始めた草木が奥に見える扉、そのそばの部屋へと入っていった。まだ、来ていない場所だった。

小さなキッチンが窓際に付いていて、調理場の壁には調理器具が掛けられて並べられた、何処か人の匂いがする部屋。

その部屋に入るなり中心のテーブルの席を進められ、言葉を交わさぬまま彼女は紅茶を作り出して、今に至る。


正面で綺麗な所作でカップを口に運ぶ彼女は、紛れもなく僕が見た人形…の筈だった。

けれど、動き、歩く。その洗練された動作は違和感なく、人間じみていて。

呼吸もなく横たわり、あの継ぎ目のない腕を見て出した筈の結論が、勘違いであったのだと。そう思ってしまいそうになる。口につけたカップを置くその動作まで、

「お味はお気に召しましたでしょうか?」

「え、あぁ。」

視線が交差する。

青い瞳。仄かに光るその造り物めいた青い瞳だけが、止まりそうな思考を色づかせる。

「…、美味しかったです。」

「それは何よりでございます。」

そう言ってまた、小さく笑った。



「あの、お聞きしたいことがいくつかあります。」

何度かまたカップに口をつける位に時間が流れても静かなままだった。

つまるところ、無断でここへと着た僕の言い分を、言い訳を。どうやら聞いてもらえるのだろう。

「教えて頂くことは、できないでしょうか?」

「私がお伝えできることなら何なりと。」



「自分はここが、この居城の主が。魔導を探求して、長い間この人里離れた地で研究をしていた、人聞きにした話では、魔女。と、呼ばれている方が住んでいた城なのだと、そう聞きました。それは、合っていますでしょうか?」

「はい。」

一拍も置かずに、表情を変えることも無く彼女は返答する。

「ご主人様が指している魔女、がどの方を指しているのか正確にはわかりかねますが、おそらくはご主人様がご想像されている方と同一の方がここを御造りになられました。」

「でしたら、お聞きしたいことがあります。」

「どうぞ、よしなに。」


「魔女は、いえ、かの方は。おおよそ七十年近い前までここにいらっしゃったと耳にしています。…ずっと、変わらぬ姿で。」

歳老いず、いつから居たのかは聞いていないが、けれど前村長。白い髭を蓄えた村長の祖父が子供の頃から、村長を受け継ぎ全盛期を少し過ぎた頃合いまで。かの魔女は変わらぬままに姿を見せていたのだという。

それなら、

の方は生きていらっしゃるのでしょうか。七十年前にここから、いや。今現在ここの主人は何処にいらっしゃるのでしょうか?」

老いぬ魔女、口伝くでんの魔女、学ぶ機会のない村人には一生を賭したとしても行うこともできない現象を、魔法を操る魔女。

かの魔女ならば世代が移り変わった今でも生きていてもおかしくはない。

なら、会うことも。


「──何処に行かれたのでしょうか。」


「…、と。」

「そうですね、どうやらこちらにはご不在の様子。」

そう言った彼女は中庭をうつす窓に視線を向けていた。それはどうやら、城の全体を見ているようだった。

「申し訳ございません、私には分かりかねます。」

「他のどなたかがお知りだったりはしないのですか?」

「どなたか。」

ちらりと窓を見続ける彼女に合わせて中庭から見た城は、眼下に見た洞窟の終わりの時と変わらず。静かで音もなく、人のいる気配は、まるでなかった。

「そう、ですか。」


この様子では生きているのかどうかも知らないのだろう。

魔女がこちらに来なくなったのではなく、ここから居なくなったのだと、噂としてはそちらの方が話されていた。

……ともすれば、居なくなるそれ以前から彼女は眠っていたんだろうか?


「すみません。宜しければいつ頃から眠っていらっしゃたのか、お聞きしてもいいですか?」

「いつ…。」

「難しいですか?」

何かを探すように青い瞳が左右に揺れる。

「いえ。そうでなくて、今が何年かを知らないので。」

「あぁ…、それなら。」

西暦はたしか。

「───年です。」

「…そうですか。でしたら、おおよそ60年程前、かと思われます。」

「眠ったときの明確な記憶はございませんが、ただ。」

その言葉に続けるように席を立ち、窓際の調理場へと歩いたと思ったら、花柄の模様が描かれた円柱の缶を手にとり、蓋を開けた。

「紅茶?」

「えぇ、そちらにれたものと同じ物です。」

缶の中から木のスプーンで一掬ひとすくいした赤黒い葉を見る。

「それが、どう関係するのでしょうか?」


「この紅茶は、私が管理していました。」

「どうやら私が眠ったあとから、そう遠くない内にこの拠点を破棄されたようで。」

裏返して手に持った缶をこちら側に見せてくれるとそこには、紙が貼ってあった。


「裏のラベルの納入日が60年前になっていました。」

「ゴフッ」


「え、っと。」

「ご安心ください、状態保全の為の器具に保管されておりました。」

そう言ってわずかにしゃがんで調理場の下にある棚を開くと中には幾何学的な模様の浮かんでいた。

それを先に言ってほしくはあった。

…。


「つまり、それ位から眠っていらして。そしてその辺りでの人はここから去った。」

「そうではないかと、思われます。」

茶葉の缶を片付けて、座りながら彼女は答える。

「その、どうしても話をさせていただきたいんです。今でも連絡を取れるような手段はございませんでしょうか?」

「力及ばず、申し訳ございません。」

「いえ、すみません。突然と来て図々しい願いだとは理解しているつもりではあるのですが、それでもどうにかお会いしたくて…。」

今、すぐ。

できるならば明日ですら、遠く遅い。


「…。私の方から一報をお伝えできる何かがないか、」

「ですが、その前に。私の方で何かお手伝いできることがもしかすれば、あるかもしれません。宜しければご用件をお聞かせいただけませんでしょうか?」

少し俯くように傾けていた顔を戻しこちらを、見る。その瞳で。

用件、それは。


「………魔法を、知りたいんです。」


「魔法、?」

「かの魔女に会って、魔法をその原理を僕に教えていただきたい。何も返すことが出来るものはないけれど、それが叶うなら僕自身何もかも差し出す覚悟ではいます。それでも、足りないのかもしれないけれど。」

こうべを垂れ、湯気の無くなった紅茶を見る。

魔法は秘匿されている訳ではない、だが、辺境の村人にとってそれを知ろうとすればすぐに知れるものではなく、街へ出たとしても、あてもない自分にとってそれを知るには少なくない金銭が必要であり、そしてまたそれを稼ぐには……。

低く見積もってその魔法という知識の端に触れるまでだけでも数ヶ月以上の時間が必要になる。

だけれどそれじゃあ、もう遅いのだ。

今でなくてはいけない、今と呼べる時間が去ったときどうなるのか。

それすらも、僕にはわからないのだから。

だから知らなければならない。知りたいのだ。


「再度言わせて頂ければ、今現在ご主人様をご希望の方とお繋ぎする手段はございません。そして、いつお帰りに…この場所に立ち寄られるのかを私は承知しておらず、お伝えすることはできません。」

「そう、なんですよね。」

何となく疲れを感じて、弱く目蓋まぶたを閉じる。

安易だった考えが、否定された気がして。



「ですが、間接的に叶えることは可能かもしれません。」

「え……?」

「どうやら、ご主人様はこの城の主に用があったわけではなく、その知識が目的。

つまり、」


その言葉に目を開き、紅茶から視線を上げて見た彼女の瞳は、扉に描かれていたものと似た、青く鈍い光を帯びていた。

「魔法の真髄を、お知りになられたいのですよね?」



§


すっかりと暗くなった廊下を、窓から途切れ途切れに見える、枝葉の隙間の暗い紫色の空を仰ぎ見ながら、前方の彼女について奥へと歩いていく。

城から渡り廊下を渡り、湖から見て反対。大樹の根本、そのそば


「ここが、多くの資料や本を収めた図書棟であり、また同時に魔導の研究に使われていた設備が多く納められた研究棟でもある区域となります。」

こちらを向いて、そう言いながら彼女が入口近くの壁に触れると、室内の箇所箇所に光が灯り、全容が見える。

本、本、溢れて積まれた本。

自分の背丈よりも大きな本棚が、人が二人並ぶ事ができる位の間隔で並び、それでも幾つかはあぶれたのか。入り口の近くの机の上に崩れそうになることが怖くなるぐらいに平積みされていて、実際にいくつかの山は崩れてしまった様に床に山を作っていた。


光を灯した彼女は、落ちた本に近寄ったかと思うと、屈んで一つ一つ手に取っては机の上の空いた場所に置き始める。

来る途中にそそいだ指先が濡れていないことを確認して、同じ様に近寄って。床に落ちて半端なページで開いた格好になっている薄い本を手に取る。

どうやら何度も見ていたらしい癖がついたページには、

よく、わからない。ただ、図形が解説されている事だけはわかる内容だった。

本を閉じ、机の上に上げることを何回か繰り返すと、机の上は山積みになっていたが、床の上にある本は無くなった。


「ご主人様、お手を煩わせてしまい申し訳ありません。」

「ああ、いえ。」

机の上を見て、落ちそうになっている本を安定した所に置くと、彼女はそう言った。

「中身を、ご覧になられましたか?」


「本を扱っている部屋は二部屋…一部屋と一棟ございます。もう一部屋はこの部屋以外の本が置かれた場所。そしてここにある本は、選び、必要とされ、自ずと厳選された本。」

「『魔法』の研究に関連する本、目的に関連する本、魔法を扱う過程で必要とした本がこの場所にはあります。」

ここに、魔女の研究の成果が、魔法の真髄が。


わたくしはメインでございます、ご主人様。どうぞお名前を私に。」

「名前は、」

僕の名前は。

「ユア、ユアと言います。メインさん。」

「そうですか、ユア様。どうぞわたくしの事はメインとお呼びください。そして、ユア様。どうか一つだけ私にお聞かせ願えませんでしょうか?」

「一つ、何でしょうか…?」


「ユア様は、魔法をお知りになる為に来られたのだと伺いました。」

「魔法をこれから学んでいかれる中で求められるものによって方向性が変わってしまいます。」

「何かを生み出したいのか、召喚したいのか、あるいは錬金術、物質の変化を行いたいのか。」

「お教えすることは出来なくとも、ユア様が望むものをこの中から探すことは出来ます。目的や結果ではなく方向性をお聞かせ願いたいのです。」

生み出す。変化。望むもの。

「ご主人様は今、どのような魔法を求めていらっしゃいますか?」

到達点ではなく、今求めていること。

未来ではなく今、知りたいもの。


「一つだけ、知りたい魔法があります。」

「お聞かせください。」


まずは一歩僕はなさなければならない。

これからの為に、これまでの為に。



僕は、ただ。

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