薬草スープをめしあがれ
ここに一冊の書物がある。判型は、A6規格。
いわゆる文庫本で、表紙に
肝心の内容だが、かつて世界を救った勇者たちの史実を新進気鋭の作家が多少の──いや、かなりの脚色を加えて執筆したものである。
一躍大ベストセラーとなったその冒険小説は、ついにシャーロット王女のもとにまで届く。
生まれつきの病弱ゆえ、世間といえば城内しか知らないうら若き姫君にとって、それはとても刺激的で、好奇心をかきたてる物語でもあった。
「ねえ、ハル! 昔の世界は、こんなにも魔物が多くて危険なところなの!?」
シャーロット王女はその本を片手に、天蓋付きベッドの上から自分より物知りな侍女に興奮気味の様子で
「うーん……昔というほど、昔ではないような……」
笑顔ではあるけれども、少々困った様子で、ハルは紅茶の準備を進めながら返答する。
「わたしがまだ姫さまくらいの歳には、王都のすぐ外でもゴブリンやスライムがうろついていたと思います」
この世界には多種多様の魔物が存在するのだが、勇者たちの活躍によって、森の奥地や洞窟など、人里離れた場所でしか今は滅多に出会うことはない。例えるならば、山で熊に遭遇するようなものであろうか。
「ふーん。ハルって、いま何歳?」
小説の続きを読みながら、シャーロット王女はとくに意味もなく訊いてみた。だが、実年齢を問われた当人はかなり気にしたようで、ティーポットを持つ手が止まり、そそがれていた紅茶が早々に
「…………姫さまの倍以上です」
人知れずティーカップに向けられたハルの穏やかな笑顔のつややかな唇からは、赤い筋がひとつだけ垂れていた。
「ふーん」
次のページをめくろうと、白い指がかろやかに動き始めたそのとき、シャーロット王女の意識が急に揺らぐ。
身体が焼けるように熱い。
胸の鼓動が、耳鳴りとともに激しく高まる。
全身の毛穴がひらいて、汗が一気に噴き出す。
いつもの発作だ。
大丈夫、大丈夫だからと、頭のなかで何度も何度も繰り返す。
何度も、何度も、大丈夫を繰り返す──。
「姫さまッ!?」
異変に気づいたハルが駆け寄るも、シャーロット王女はすでに気を失ってしまっていた。
*
「ふー、ふー。さあ、姫さま……アーン」
女神のように慈愛に満ちた笑顔のハルが、純銀製の匙に
「子供じゃないんだから、自分で食べれ……はむはむ」
「わたしたち侍女は、姫さまをお世話するために仕えているのです。遠慮なさらず、いっぱい甘えてアーンしてください」
「それはわかっているけど、薬草スープは苦いから大嫌い」
良薬は口に苦し。ハル特製の薬草スープは苦味が強いだけで旨味はまるでなく、ほんのお気持ち程度に塩気がついているだけの、紫色をした毒々しいスープであった。
においまで悪くないことがせめてもの救いだと、謎の具材を
「あ。また
いつもどおりの無愛想な表情のレベッカが、カラフルなマカロンや果物のタルトを載せた象嵌の細工が美しいティーカートを押しながら、無表情で王女の私室へやって来た。
「もう、レベッカったら。見た目は良くないかもしれないけれど、ちゃんとした薬膳料理なのよ? それに、おやつの時間にはまだ早いんじゃないかしら?」
「何事も先手必勝。ですよね、姫さま?」
シルクのベルベット生地の足置きに股を大きく広げてすわったレベッカは、木苺のタルトを頬張りつつ、シャーロット王女にウインクをしてみせた。
「ええ、もちろんですとも。ねえハル、薬草スープはもういいから、わたくしにもタルトを食べさせてちょうだ……はむはむ」
ハルは笑顔のまま、要望を告げるシャーロット王女の唇に匙を次々と入れていく。
「だーめ。お菓子は薬草スープを全部食べ終わってからでないと」
「モガモガ……はりゅのいじわりゅ……ング!」
うっすらと涙をにじませて頬を紅潮させる主人を気にすることなく、レベッカはニ個目のタルトに手を伸ばす。そこで初めて、シャーロット王女の傍らに置かれていたあの書籍に目が止まった。
「姫さまもこれ読んでるんだ。これってさー、学校で習った話とけっこう違うんですけど?」
ついでに小説も取り上げたレベッカは、タルトを口にくわえた御行儀のよくない姿のまま、パラパラとページをめくり続ける。
内容よりも挿絵を見ているようで、短いプリーツスカートを穿いた少女勇者の
「見てくださいよこれ。たしか勇者って、ムキムキの屈強な大男でしたよね?」
問題のページを両手で広げてハルに差し出したレベッカは、くわえたタルトにいっさい触れることなく器用に食べ進める。
「うーん……各地方の伝説によっては、大男だったり少年だったり……猫耳の生えた少女だったりするそうよ」
「えっ? でも勇者は、本当にいたのよね?」
薬草スープを食べ終えたシャーロット王女が、そう言いながら視線をピンク色のマカロンに向けたので、さりげなくハルはそれを摘まみ上げて「はい、姫さま」と、笑いかけながら口のなかへそっと優しくはこんだ。
美味しそうにマカロンを噛るシャーロット王女の様子に、なにか小動物に通ずる可愛らしさを感じたレベッカは、思わず
「うーん……まあ、勇者がこの世界を救ってくれた伝説って、あたしや──」
ほんの一瞬だけハルの顔を見てから、若いようで実年齢が不詳の先輩侍女に気を遣い、続けようとした言葉を変えることにする。
「あー、その……ニ十年くらい前の話だし、神話ほど古くはないんで、実在したのは間違いないと思います」
それから視線を三個目のタルトに移したレベッカは、掴もうとした右手の甲をハルにペチンと
「食べ過ぎよ、もう。めっ!」
相変わらずの優しい笑顔ではあるけれど、本当に怒っていると感じたレベッカは、タルトをあきらめてマカロンにすばやく手を伸ばし、口のなかへと放り投げた。
「あっ!」ハルが一瞬だけ真顔に変わる。
勝った。
レベッカは誇らし気に薄ら笑いを浮かべながら、甘い焼き菓子を存分に堪能する。
そんなふたりの様子を気にすることなく、シャーロット王女は若草色のマカロンを噛りながら、深くなにやらひとり考え込んでいた。
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