7 マエストロウメザワ
十五分後、中村は県立病院の救急のベットの上にいた。グッチー先生から電話が入っていて病院到着と同時に、スタンバイされていたベットに横になって、前回のように若手のスタッフが事前の検査をはじめた。
相変わらず、中村さんへの点滴は今日も難儀している。看護師さんが点滴のための肘の内側の血管を何度もさすりながら感触を頼りにポイントを探している。
「わたしへの点滴いつも大変そうで、前回も、前々回も大変でした・・もうしわけありませんね・・いててて・・」
今回は、チャレンジした看護師さんが3人で、失敗した箇所4カ所でした。これでもいつもより良いかもと思える中村さんでした。点滴が何とかおさまって、C T 撮影に移動した。
撮影終了後、画像をパープルドクターY(女医)が、また鋭い視線でじっと眺めている。パープルドクターYはこの姿が実に合っているし、中村さんはいつもながらのこのポーズのY先生が好きだ。
「中村さん、溜まってますね・・1回目終わってから、いずれもう片方も溜まる気配があったんだけどね、こんなに早く溜まるとはね・・」
この話を聞いた中村さんは
「以前の手術で、この血を抜くとクリアーになるとパープルドクターYに囁かれた、確かにクリアーになったように思う、今度も、もう片方をしたら、もっとクリアーになるんだろうか」
期待と心配が交差して、気持ちが高ぶり、神経が過敏になっていくのが分かった。
C T 後、手術室に向かう前に、頭蓋骨に穴をあける部分にマジックでマークする。まあこのあたりというところ適当に、その辺の脳外科の医者がマーキングする。中村さんは思った、(おいおい・・今日のマークした位置、このままだったら、左右対称になっていないから、どちらかというと対象にしてほしいなぁ)と誰にも届かない声を発した。
手術室に入ると、無影灯の下でマエストロ梅沢が中村さん頭を、子犬をかわいがるようにめちゃくちゃに撫でまわす。静かにユーミンの曲が流れ始めた。中村さんの緊張がほぐれ始めた。台風の目をしたような無影灯が大阪万博のマスコットのような顔をして見つめている。ユーミンの声が美しい澄んだ声に変わった頃、種々の宣言が行われた。
「中村さん、今日の手術は、助手AとBと私で行います。手術は三十分です」
目にガムテープようなカバーを貼られ、頭を動かないように押さえられ腕もマジックテープで止められた。マークしたおおよその位置に局部麻酔がうたれる。助手の声がする。
「ちょっと痛いですよ・・」
中村さんはちょっとどこでない痛みで思わず声を上げた「いででででで・・でーぉ」
「ごめんなさいね・・」謝ってもらっても痛みは減らない。麻酔の効いてないところでメスを使うとやはり痛い。がりがり・・と金属音がして強い力を感じる。
「痛いですか、この辺麻酔が効いていないかも・・」
おいおい、見習いさんしっかりしてよね・・
「頭皮って結構厚いんですね・・」
しゅっぱしゅっぱしゅっぱ・・ぎろぎろ・・ガリゾリ・・
「この通り毛も生えてるしね、意外と厚いんだよ・・」
いやな音を交えて。淡々とした調子で手術は進んでいく。
「この向きからだとこうなるから、むきをよく確かめて入れな・・」
「ほう・・慢性硬膜血腫だなこれは・・」
「なるほど・・」
中村さんは今回は意識をしっかりもって、すべてを聞き取ろうと、耳をダンボにして、気合いを入れなおした。
「ここのところは、こんな風に止めると、次にとれやすくなって、いいんだよね」
「なるほど、よく○○の手術では縦に止めますが、・・確かに、こうやるとうまくいきますよね・・マエストロ梅沢先生すごいですよね・・・・はい、中村さん、終わりましたよ」
手術室のドアが開くと、外からの光が入ってきた。
「先生、この曲は誰の趣味ですか」
「わたしですよ。・・さて、これは誰の曲でしょうか」
「ユーミンの曲ですね」
またすぐに曲が変わって、薬師丸ひろ子の透き通る歌声が聞こえてきた。廊下に出ると妻が心配そうな顔でのぞき込んできた。
それからすぐに中村さんは、七階の病室に運ばれた、ベッドに寝せられた中村さんの血腫を流すドレーンの位置が決まり、その血だまりを受け取る袋を吊す、イルリガードルスタンドがあることはあったが、その部品の一部が中村さんのベットの上に置いてある。マエストロが部品を手にしながら、ドレーンの血だまりを受け取る袋を吊す場所を、部品をあっちこちにあてがいながら検討したが、結局その部分をテープで留めて応急の手製スタンドを創って、助手達にこの高さが良いと説明していた。このマエストロの高さは、独特のものらしく一般的な高さではないことだけは確かなようだ。準備が終わると。
「中村さん・・それじゃ・・」
といってみんないなくなってしまった。中村さんは、また長い夜が始まるのか。と思いながらうつらうつらしていると、今夜の担当ですと体格の良い、短い髪の看護師さんが、左下45度からあらわれた。喉が渇いて声が出せない。彼女はしばらく、血だまりを受け取る袋が吊されているテープで留めたイルリガードルスタンドを見ていたが首をひねって、そのままにして立ち去った。
すーっと痛みとともに、頑張って起きていた疲れが出たのか、意識が遠のいて急速に睡眠に落ちた。
目が覚めた何か枕元でもぞもぞやっている。この体格のよい看護師さんは、仲間の看護師さんを連れてきて、テープで留めたイルリガードルスタンドの意味の解明に当たるとこらしい。この看護師さんは体格もよければ声もでかい、中村さんにほとんどのことが伝わる。同僚と話しているのは、このテープで留めた一風変わったイルリガードルスタンドの解明らしかった。何度か二人で話していたが埒が明きそうになかった。中村さんはおもむろに声をかけた。
「あのー参考になればですが、僕をここまで運んだとき、すでにこのスタンドの部品が外れていて、壊れた状態でした。そして、先生が頑張って直そうとしたのですが、結局直らずそのままテープで貼ることになりました。そして、大事なことがあります。この血だまりを受け取る袋の位置ですが、一般的な位置ではなくマエストロ先生風の独特の位置だそうです、引き継ぎの時に先生方と看護婦さんがすれ違いになってしまって、その辺が分からなかったかもしれません。ということです」
「ありがとうございます・・大丈夫です・・正常になっていますよ・・心配かけましたね。大丈夫です安心してください」
「あのー・・今何時ですか」
「今、一時半です」
また、傷の痛みにうつらうつらしていると、遠くから何かの響きが近づいてくる。ウーッ、ビビッ、ウーッ、アーッピコブー、アーエーン・・よく聞くと、ナースステーションの電子音に混じって誰かが声を上げている。薄暗い夜の病棟に静かに響き渡る老婆の声。徐々に近づいてくる。
「ウー・・」振り絞るような泣き声の「かえるー・・かえるよー・・、家にかえるー」と聞こえてくる。泣き声は喉で詰まるような悲しい調べを漂わせながら、一人一人が横たわるベットまで不気味に響いてくる。
どうも老婆の歩く近くに看護師さんがいるようで、優しく誘導しているようだ。この老婆の願いは、何を言おうかここの入院患者のみんなの声なんだ。彼女の声が聞こえなくなる頃さらなる静粛と闇に包まれたような気持ちになった。体がじっとりと汗ばみ、このまま何もない見たこと無い世界に踏み出すんじゃないかという恐怖に包まれていく。そして中村さんは眠りに落ちていった。
「中村さん・中村さん・・大丈夫ですか、おしっこは出ませんか?」
耳元で大柄な看護師の太い声が聞こえてきた。と言いながらもう下半身の掛け物をはだけている。中村さんは曖昧にしていると、生ビールのジョッキのように溲瓶を取り出している。 もうすでに中村さんのパンツを下げていちもつを溲瓶につっこんでスタンバイ、オッケイーである。中村さんはゆっくり放尿すると、尿は中村さんの思いとは別に結構の量が出るは出るは、そしてなかなか止まらない。ゴリラのような看護師さんの手にかかった中村さんはあえなく豆粒ほどにしぼんで見えなくなってしまった。
「結構出ましたね。なんてたって点滴の量、結構だからね・・はいご苦労さんです・・」
看護師さんは掛け物を直すと何事もなかったように行ってしまった。中村さんはなんだか分けの分からない虚しさを感じて目を閉じた。
朝方、6人部屋に移ることになった。移動するときに何度目かになる看護師さん方と会い、「また来ました、よろしくお願いします・・」とあまりよろしくない挨拶を交わした。隣のいびきのうるさいじいさまの鼻歌を聴きながらじっと動かずに時間を送った。昼頃、医師が来て、あの血腫採取の袋を持っていった。
午後にCT撮影に行って帰ってくると、窓際に若い髭を生やした顔色の悪い患者が入っていた。中村さんは三度の入院で感じていたが、比較的見晴らしのいい窓際のベッドに入る患者さんは、結構入院が長くなる患者さんが多いことを肌で感じている。
そんなこんなしていると、ひょっこりと医者が来た、CTの結果を言いに来て映像からはきれいに血腫がとれているということだった。そして退院はいつがよいかと話し出した、明日を提案されたが、中村さんが「頭に昨日穴あけたばかりで、明日の退院はあんまりだろう」と訴えると退院は明後日に変わった。
退院の日ナースステーションで、マエストロ梅沢に十分な注意喚起を受けて、中村夫妻は退院した。病院の玄関を通るとき、昨年十一月から続いた入退院は、まだ続くのだろうかという考えたくない予想をかき消しながら通り過ぎた、外は夫婦の見つめる空から真っ白な雪が美しい花びらのように舞って落ちてきた。
ザワワザワワ 見返お吉 @h-hiroaki
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