十七


 翌日には食事も普通にとれるようになって、点滴も外れ、髪とギプスのない下半身だけでもシャワーを浴びることができた。塚原さんが持ってきてくれた施設の名前が書いてあるパジャマにさっそく着替えた。

 夕方には担任が面会に来た。ぼくの体調のことを心配して、いろいろと訊ねてくる。

「大事にしなさい、きみがまた学校に来るのを待っているから」

 何気なく言われたけれど、これからもあの学校に通っていいのだろうかという疑問が興った。

 あの学校は悟さんが入れてくれた私立校だし、今後の学費はどうなるのか。施設の保護の身で私立校に通うなんて贅沢ではないのだろうか。きっとこんなことも塚原さんたちと相談しなくてはならないのだろう。

 けれど半ばぼくは、もう高校自体に行かなくてもいい気がしていた。

 どうせ死ぬつもりだったのだし、死んだ気になればどんな生活でも耐えられるのだから、そんな底辺的な人生を送ろうとしている自分が高校をだらだらと続けていてもしかたがないように思われた。

 先生から少し遅れてタカハシが来てくれた。

 今日はいかにも学校帰りらしく、サブバッグを肩に担いで、半そでシャツの胸元を大きくはだけさせた相変わらずスレた格好をしている。

 タカハシが入るとやっぱり病室が明るく、華やかになる。これはひとえにぼくの気持ちのせいだろう。

 なのに担任はタカハシをドアに認めた途端、軽蔑をあしらった顔になって彼を一瞥した。ぼくは一瞬でその冷たい視線の意味を悟った。

(知ってるんだ)

 思考が冴え冴えとしてゆく。

 当然だろう。橘先生か、警官か、塚原さんか。誰か分からないけど、もしかしたらみんなで情報を共有している可能性も高いけれど、そのうちの誰かから伝え聞いたのだ。タカハシとぼくとの関係を。

(どうなんだろうね)

 ぼくは久しぶりに皮肉に考える。

 自分んとこの生徒がホモッ気でセックスまでしちゃって、加えて病院だの警察だのの厄介になってるってのは、先生にとってはどういう心境なのだろう。

 うずうずと、先生の前でタカハシにキスしたい気分になった。どんな反応が返ってくンのかな、と。

 もちろんこれはぼくのささやかな反抗だ。先生のタカハシを見た目つきが気に食わなかっただけの。ぼくの大事なタカハシを、まるで罪人みたいに見た目つきが業腹なだけの。

 タカハシがぼくのそばに来た。

「宮代は体調も充分ではないのだから、長居するなよ、高橋」

 先生がきつく声をかける。それでまたぼくはカチンとくる。だいたい、なんでタカハシにだけきつく当たるんだ? ぼくだって、いや、ぼくの方こそが、すべての元凶なのに。

「はい」

 タカハシが力なく返事をした。

 ぼくはついと手を差し出して、タカハシのぶらんとたれさがっていた手を握った。それで先生がぎょっとする。タカハシもびっくりしたような目でぼくを見おろした。ぼくはわざと淫靡に口元を緩めた。

「会いたかった…タカハシ。来てくれてありがとう。ぼく、本当に嬉しい…」

 トロンとした上目遣いをして、めいっぱいに甘ったるい声を出してやった。先生が固まったのが伝わってくる。へん。ざまあみろだ。

「じ、…じゃあ、またな、宮代。また明日、顔を見に寄るから」

 貼りつけたような笑顔で取ってつけたような台詞を言い、そわそわと病室を出ていく。そんな先生に、もう来んな、と声をかけそうになった。うん、やっぱり我ながら何様だ。

 先生が消えると、タカハシはポーカーフェイスから困った笑顔に変える。

「しつけの悪いお姫様だな、佳樹は」

 そのしつけの悪いぼくをとことん甘やかすみたいに優しく言って、枕もとの椅子に座る。ぼくはムスっとして答えた。

「だって、すごい嫌な目でタカハシのこと見たじゃない。癪に障ったんだよ、ぼく…」

 言い終わらぬうちに、タカハシがぼくの腕を引き寄せてキスをくれる。ぼくの唇を繰り返し啄み始める。

「あ――? こうしたかったよ、ぼく…。あんたを、ずっと待ってたの…」

 幸福に酔いしれる。すぐに勃起してしまう。タカハシも勃ってくれているだろうか――――?

 手でまさぐるようにしてタカハシへと伸ばした。そこはかたく勃っていた。

「嬉しい…勃ってくれてるの、嬉しい――」

 ぼくの言葉を笑い、深いキスで被い塞ごうとする。ぼくが唇を引いたからキスが止まった。

「イかせて。口と手でいい?」

 やったことないけど。

「うまくできるかどうか、分からないけど…」

 タカハシがうろたえた表情になる。なに。初めてじゃないくせに。

「別にいい。我慢できるから」

 素っ気ない返事だった。キスはあんなに盛りあがったのに、とぼくはしょぼくれてしまう。

「そんな顔をするな」

 タカハシが苦笑する。

「襲いたくなるだろ」

 言葉尻をとって言い返した。

「じゃあ襲ってよ。ぼく、あんたをイかせたいんだよ」

「そんなことより、いまは体を治すのが先決だ」

 落ち着きはらった言いかたをする。それでぼくはもっと肩を落とした。タカハシがぼくの股間に手を伸ばしてくるから、ぎょっとして身を引いた。

「それとも、イかせて欲しいの? だったら、それこそ口でやるけど?」

 タカハシの手は難なくパジャマに滑り込んで、ぼくのペニスへと到達してしまう。

「えっ…? いや…、そんなつもりじゃ、なくて、」

 焦りつつ、その手を握って止めた。でも頭のどこかでは後学のためにまずやってもらうのが先なんじゃないか、などという不埒な考えがちらつく。

 きまり悪くパンツから彼の手を取り出して、ぼくは小さく溜め息をついた。

 枕の下に隠してあった彼のスマホを手渡す。画面がすぐにオンにならないのを見て、タカハシが怪訝そうな声をあげた。

「あれ? バッテリー、もう切れちゃった?」

「いや…。ぼくが、電源切った」

「そう。ああ。そうだ、これ、忘れないうちに」

 胸ポケットからぼくの腕時計を取り出す。

「あ…、ありがとう!」

 嬉しくて両手で受け取った。タカハシの体温で温まった時計がぼくの腕に収まる。そのぬくもりになんともいえず胸がきゅんとした。

 タカハシがスマホを枕元に置く。

「これは今夜も貸していくよ。充電器、持ってきたから。コンセント借りちまえ。ゲーム、できただろ?」

 いえ。じつはそれどころじゃなかったのです。

 そうも答えにくくて、タカハシの顔をそっと覗った。別に裏の考えなんてなさそうな、何食わぬ顔をしている。

 でもタカハシだから。

 ぼくより何枚もうわてなのだもの、この人は。

 あのメールの数々をぼくに知らせたいなにかの企みでもあったのかもしれない…などと、思考の雲行きがあやしくなる。こんなことを考えるなんて、やっぱりタカハシのことを信じきれてないんだろう、ぼくは。

「いっぱいメール届いてたよ。見てやらなくていいの? あんたを好きなヤツらからなんだろ?」

 やきもちが声にならないように気を付けた。一瞬、なんのことかとタカハシがきょとんとする。

「ああ。そうか」

 しばらくたって、間の抜けた声を出す。あれ。わざとじゃないのかな。

 タカハシって意外と天然なところがあるのかもしれない、まめなわりに。

「気にするな。みんな断る」

 屈託なく言う。その軽々とした宣言に、ぼくは再度、不信感が込みあげた。

「そんなことできる?」

「ああ」

 あまりに呆気なく断言するので、ぼくはスマホの向こうにいる子たちにまでヘンな同情をしてしまう。そのうちにぼくもこんなふうにあっけらかんと断りを入れられそうだな。なんだか怖いよ。

「ねえ、タカハシ。初めて両想いになったなんて、嘘なんだろ。こんなにモテるのにさ、ぼくとが初めてのわけ、ないじゃん?」

 重く感じられたくないから、できるだけなんでもないふうを装った。タカハシもなんでもないふうに言い返す。

「ほんとだ。嘘じゃない」

「なら、これまで好きな人はいなかったの?」

 続けた質問には、咄嗟に口ごもる。

 あ。いたんだ。

 第六感というやつで、ぼくは気付く。

「本当にあんたって、好きでもないやつらとセックスしてたんだな」

 思わず棘のある台詞が飛び出てきて、自分でドキッとした。

 タカハシも気付いたんだろう、さっとぼくを見遣る。自分の浅ましさになんともいえない恥ずかしさがこみあげて、ぼくは謝った。

「ごめん。余計なこと言って」

 せっかく来てくれて一緒にいるのに。嫌味なこと言っちゃった。

「いや…」

 タカハシの手が伸びてきて、ぼくの髪に触れた。俯いているぼくの前髪をそっとかきあげる。ほんとに、やさし…。

「もしかして、妬いてくれてる?」

 タカハシが静かに言う。ぼくは泣きそうな気持ちで頷いた。

 ほらね。タカハシのが何枚もうわてなんだよ。お見通しなの。ぼくの気持ちなんて。

「そりゃ、妬くよ。昨夜も、それで電源を切ったんだよ?」

「そうなのか」

「みんな、すごく親しそうなメールを遣してるんだもの」

 でもこれじゃ盗み見したことがバレちゃうな。

「妬くほどのことじゃ、ないんだけどな」

「でもぼくはつい最近まであんたと親しくなかったんだから。出遅れている感じがするんだ、すごく」

「それは、お互いさまだけど――――じゃ、正直に言うけどさ。佳樹」

 呼ばれたようだったから顔をあげた。

「俺はずっと中村さんが好きだったんだよ」

 …へ?

 ナカムラさん?

 ナカムラさん。ナカムラさん。どこのナカムラさんだろう。ぼくの知っている人のような口ぶりだけど…。とても大事なことを打ち明けてくれたようなのに、ぼくの理解が追いつかない。

「ホームの、さ」

 目を白黒させているぼくに、タカハシが畳みかける。

「えっ?」

 思わず飛びのいていた。中村さんってあの、女性ホルモン過多気味の?

「ええっ?」

「そんなに、驚くかな」

「そっ、そりゃ、驚くよ!」

 いきなりなにが飛びだしたのかと思ったら。まさかあのオネエっぽい人が、タカハシの好きな相手だったなんて。

 ポーカーフェイスだか飄々とした顔だか、タカハシはいつもの捉えがたい表情で淡々と続ける。

「ずっと好きだったんだよな。もう二年くらい。でさ、じつは高一の冬に、俺、告白してるんだ、あの人に」

「エエッッッ?」

 またまた勝手に声が飛び出す。もう頭はパニックだ。

 ぼくは懸命に中村さんの顔を思い出そうとした。けれど黒パンとメタルな黒Tシャツと長髪は思い出せても、肝心な顔のパーツが出てこない。ついこの間会ったばかりなのに、まるでのっぺらぼうみたいになっている。

「まあ、あんな感じの人だし。男だからって手ひどく拒絶はされないだろうと思ったんだけど、あっさりフラれたよ。あの人、もう決まった男がいて一緒に暮らしているんだってさ。あの調子で軽くあしらわれちまった。しかたないよな、六歳も年下の高校生じゃ、太刀打ちできないぜ。でも、それからもずっと諦めきれなくて。どうせかなわない恋なんだからって、自棄になっていろんなやつとセフレになって遊んでたんだけど。…まあ、こんなこと聞かされたところで佳樹にとってはそれこそ体のいい言い訳にしか聞こえないだろう。現に俺だって、セックスで気持ちよくなっていたんだしな」

 自嘲気味に言葉を切る。ぼくは唖然としてタカハシを見つめるしかなかった。でも、フラれたのはキツかったろう、すごく。

 片頬をあげてぼくを見る。

「前に俺に訊いたろ? 何人をホームに連れて行ったかってさ」

 それで思い出す。そうだ、ぼくはタカハシに訊いたんだよ、何人をおじいさんに会わせたのか…って。

「ああ、そうだったね」

「佳樹が初めてだ」

「そう…」

 意外な答えだった。いったいぼくのどこに、そんな特別を受ける理由があったのだろう。

「確かめたかったんだ。俺、しつこいくらいあの人が好きだったから。佳樹と中村さん、どっちが本当に好きなんだろう、並べてみたら分かるのかな、なんてバカなことを考えてさ。それで、やっぱり佳樹が好きなんだなってあらためて分かった。たぶん、佳樹には一目惚れに近かったんだろうけど、ただおとといまでは、どうせおまえにも決まった相手がいるんだから、どっちにしろ本気になってもしかたがないと思ってた」

 そうだ。

 確かに、タカハシはぼくに恋人がいると思い込んでいた。悟さんを、ぼくの「ステディ」だと――――。

「ぼくのこと見るたびに、恋人からファックされまくってるやつだと思った?」

 言葉の過激さにびっくりしたのか、目を瞬きながらぼくを凝視する。

「まあ、そんなとこだな」

「ぼくをファックしてたのは、実の叔父なんだよ、タカハシ」

 もしかしたらもう誰かから知らされているかと思ったけれど、初耳だったらしい。

「え…?」

 擦れた声だった。

「ぼくはね、叔父さんとセックスをしていたの。それこそ毎晩のように…」

 タカハシと恋人になるならば、これはどうしても避けては通れぬ告白だった。

「夜の十一時に彼の部屋に行って、裸になって、ベッドの上で四つ這いになって、彼とセックスしてたんだ。入れられるときに痛くないように、その前にケツの穴に油を塗ってさ。最初はそれこそ力づくだったけど、もう途中からは諦めて、ぼくから差し出してた。いつもすごく痛くて。あの人、モノも長けりゃヤる時間も長くてさ。それに手加減なしにピストンするから、本当につらかった。セックスをしながら鞭を使うんだ。でもね、途中でその鞭を手放すの。そして、ぼくの腰を掴んでピストンを速めるとね、ぼくは感じるんだ。もう、めちゃくちゃ気持ちよくて、アンアン言って、善がって、腰をうねらせてさ。勃起して、射精して。ほとんど毎晩だったよ。なんて淫乱だろうと、自分でも呆れてた。これって強姦って言えんのかよって思ってた。でも今日、福祉の人たちが来て、それでも強姦と呼んでいいんだって教えてくれて。すごく気持ちが軽くなったよ。軽くなったけど、でもぼくの過去は変わらない。あんたの前に差し出せるのは、こんなぼくなんだ、タカハシ」

 タカハシは眉根を寄せ、真剣に聞いていた。なんとなく痛々しい翳すら瞳に落としていたけれど、ぼくはかまわず続けた。

「あんたに話しておかなければならないことは、まだある。ぼくは、殺人犯の子供なんだよ。ぼくの母は父を殺しているんだ。母はむかし悟さんと付き合っていたのに、つまらないことで彼を捨てたの。そして、彼の兄であるお父さんに乗りかえたんだ。悟さんはそれを怒って、それでお母さんにそっくりなぼくを抱いていたんだと思うよ。だから今回のことは、悟さんばかりが悪いんじゃない。――ぼくはね、タカハシ。お母さんに似ているのがたまらなく嫌なんだ。ぼくとお母さんはすごくよく似ているんだよ。顔が似ている親子は性格まで似るっていうだろ? もう、そう考えるだけで死にたくなるんだ。ぼくもいつかお母さんのように殺人を犯してしまうんじゃないか、自分勝手に人を傷つけてしまうんじゃないか、なんて考えてしまって――ねえ。そんなぼくなんだ……あんたが好きって言ってくれたのは。だから、もしぼくのことが嫌になったら、かまわず言ってくれていいんだよ。ぼくは、自分自身でよく分かってる。あんたはぼくにはもったいないって。ぼくとあんたじゃ、まったく不釣合いだってことをさ」

 ぶちまけるだけ気持ちをぶちまけてしまって、言いすぎたかなと潮がひくみたいに突然、不安が押し寄せた。まったく勝手なものだ。セックスのときだってそうだった。ぼくは自分本位に自分の衝動をもてあまして、タカハシにぶつけてしまっていた。

 間違いなくぼくは彼に甘えているのだろう。優しい大人を見つけたわがままな子供みたいに。

 返事を待ったけれどタカハシは宙に視線を置いたまま黙然としている。さっそく嫌われちゃったかな。

(なにか言ってよ、タカハシ。なんでもいい。嫌いだでも、呆れたでも、なんでもいいからさ…)

 手が伸びてきて、くしゃりとぼくの前髪を握った。

「愛してるよ、佳樹。おまえの人生の背景が、どんなものであろうと」

 心臓が大きく震えた。

(――やだ。そんなこと、言ったら)

 鼻がつんとしてくる。目頭が熱くなる。

 そんなこと言われたら、どんどんタカハシにはまって、捨てられたときに生きるすべをなくしてしまう。もうタカハシなしには、いっときだって生きられなくなってしまう。

「さっそく、点滴取れたんだな」

 タカハシが話題を変える。

「うん。今朝の血液検査で、先生が大丈夫だろうって」

「夕食って何時だっけ?」

「六時だよ」

「まだ、一時間あるな」

「そうだね」

 さすがに、なんのことやらという気持ちになった。

「この時間はあんまり、回診こないだろ」

「うん、さっき検温に来たばかりだし」

 ぼくの腕を引っ張る。

「また看護婦に邪魔されたら、かなわないからさ」

 腕を引かれるままにぼくはベッドから降りた。タカハシがなにをしたいのか分からなくて、なんとなく苦笑してしまう。

「なに?」

 向かいあって腿の上にぼくを跨らせようとする。

「座っていいの?」

「うん。座って」

 彼に跨いで腰を沈めると、タカハシがぼくの体へそっと腕を回す。その柔らかな感触から、怪我のところを痛めないようにと気遣ってくれているのが分かる。

「重くない?」

「軽い。もっとメシ食え。他の病気じゃないかと心配になってくる」

 大きい腕と胸に抱かれて、親にあやされる幼子のように身を預けた。

 タカハシの広い肩に頭を凭れかけると、彼の体の熱が肌を通ってじんと伝わってくる。

 そしてタカハシの匂い。石鹸の匂いとシャンプーのメントールのまざった、南国みたいに甘美で官能的な匂い。

 …ああ、おとといのセックスのときもこんな姿勢になったんだよな。そう考えると勃ってくる。タカハシも堅くなってきていた。

「入れて欲しいな…」

 このままタカハシをめちゃめちゃに感じたい。壊れるほどにずぶずぶと咥えてしまいたい――――。

 たまらなくなって腰をこすりつけた。

「退院したらたくさんできるから、我慢しよう」

 タカハシが聡く制する。

 でもぼくはそんなに待てなかった。だんだんと気分が高まって、そのうちにもっと激しく腰を遣っていた。

 服の上から塊がこすれあう。それだけでも気持ちよかった。まったくぼくは本当に色情狂なのかもしれない…。

「あ……」

 なんだかぼくだけが一人で盛りあがっちゃっているみたいで恥ずかしい。

「そんな声だすな、我慢できなくなる」

「我慢しないで――ぶち込んじゃって…」

 繋がりたくてたまらない。彼の耳元で息を荒げた。

「バカ、やめろ」

「いいよ…パンツ脱がしちゃって。そいでもって、ぶち込んじゃって…」

 さらさらしたタカハシの髪に顔を埋める。ライオンのたてがみみたいだ。なんて気持ちいいんだろう。

「困らせるなって。いまは、体を治すのが先だろ」

 また、そんなお利口なことを。

「…繋がりたい――お願い、」

 もう限界だった。欲しくてたまらなかった。

「誰か来たら、まずい」

「さっき来たばかりだからもう来ないってば。…ね?」

 せめてと思って立ちあがり、ベッドを隠すカーテンを端まで引いた。

「お願い、タカハシ――」

 まだ躊躇しているタカハシを横目に、ベッドに上がってボトムをおろした。タカハシの視線が完全に拒否していないのを感じながら、ベッドの端で彼に尻を向けて誘う。

「ローション、持ってないから」

 タカハシがしかつめらしく告げる。

「唾でいい」

「だめだ。それじゃおまえが痛い」

「いいんだって。ぼくがそう言ってるんだよ? だから、ねえ…頂戴――」

 いつになく苦しげな声をさせて、タカハシが立ちあがった。

「色っぽくて困るんだ、佳樹は」

 そうでしょう? もっと言って。あんただからだよ。あんただから欲しいの。

 タカハシはたっぷりと唾液で濡らしてくれながら、指まで使ってそこを解してくれた。その間もぼくはその後の行為を想像して昂り、体をうねらせていた。

 タカハシがゆっくりとペニスをあてがう。

 時間が止まったように感じた。

 欲しかった。この瞬間が欲しくてならなかった。

「あ…!」

 圧し開かれる孔。異物に侵され、驚く内壁。どんなに欲しくても、この苦しみなくしてそれはやってこない。

「んぁあ!」

 内側が裂けそうだ。なんてタカハシは大きいんだろう…。痛みに体が汗ばんだ。

「大丈夫か? つらいか?」

 焦る声に、ぼくは夢中で首を振って否んだ。

(――大丈夫か?)

 脳裏に甦る声。あの時と同じ。優しくて、深い――。

 嬉しい。ぼくは、あんたのこの声に捕らえられ、惹かれ、慰められたんだよ…。

「大丈夫か? 佳樹?」

「うん。大丈夫だよ。もっと、入れて」

「つらかったらすぐに言え」

「うん」

 さらに圧し込まれ、ぼくは唇を噛んだ。ゆっくりと味わうようなピストンが始まる。…苦しい――…あ――…熱い。

「あ。…あ。…あ。…あ。」

 一定の時間を刻むように、ぼくの口から獣のような呻き声が突いて出る。

 れる痛みと摩擦による熱に苛まれながら、ぼくは待った。

 やがてぼくの腸壁から彼のペニスのために体液が分泌され、その潤滑によってぼくと彼との摩擦がなくなり、この痛みが消えるときを。

 皮膚と皮膚のこすれ合う熱が、甘くとろける蠢きへと変わり、めくるめく快楽の波が次々と押し寄せる、あの瞬間を…。

 ――――ああ。

 来た。

 快感の波に呑み込まれ、ぼくが狂い始めるときが。

 ぎゅっとアヌスが締まった。もういっぱいなはずなのに、もっと感じさせて、もっと咥えさせてとすがりつくみたいに。

 頭の後ろっかわがじんと痺れて。

 自分がただの感覚器官になって。

 ただ、タカハシを体中にひたすら感じて。

(こんななんだ。好きな人と愛し合うセックスは)

 メチャメチャになるくらいに味わいたいと欲して、さらに強く求めて。

 自分が彼に支配される喜びに打ち震えるだけの存在になり、まるでぼくの内壁を充たすタカハシのペニスがなくてはならないような、いままでもずっとそこにあって、永遠にそこにあるような。

 もう終わることなく、いつまでも繋がってしまうみたいに、それほどに激しく、一体となって。

 タカハシがピストンを速め、ぼくのペニスを巧みに扱く。

「きもち、いい…、きもち、いい…、もっと、掻きまわして…、そう…いい…!」

 痙攣が起きたようにかぶりを振った。

 自らも腰を遣ってタカハシを貪った。炙られた快感がうねりとなって全身を駆け巡る。灼け付く。ああ、燃えてしまう。

「あああ…!」

 絶頂に達し、欲望が迸った。

 ぼくの後で、タカハシも追いかけるようにして。

「タカハシ――――!」

 ぼくは振り向き、夢中で彼の首にすがった。そんなぼくをしっかりとかかえてくれる。彼の存在が、ぼくのすべてだった。

(もうなにもいらない――――!)

 タカハシさえいればなにも。

 柔らかなキスが唇を覆った。

 眩暈のするような甘いキスだった。

「好き…」

「俺もだ。どんどん好きになる…!」

 タカハシがいなくては自分の人生など無意味に思えた。

 背後からそっといだかれた。タカハシの体はいつも熱い。その熱に陶酔するように目を閉じた。

 




 翌日に工藤が面会に訪れたのには驚いた。

「工藤?」

 それにはすでに来てくれていたタカハシも心底びっくりしたようで、滅多にない声をあげる。

 いったい、なぜ工藤にここが分かったのか、ぼくの頭は不審と不安でいっぱいになった。

「すみません、高橋先輩。宮代と二人で話したいのですが」

 病室に入るなり、固い表情で伝える。ぼくは、椅子から立ちあがって部屋を出ようとするタカハシの腕をとった。

「いいよ、タカハシ。ぼく、少し歩きたいから工藤と下のロビーに行く」

「疲れないか」

「うん。ずっとベッドにいちゃ、足の筋肉が落ちちまうもの」

 それでもベッドから降りるぼくの手を王子様のようにとってくれる。工藤の前だというのに、そんな仕草一つにもぼくはのぼせそうになった。

 外来もすっかり終わった一階のロビーは薄暗くて閑散としていた。待ち合い用に並んだ長椅子の一番奥に工藤と並んで腰掛けた。

 ここへ来る間も、なぜ工藤にぼくの入院が知れたのか、なぜこの病院だと分かったのか、ぼくはあれこれ疑念がわいてきて落ち着かなかった。

「今日は先生、来れないんだって。急に会議が入ってね」

 工藤の言葉でぼくはハハーンと合点した。

「なるほど。じゃ代理できたってわけね、あんた。生徒会長も、いろいろご苦労なこったね」

「違うよ。きみのところに面会に行っていいかって訊きに行ったら、そう伝えてくれと頼まれたんだよ」

 だったらずっと来んでいいですから。と、相変わらずの何様な態度で先生に伝えてもらおうと思った。

 だけれど、そこでぼくの疑念はまったく払拭されていないことに気付く。

「なんで知ったのさ? ぼくがここに入院していること」

 さっそく核心を突いた。あまり長時間をここで費やしたくなかった。もちろん、病室でタカハシがぼくを待ってくれているからだ。工藤を嫌いになったわけじゃないけれど、彼のために余分な時間を割けるほどの心の余裕は、いまのぼくにない。

 工藤には珍しく煮え切らない様子で口ごもる。

「迷惑だった?」

 だからそんなこと誰も訊いちゃいねーんだよ、と言いそうになる。さすがに偉そうにもほどがあるな、うん。

「別に。でも、あんまり知られたくないんだよね、他人には」

 素っ気無く返事すると、工藤の頬にさっと赤みがさす。

「でも、高橋先輩はいたよね、きみと一緒に」

 低く呟く。ものすごく引っかかる言いかただった。それが癪に障ったぼくは、むきになって反応した。

「それはどういう意味? なにが言いたいんだよ、あんた?」

 ぼくの鋭い詰問に、逆に迷いが吹っ切れたみたいに工藤が口を開く。

「昨夜、きみのことで佐藤先生がうちにいらしたんだよ」

 佐藤はぼくたちの担任だ。

 ぼくはきょとんとした。クラスメートだからって、なんでぼくのことで佐藤が工藤の家に行かなくちゃならないのだ。いくら工藤が生徒会会長だとしても、わざわざ教師が家を訪問するまでの案件ではないだろうに。

「ぼくとあんたとどう関係があって、佐藤はあんたんちに行ったのよ」

「そうか。知らないんだね。うちの父はね、PTA会長なんだよ。それで、先生が父にきみの現状を報告しに来たんだ。これまでのこと——あの…、ちょっと言いにくいことだけど、きみが叔父さんからされたこととか、そのための骨折で入院中だとか…ね。それに、きみと高橋先輩とのことも——そして、きみの両親のことも。先生が玄関先で父に話しているのに気付いて、話題がきみのことだと分かったらもう、どうしても我慢できなくて。…ちょうどすごく心配していたときだったから、つい、盗み聞きしてしまったんだ。もちろん自分の心に納めるつもりでだよ。だって結局、合唱コンにも来なかったしさ。春香と心配していたんだ。どうしたんだろうって」

 ぼくは聞くうちに青褪めてしまった。

 油断していた。まさかそんなルートで工藤にすべてを知られてしまうなんて、想像もしていなかった。

 どうもこうもない。ぼくは合唱コンどころじゃなかったのだから。

「そう…」

 血の気が引く思いだった。いったいぼくの情報ってのはどこまで共有されてしまうんだろう?

 両親の殺人事件だけでなく、ぼくが叔父から強姦されまくっていたことも、すっかり工藤に知られてしまったなんて。

「驚愕だったろ? ぼくが殺人犯の子供ってだけじゃなくて、実の叔父から毎日ファックされまくってたオカマだって分かってさ。キワメツケって感じだったろ?」

 自棄になって自嘲しながら毒づいた。それで工藤がお白州の金さんみたいな顔になる。

「そんなことを言うな、宮代。なにひとつ、きみのせいじゃないじゃないか」

 真面目な顔つきのまま続ける。

「宮代…、ぼくが今日ここに来たのにはきちんとした理由があるよ、もちろん。それは、きみに大事なことを伝えるためなんだ。昨日、佐藤先生が帰ったあとで、きみは本当に気の毒だなって家族で話し合ってね。あ、誤解のないように言うけど、僕の方から父に話しかけたんだよ。父はけじめのある人だから、けしてそういうことを自分からは言い出さないんだ。僕は一人っ子でね、だから父と母と三人で長いこと話し合って。本当に、なんて可哀想な境遇の子だろうって、心を痛めたんだよ。それで、ある結論に達したんだ。なあ、宮代。よく聞いてくれ」

 まるで悪人退治のときみたいなキリリとしたまなざしでぼくを見つめる。

「僕の家族は決めたんだ。きみの里親申請をしようって。きみさえよければ、ぜひうちで引き取ろう、って。宮代、ここを退院したら、施設なんかに行かないで里子として僕の家に来ないか? 僕の両親は真面目で優しい人たちだよ。父は、わりと大きな予備校を個人経営していてね、自身も物理を教えているんだ。きっと理数系のきみと気が合うよ。それに、僕はきみと一緒に勉強ができるし、きみだってそうなればもう不良みたいに過ごさなくていいんだ。これはお互いにとってすごくプラスになると思わないか? 母はいつも家の中をきちんとさせているし、料理も巧い。家も数年前に建てたばかりで、きみの個室もちゃんと用意できる。僕の家族は、きっときみを幸せにできると思う。だから、なあ、宮代。ぜひ真剣に考えてみてくれないか? 僕の家の里子になることを、さ」

 そしてここで一旦、工藤が言いにくそうな感じで口を噤んだ。ぼくはさっきから、もうこれ以上開くことができないだろうなと思うくらいに、目をまん丸にして彼を見つめていた。

「…それから、差し出がましいようだけど、一つだけきみに忠告しておきたいことがある。気分を害したら、本当にごめんよ。あの…、あのさ。高橋先輩とは、もうこれ以上付き合わない方がいい。これはきみのために言っているんだ。きみは転校してきたばかりだから知らないのもしかたないけれど、彼には良くない噂がある。確かに、穏やかな人だし、会長になっていたときも人をまとめるのがうまくて、仕事もできたから、人気があったけれどね。でもそういう付き合いに関しては、本当に悪い評判ばかりなんだ。それこそ、そういう相手をとっかえひっかえしているって……去年は、それで自殺騒動まで起きたくらいなんだよ。彼に弄ばれた同級生がね、思い余って屋上から飛び降りようとして――やっぱり同性同士で。僕は、父づての会話で知ったんだけど。もちろん、こんなことはきみ以外に他言していない。でも僕はもう、きみがこれ以上余計なことで傷つくのを見たくないんだ。まして高橋先輩になにかをされたとかで…。佐藤先生も心配していたよ、きみと高橋先輩の仲…。ぼくも、じつを言えば心配だったんだ、きみと先輩を二人きりで残したときがあったろう? あのとき、きみが先輩によからぬことをされはしないかと思って心配していたんだ。そうしたら、案の定…」

 工藤が、お悔やみ申しあげる、みたいな表情で悲愴な顔をする。

 ――よからぬこと、か。

 ふと爆笑したい気分になった。そういうぼくが自分からケツを差し出してタカハシを誘ったことを知ったら、この顔はいったいどう変わるだろう。

「ね。だからさ。まあ、そんなことも、きみの生活が安定したら心配はなくなると思うんだ。きみが普通の生活に戻れさえすれば、きっと彼からも離れられると思うよ。とにかく、僕の両親も言っているんだ、部屋も一つ用意して大事に育てるから、是非、うちにおいでって。高校も今の学校が行きにくいのだったら新しいところを探すし、大学もきちんと行かせるつもりだ、そのためのお金の心配はまったく必要ないから、って……」

 途中から強い口調になっていた。そしてその熱いまなざしは、正しいことをしているという信念に裏打ちされた自信に満ちている。

 ぼくは、まんじりと聞いていた。突然のプロポーズを受けている気分だった。これじゃ驚きすぎて石になっちまう。メデューサでもここまで硬くはできないだろうと思うくらいに固まっていた。

 一種の感動を覚えていた。

 ああ、こういう人間もいるんだと。

 まったくここまで頓珍漢なことを、こうも自信を持って語れる人間がいるんだなと。

 いったいこういうやつは自分の言葉の一パーセントだって疑ってかかったりしないのだろうか? それがとんでもなく大きなお世話で、言われた方を深く傷つけるほど的外れなんだってことを…。

 工藤の言葉をどこからどう攻めればよいのか分からず、いや攻めどころが満載過ぎて途方にくれて、ぼくは黙って俯いた。でも本当は叫びたかった。「そんなものぜんぶニセモノだ! そんなものいらねえんだよ!」と、わあわあ喚きちらしたかった。

「ぼくには、あんたの言っていることはぜんぶ、偽善にしか聞こえないよ、工藤」

 ようやく出てきたぼくの返答に、驚いた声をあげる。

「偽善? なぜ? 僕は、偽善を行っているつもりなんてないよ。きみを助けようとする一心なんだ」

 真剣に反論する。

 そりゃそうだろう。偽善なんてもの自覚がないからそう呼ぶのだから。自覚があれば恥ずかしいったらありゃしないじゃないの。

「ぼくはいらねーよ? 里親なんか」

「また、そんなつんけんした言い方をして」

 工藤がかしこまって答える。

「そんなにつっぱるな。人の善意は素直に受けるべきだよ」

 それでまたぼくはひっくり返りそうになる。きっとこいつとは永遠に意見も感覚も噛み合わないだろうな、と。

 ――――善意、か。

 なんて無邪気な響きだろう。でもそれこそ単純な発想から出てくる偽善ではないのか。

 ぼくは顔をあげてまっすぐに彼を見た。工藤はといえば何事かといぶかしげな目で見つめ返す。

 工藤は相変わらずだ。

 端正な顔、清潔感溢れる髪形と身なり。このくそ暑い日に学ランのボタンを上まできちっと閉める優等生。

 育ちのよさそうな表情に、正義感の滲み出る瞳。これらはきっと、正しい生き方と幸福な家庭環境に育っていることと、それを自負している自信から自然発生しているものに違いない。

 いっときは彼に夢中になったぼくがいた。工藤を好きでいることが生きる支えだった。

 あのころのぼくならば、この里親の申し出を両手をあげて喜んだろうか。またとないチャンスだと申請をお願いしただろうか?

 ああ。だとしたら悲劇だった。

 だって、彼が求めているのはぼくではないぼくなのだから。彼の中の理想のぼく、彼の中で曲解されてしまったぼく。恐ろしいことにその認識はいまも変わっていない。もし彼にひきとられれば、ぼくは自分ではない自分を期待され、課せられた役を演じることに疲れきってしまうだろう。

 病室に戻るために立ちあがった。焦ったように工藤が目で追う。

「ぼくは施設に行くつもりでいるからいいよ、工藤。里親申請なんかしなくていい。でも、ありがとう。ぼくのことを家族でそんなに真剣に考えてくれてさ。感謝なことだよ。ご両親にもありがとうって伝えておいて。でも、ぼくは、あんたにも、あんたの家族にも似合わないもの。だから、やめとくよ」

「しかし、そんな――――!」

 まだ引き留めるつもりなのか、工藤が慌てたように立ちあがる。ぼくは手のひらを見せてそれを制した。

「ありがとう、ほんとに。あんたにはこれまでいろいろと世話になったよな。迷惑かけて悪かったと思ってる、本当に」

 今後学校に行くことがなければ、もう会うこともない。

「さようなら、工藤」

 工藤が口を開く。またなにか声をかけられちゃかなわないと思って急いで踵を返した。

 病室に戻りながら、これでよかったのだと思い返す。

 工藤の家に行く。そうなったらぼくは彼の言う通り、きっと普通の家庭の子供として普通の生活を送ることになるだろう。かつて父と母と暮らしていたときのように平凡な、いや、たぶんそれ以上に恵まれた家庭生活をいただくことだろう。もちろん預かりっ子の間借りする身なのだから、そっくりそのままとはいかないまでも。

 真面目に高校に通い、工藤と一緒に勉強して大学に進学して、塾を経営する真面目なお父さんと優しいお母さんに守られ、自分の部屋をあてがわれて…。

 けれどいまのぼくには、そのどれひとつとってもわずかな魅力さえ感じなかった。どころか、厭わしくしか感じられなかった。

 なぜならそんなことを甘んじて受ければ、ぼくのこれまでの痛み、死ぬほどの苦悩を捨て去ることになるのだから。あの苦しみを――――母に父を奪われ、罪に母を奪われ、叔父からの強姦、鞭打たれた痛み、大事にしていたすべてをなくしたこの数ヶ月の苦しみを、そんな他人の好意によってあてがわれた「普通の生活」によって自ら相殺してしまうことなのだから。

 それはぼくの中の小さなぼくを裏切ることだった。そんな生活は真にぼくの人生ではない、人からどう見られようとどう思われようとも、ぼくはぼくの身に合った人生を選ばなくては、これまでの苦しみが水泡に帰してしまう。背負わされたものを背負いつつ、自分で自分を無視することになる。

 そしてぼくはどんなタカハシでも愛していた。

 もちろん工藤からああ言われたくらいでタカハシと別れる気なんてさらさらない。彼から別れをきりだされでもしない限りは。

 タカハシがどんな人であろうと、どんな人だったのであろうと、もう彼はぼくのすべてなのだから。

 病室に戻ると、タカハシは単語帳を開いて勉強していた。

「工藤は?」

「帰ったよ」

「そうか。早いな」

 近くに寄ってベッドの端に腰掛けた。どちらともなく手を取り、指と指を絡ませ合う。

 こうやってタカハシをそばに感じてその存在のすべてを味わっていると、タカハシを思って自殺しようとまで思いつめてしまったやつの気持ちが分からなくもない。この人を失ったらぼくだって生きていけない。

「ねえ…タカハシ。もし施設に入っても、あんたの家に遊びに行っていい? そうしたら、毎回、昨日みたいに抱いてくれる?」

 ぼくは抜け出してだってこの人に会いに行くだろう。もう来るなと言われるまで、毎日でも、しつこいくらいに行くだろう。

 思いがけない言葉だったのか、タカハシがぼくを見つめながら押し黙る。しばらくして、

「いつだって、どうなったって、おまえを抱くよ、佳樹」

 静かで優しい声だった。

「幸せにしたいんだ」

 急にそんなことを真顔で言い出すから、幸せ半分、困惑してしまった。

 それはあまりにもまばゆい宝石のようで、ぼくはかえって臆病になってしまう。欲しいのに、手にするのをためらう。

 だって、もしその宝石が手品みたいにぽんと煙になって消えてしまったら?

 さっきまであると信じきっていたものが、次の瞬間なくなってしまったら?

 そのときこそぼくは、なんの甲斐もなく生きていけなくなるだろう。もぬけの殻になって、すべての感覚を失って。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る