その夜、悟さんは鞭を変えた。

「ッ、ヒャアッ?!」

 奇声がぼくの喉を裂く。

 最初、振りおろされたのが鞭だと分からなかった。

 天井のコンクリが落ちてきたか、ブロック塀の破片でもどこからか飛んできたのか、それともあまりに毎日背中を打たれているから、神経の伝達異常で錯覚でも起きてしまったのではないかと、頭が混乱した。

 ズキンズキンと尋常じゃない痛みが背中に残る中で二発目が振りおろされたとき、これはとんでもないものを使われているのだと気付いた。

 ガツンと熾烈な衝撃が走る。

「ヒィッ?」

 今までにないものすごい痛みに、目玉が飛び出しそうになる。本能的な危険を察して、四つ這いの姿勢のまま、ぼくは夢中で前に這いずった。入っていたペニスがずるりと抜ける。

 ぼくは普段、一度入れられたペニスを自分から抜くような真似は絶対にしない。なぜならそんなことをしたところでセックスが終わるわけはなく、どうせまたとっ捕まってブチ込まれるのだし、ブチ込まれるときの衝撃を再度味わうことなどしたくないからだ。

 でもいまは、それどころじゃなかった。

 これまでの革のベルトによる痛みは、それでもまだ皮膚や肉だけのものだった。なのにいまは、骨の内側まで強く打ちすえられるような、なんというか、打たれるたびにその部分の骨が砕けて破壊されるような強烈な激痛が襲うのだ。

 枕元の端で振り返り、体を小さくして悟さんを見た。そうする間も背中は火傷したみたいにじんじんと熱く痛んだ。

 悟さんは長いペニスをそそり勃てながら、長い魔法の杖みたいのを手にしていた。ぼくは目を丸くしてそれを見た。競馬のジョッキーが持つんじゃないかと思えるような、本物の鞭だった。幅が広くてしなやかに黒光りするそれは、艶のあるカーボンファイバーに似たしたたかさで凛と天を向いている。

 がちがちと歯が鳴った。

「さ、悟さん、それ、痛いよ? すごく、痛い」

 悟さんはすでに自分のペニスが抜けたことだけでも激怒していて、さらにぼくが口答えなどするものだから、とにかくものすごい形相でぼくを睨んでいた。なに逃げていやがるんだ、とでも言いたげに睨みつけていた。

「なにを言ってるんだ、お前は」

 本当にぼくがなにを言っているのかまったく理解できない様子で、ぼそりと呟く。

 ぼくの体の震えは、見た目にもしっかり分かるくらいになっていた。今夜のセックスはタカハシのことでも思い浮かべながら耐えよう、なんて甘い考えもぶっ飛んだ。ひたすら恐怖にわななき、全身が総毛立った。

「…それ、すごく痛いよ? 骨にまで、当たる。そんなの使われたら、ぼく、死んじゃうよ――」

 悟さんが手に持った鞭を一瞥し、それからまたぼくに視線を戻す。

「痛くて当たり前だ。お前を傷めつけるために手に入れたんだからな。でも死んだりはしねえ。早くこっちに戻れ。入れたばかりだろう」

 ぼくは必死に首を横に振った。とんでもない。こんなの、冗談じゃない。

「い、――い、…嫌だ――! 前のに、して。前の、ベルトのがいい――!」

 あれの方がよっぽどマシだ。こんな鞭を使われたら背骨の神経までいかれてしまう。

「おい。ふざけるな」

 怒りがさっと沸点まで達した声で悟さんが唸る。腹の底から湧きあがるどす黒いマグマみたいだった。

「さっさと来ねえと、もっと痛めつけるぞ」

 そして鞭を振りおろす。ぼくの脹脛ふくらはぎが裂けたような音を立てた。

「ぅ、ワアァッ!」

 骨に激痛が走る。ひびが入ったとしか思えない。激しい心拍にあわせて熱く痛む足を見ると、皮膚が真っ赤に腫れあがり、一筋を描くように血が浮き始めていた。恐ろしさで呼吸がうまくできなくなる。

「あ…嫌――やめて…お願い…」

 ガッと腕を掴まれる。引き戻そうとする暴力に、ぼくは夢中で抗った。

 すると何度も平手で頬を張られる。腰を掴まれる。ああ。この地獄から、どうやったら抜け出せるのだろう――――!

「イヤ…イヤぁ…」

 助けて。

 誰か、助けて――。

 ペニスが挿入され、ピストンが始まる。

「…あ。…あ。…あ。」

 腹部から押し出される吐息で喉が鳴る。さらに容赦なく鞭が振りおろされる。

「ヒイィッ!」

 びりびりと背骨が軋んだ。

「うるせぇ! ちっとは黙ってろ!」

 悟さんがぼくの中から引き抜かれた。そのまま荒い足音で部屋を出ていく。

 ぼくは四つ這いの腕で体を支えきれず、震える上体をおろして顔を布団に埋めた。

 心臓が背中に来たみたいに、打ちすえられた傷のところで強く鼓動する。めちゃめちゃに、痛い。こんなの冗談じゃない。やめてほしい。本当に、勘弁してほしい――――。

 部屋に戻ってきた悟さんが、髪を掴んでぼくの上体を起こす。

「う?」

 それはタオルだった。口にタオルを咬まされたのだ。でももう心身ともに抵抗する力などぼくにはなくて、むしろこの方がうるさいと怒鳴られないですむと諦めながら、なされるままにした。

 …逃れられない。

 この責め苦から逃れられないのだ。苦しみだけが、ぼくのすべてになる。

 尻を抱えられ、再びペニスが挿入される。腸壁を深々とえぐるピストンが始まる。

「ウ、ウ、ウ、」

 そして高いところから再度おろされる、黒い凶器。骨の砕ける衝撃。

「ウウウウッッ!」

 涙が盛り上がり、顔を濡らす。

 ぺニスは絶え間なく出し入れを繰り返していた。

 洟水で息が苦しい。

 心臓はこの場から逃げたいと悲鳴をあげて大きく乱打している。

 意識できるのはただひとつ、次にいつあの恐ろしい一撃が自分を襲うのか、それへの恐怖だけだった。

 それは一秒後か。十秒後なのか。一分後なのか。

 ヒュンっと空気が切り裂かれる音の、その一瞬への恐怖にひたすらぼくは怯えた。

(早く気を失いたい)

(なにも感じたくない)

 望むことは、唯一、それだけ。この世の味わうべき感覚から、己が絶命すること。ただ、それだけだった。



 ぼくは失神しなかった。

 それでも新しい鞭による昂奮が悟さんを刺激したのか、一時間ばかりでぼくは解放された。だからといって、それがなんだというのだろう。

 深々とアヌスを抉られながら殺人的な鞭をふるわれて、ぼくは肉体はもちろん、精神的にも深いダメージを受けなくてはならなかった。ぼくの魂はあてなく浮遊し、この世からの解脱を切実に願った。自分というこの詮ない不運な存在の、そのあらゆる限界を思い知らされて、もう魂もろともすっかり無に帰してかまわない、そう思われてしかたなかった。

 すべてが終わったあと、ぼくはなだれを打つようにソファに横になって丸まった。ほとんど働かない頭で、ただ不安だけが膨らんでいって、胸に重く圧しかかった。

 これから悟さんは毎日あの鞭を使うのだろうか。そうなれば近いうちにぼくは脊椎神経をやられて半身不随になるか、最悪、骨折した肋骨が肺に刺さって死ぬかもしれない――ふと思う……でも、そのほうが呆気なくていいかもしれない、なんて。いっそぼくの死にふさわしいかもしれない、などと。

 絶望のあまり、ぼくは悲しみの涙も流さずに寝た。絶望を「死に至る病」と名付けたのはキルケゴールだったかしら。ならばぼくはそれに罹ったようなものだ。ただ、背中の痛みが酷くて痛み止めの飲み薬を探したんだけどどうしても見当たらず、結局それだけはぼくを一晩中悩ませた。

「起きろ」

 翌日は日曜だったので、昼過ぎまでうとうとと眠っていた。

 それでも悟さんの声にようやくの思いで目を開けると、足の裏でぼくをゆっさゆっさと揺すっている。ゆっくりと意識が戻った途端に、背中の激痛に再び見舞われた。

 なんか寝た気がしない。きっと一晩中体が痛みを感じ続けていたせいだろう。確かに途切れ途切れに眠りが妨げられていたのを思い出す。

 時計を見ると、もうすぐ午後の二時だ。

「出かけるぞ。シャワー浴びて、着替えて来い」

 悟さんが頭上から命じた。

 正直、エ~~?という気分になった。

 だって疲労困憊だ。だるっこくて、体ももう自分のものとは思いたくないくらいに激痛がするのに、いったいどこに連れて行かれるというのだろう。

「早くしろ!」

 強まった語気に慌てて飛び起きた。ほっといたらそのうち平手が飛んでくるのは分かっている。たとえぼくが背中の痛みやセックスの跡の痛みでどんなにもがき苦しんでいようとも、そんなのは悟さんにとっては蟻の苦しみと同程度かそれ以下なのだから。

 シャワーを浴びにバスルームに入って痩せた背中を鏡に写してみると、それはそれは目を背けたくなるほど無残な代物だった。こんなの人間の背中じゃないな。醜くて見る影もない。

 一面の痣と、何本にも引かれた切り傷、みみず腫れ。そして全体的に肉が腫れて盛りあがっているから、せむしのように見える。

(こりゃひどいな)

 そろそろとお湯を当てる。飛びあがるほど痛い。骨だの神経だのという前に、今夜またあれで打ちのめされたら、背中の皮膚がぜんぶまくれあがるのじゃないか。そう考えてぼくはあらためてぞっとした。

 マンションの階下に出ると、悟さんはオープンにした真っ黒のロードスターを正面玄関に寄せ、サングラスをかけてぼくを待っていた。出掛ける気満々てとこだ。

 今日も晴天だった。

 厳しい陽光が朦朧とする頭に照りつけ、なまぬるい風が白んだ皮膚に不快に纏わりつく。ぼくはいやよいやよという気持ちで助手席に乗り込んだ。シートベルトをして背もたれにもたれると、背中が音を立ててきしむ。しかたなしに窓側へ向いて斜めに腰掛け、背中がシートに当たらないようにした。

 勢いよく車が走り出す。

 直射日光が強くて眩しい。オープンならオープンと教えてくれればいいのに。それならキャップでも被ってきたし、こんな半袖じゃなくて日光を遮る長袖を着てきたのに…などと口にしてみたところで、悟さんにとってはそのどれもがこの上なくどうでもよいことだし、むしろごちゃごちゃウルセエ以外のなにものでもないのだから、ぼくは座席で丸まりながら、じっとすべての不快感に耐えていた。ただ、走り出すと風は気持ちよくて、ぼくの半端に伸びた洗いたての髪も、あっというまに乾いた。

 いったい他の車の人たちからはぼくたちはどう見えるのだろう。

 ベンツのオープンカーに可笑しな取り合わせ、と思うだろうな。ぜんぜん面白くなさそうに助手席でうずくまる痩せ細った少年と、黒いサングラスにヤクザの親分みたいななりで上機嫌に運転する男。ぼくだってそんなペアがいたらぱっと見ヘンだと思うや。

 悟さんは一昔前のアメリカン・ロックのCDを大音量でかけていたけれど、ここでもぼくはうつらうつらと眠り込んでしまう。まるで眠り姫だよ。だってぼくはいつも疲れているのだもの、許してほしい。

 そしてぼくはしばらく眠り込んでいたらしい。

 次に目覚めたときには木々に挟まれた狭い山道を走っていた。時計を見るとマンションを出てから一時間ばかり経っていた。

 木々といってもそんなにうっそうとしているわけではなくて、東京の中にもたまにある小高い丘に入ったようだった。人影一つ見当たらない道の真ん中で車が右折する。学校に似た門をくぐり抜けると、左手に窓の少ない巨大な建物が現われた。

 悟さんは右手に開けている広い駐車場の一角に車を停めた。他に車は三台ほどあるだけだ。

 悟さんに続いて降りた。一見、木々に囲まれた寂れた病院。でもそれにしては寂れすぎている。

 どこだ、ここは。

 そう思って悟さんに続いて建物の正面を横切ったときに、玄関横のプレートを確認した。

『国立精神衛生研究所 西東京分所理化学実験棟』

 ああ。

 ここなのか、悟さんの職場は。

 悟さんはぐるりと建物の裏手に回ろうとしているらしい。ぼくはその後をおとなしくついていった。それだって背中は相変わらず音を立ててぼくを苛み続けている。

 それにしても、まったく。

 悟さんの職場が精神衛生研究所とは。なんて悪い冗談だろう。

 悟さんこそおつむの中身を一度調べてもらったほうがいいんじゃないの、などと心で毒づいてみると、突然に新手の恐ろしい予感がしてきた。

 もしかして悟さんはここでぼくの脳味噌を解体して実験に使うのじゃないか。ほら。マッドサイエンティストっているじゃない? いよいよぼくの利用価値もそれくらいになっちまったのかもしれないぞ、と。

 裏手にある小さな通用扉からカードキーと暗証番号を使って中に入った。狭い階段をのぼる。体力のおぼつかないぼくにとっては、こののぼりさえきつい。二人の乾いた靴音が縦長の空間に冷たく響いた。

 どんなによくたって、ぼくが楽しくなるような事態にはけしてならないだろう、という予測はついていた。

 きっとなにか途轍もなく嫌なことが起きるに違いない。だってわざわざ悟さんがぼくをこんなところに連れてくる理由なんて他にないのだから。

 ただそれがなんなのか、それが気がかりだった。

 命に関わることならさっさと終わるのがいい。ずるずると苦しめられて死ぬのは嫌だ。あまり痛まず苦しまずがいい、ぼくは呆気なく死にたいのだ……と、ここまで考えて、昨夜の鞭打ち強姦自体がまったくもって全然「呆気ない死」とは程遠いけどな、と思い至る。

 三階分ほどあがって階段のドアを抜けると、左右に長い廊下が開けた。人影は無い。日曜だから出勤している人が少ないのだろう。

 ぼくはここでも黙って悟さんの後についていく。見えない首輪とリードがついているみたいに。

 だってけして逃れられないのだから。逃れようとすればするほどそれはひどい力で、それこそ首をもぎとられるような痛みで引き戻される。たとえ待ち構えるのが悲惨な死であろうとも、ぼくに選択の余地はない。

「ちょっと待ってろ」

 とあるドアに悟さんが消えてゆく。ぼくは忠犬ハチ公のようにじっと佇んだままご主人様の出てくるのを待った。

 一分も経たないうちに出てきた悟さんは、なぜか分厚いダウンジャケットを着ている。ぼくは不思議に思って首を傾げた。そりゃ確かに、ここは休日だというのにガンガンと冷房が効いている。官営だからってこんなに電気代を無駄にしていいのかよ、と思うくらいには肌寒い。それにしてもダウンジャケットとは。ちょっと大袈裟すぎやしないか。

 それから左右に無機質なドアが並ぶ廊下を二回曲がった。ところどころ「使用中」の赤いランプが点滅しているから、もしかしたらこの中には誰かがいて、実験なぞをしているのかもしれない。

「入れ」

 厚みのあるドアを開けて、悟さんがぼくに命じる。言われるままに一歩入れば、自動で明かりが付く。

 瞬間、ふぅっと風に当たった気がして、ものすごい違和感を覚えた。

 背後で重い音をたててドアが閉まった。そして、鍵の締まる尖った音。

「え…?」

 ――寒い。

 狭い室内にゴーっという冷房の音が充満する。悟さんは持っていた鞄をデスクに置いた。

「あ――、なに? …ここ、寒いね?」

 ぼくは振り向いて、ドアの前に立つ悟さんから視線を這わせ、背後にある電子プレートを見付けた。4℃の文字が目に飛び込んでくる。――そうか。低温実験室というやつだ。ぼくも理系の端くれだったからその存在くらいは知っていた。

 4℃と分かると途端に寒さが現実味を帯び、鳥肌が立ってくる。無駄かもしれないと思いながらも声をかけた。

「ね。ここ、寒いよ? もう少し、温度、あがらない?」

「うるせえ。黙ってろ」

 鞄からタオルと例の鞭を取り出す。まさか、ここでやる気なのだろうか。ぼくはあまりのことに茫然自失となった。

「さあ。脱げ」

 ぼくの口にタオルを咬ませようとする。

「ま…、ま、――待って!」

 仰天したぼくは室内の奥まであとずさった。といったってたかがしれている。ほんの二、三メートル先の悟さんは、たちまち憤怒で表情を荒げていく。ぼくの体がかたかたと震え始めた。寒いのと、恐怖のためにだ。

「ここ、寒すぎる。他の部屋で、やってくれない?」

「なに?」

 だって。こんなところで二時間も裸でいたら、低体温で本当に死んじまう。

「嫌だよ…。こ、こんなとこでやったら、ぼく、死んじゃうよ…?」

「バカ言うな。死にゃあしねえ。早く脱げ、全部だ」

 悟さんの日に焼けた顔が苛立ちでどす黒く変わっていくのを見ながら、ぼくは必死に首を横に振った。寒くてしかたない。ここに二時間裸でいたら、死ぬ。確実に、死ぬ。そりゃあんたはいいだろう。そんな厚手のダウンコートを着てるんだから。でもぼくは痩せて肉だってまともについていないのに、どうやってこの寒さをしのげというのだ。

「…どうして? こ、こんな、ところで――?」

 吐く息が白い。やがて寒さで歯までがガチガチと鳴りだした。

 半袖の腕が寒くて、両腕を組むようにして手のひらでゴシゴシとさすった。

「つべこべ言うな! 殴られたいかっ」

「い、嫌! ねえ、ど、どうして、なの…?」

 我慢の限界だ。殴られてもなんでもいい。とにかく一刻も早くここから出たい。

「どうして、外じゃ、ダメなの? こ…こんなとこ、寒いよ! ぼくに、なに、してもいいから。なんでも、するから。ど、どうか、ここから、出して。お願いだよ…!」

「人形のくせに、生意気言うな!」

 怒号が飛ぶ。平手も飛んでくると思って、竦みながら目を閉じた。

 悟さんはぼくのTシャツの首根っこを捕らえ、ギリギリと音が立つくらいに捻り上げた。歯の隙間から、猟犬のような唸り声を出す。

「てめえは人形だろうが? 人形は寒くなんてならねえんだよ。俺が本気でキレる前に、早く素っ裸になれ!」

 目を血走らせながら、ぐいぐいとぼくを締め付けてくる。

(なぜ…? どうして――――?)

 こんな寒い密室に閉じ込められ、喉を締めあげられ、罵声を浴びせられて。

 ぼくはようやく、この問いにゆきあたったのだった。

 なぜ、この人はこんなにもぼくを人形扱いするのだろう。

 なぜ、この人はここまでぼくを懲らしめるのだろう。

 なぜ、この人はここまでぼくを憎むのだ――――と。

 いままでも感じなかったわけじゃない。けれど、それは突き詰めたってしょうのない、かえって彼の激情を煽るだけの余計な詮索だろうと決めつけていた。

 でも、いま。

 自分の受けている仕打ちの意味を、はっきり知りたいと願った。

 なぜ、ぼくはここで苦しみ、傷みつけられ、人格どころか人間、いや、生物であることさえ否定されなくてはいけないのか。

「脱げ!」

 彼がぼくのシャツを乱暴に剥こうとする。

「い、――い、い、嫌だ!」

 悟さんの脇をすり抜けてドアへと走った。ガチャガチャとロックを外そうとしたけれど、内側からの鍵が必要だった。腕を掴まれ、頬を強く張られて、床へと倒れ込む。

「あんまり怒らせんな、俺を」

 悟さんが低く呻く。

「脱げ」

 ぼくは上体を起こしながら懸命に首を振った。

 別に半袖のTシャツ一枚を脱いだって寒さは変わらない。だっていまだって体が震えて血まで凍りそうなのだから。だから脱いだっていい。

 でも、ぼくには納得できない。

 なぜ、こんなところで犯されなくてはならないのか。なぜ、ここまで苦しみを与えられてそれを耐え忍ばなくてはならないのか。そのわけを、どうしても知りたかった。

「――ど…どう、し、て?」

 力のない声で喘いだ。歯が鳴って、うまく話せない。

「…ど、うして、ぼくを、こんなに、く、苦しめるの?」

「――苦しめる、だと…?」

 悟さんが凶悪に顔を歪ませる。すぐにでも暴力へと移行しそうだった。

「人形のくせに、人間みたいなしゃべり方をするな」

 ぼくは全身を大きく震わせながら、その長身の上で光っている狂気に満ちた双眸を見あげた。ガクガクと定まらない顎で、懸命に声を絞り出した。

「さ、悟さん。…ぼくは、人間だよ? に、人形じゃない。で…でも、あなたにとっては、に、人形なんだね? …なんで、だろ? …どうしてなの? ――う。どうして、ぼくは、あなたにとって、に、人形に、ならなくちゃ、いけないの? ぼく、なにか、悪いこと、…した? あ、謝っても、許されない、ことなの? あ――。どうして? ど、どうして、ぼくを、そ、んなに怒るの? お、教えて。お願い。そうしたら、ぼく、ここで、脱ぐよ。なに、されても、いい。――おお、おねが、い。教えて。どうして、あ、あなたは、そんなに、ぼくを、に、憎むの?」

 ぼくの言葉に、悟さんが目を吊り上げる。悟さんの体も激しく震えていた。それはどこか戦い前の武者震いのようだった。

「憎むだと? 人形なんか、憎む価値もない」

「うそ、う…嘘だよ! そ、そんなの、嘘だ! ち、違う、でしょう? ――なんで、なの? 教えて。ど、どうして、そんなに、ぼぼ、ぼくを、痛め、つ…つけるの? 理由を、聞かせて。――――そ、そ、したら、ぼく、脱ぐ。いくら、でも、に…人形に、なる、から」

 寒さに体が強張って、息をするのもやっとだった。

 悟さんがぼくの腕を掴んで引きあげようとする。ぼくは思いきりその腕を引っ張り返した。

「おねがい! お…おしえて!」

 今度はぼくを突き放し、彼は狂気に燃えた目で睨みすえた。抑えつけられた激情でヘの字に結ばれていた唇がゆっくりと開き、音を発する。

祐香ゆうかは、もともと俺の女だったんだ」

 その言葉があまりに思いがけなくて、ぼくには時間が止まったように感じられた。

(お母さんが、悟さんの女――?)

 いま、そう言ったのか?

「あいつははじめ俺の女だった。俺が本気で惚れて、すべてをくれて愛した女だった。大学の同級でな、婚約までしていた仲だったんだ。だのにあいつは、俺が親に紹介しようと家に連れていったときに、初めて会った兄貴にあっさりと乗りかえたんだよ。使い終わったゴミみたいに、俺を捨てて。理由を問い詰めたら、なんて答えたと思う? あなたより彼の方が稼ぎがいいでしょう、と、平然と答えやがったんだよ。ひとをバカにしたような顔で。それからさっさとお前を作って、兄貴と結婚しやがった。美しい女だったから、それまで女をとっかえひっかえしていた兄貴も、お前の母親にぞっこんになったよ。あとはお前も知る通りだろ。――淫売だろ? ああ? 売女だろうが? お前の母親は。お前もだ。そっくりだ。あの女に。まるで生き写しだ。許せねえ。お前なんか、俺がめちゃくちゃにしてやる」

 そこまで言って、悟さんは言葉を切った。しゃべりすぎて後悔したとでもいうように、さらに表情を険しくした。

 ――ぼくは。

 呆然として彼を見上げたまま、体を震わせるだけだった。

 頭は彼の話を冷静に理解したけれど、心はしんと凍りついた。

 そうか、そうだったのか。

 だからだったんだ。

 悟さんが、ぼくを憎むのは。

 すとんと腑に落ちる。全ての辻褄が合い、合点がいく。

 そうなんだ。こんなにまでも悟さんがぼくを痛めつけ苦しめたいと思うのには、それなりの理由があった。

「さあ。脱げ」

 いつもの調子に戻った悟さんの声に、もう抗うことなく従った。服を脱ぎ、寒さと恐怖におののく裸で四つ這いになる。冷房で凍った床は、己の業を知れとぼくをつき放しているようだった。

 悟さんが後ろからタオルを口に咬ませた。涙が流れてきたので、気付かれないように俯く。盛りあがった涙が次々と床へとこぼれ落ちた。

 痛いほど尻を開かれてペニスが押し入った。堪えられないような痛みだった。バスルームでは背中のことばかり気になって、油を塗ることなど思いつかなかったのだ。

「ううッ!」

 しょっぱなからの激しいピストン。ああ。ああ。ああ。痛い。苦しい――――!

 鞭が鳴る。

「ウウウッッ!」

 激痛に耐えかね視界が暗くなって、気を失いそうになる。両手のこぶしが床の上でぶるぶると無様に震えた。

 まだ全然癒えていないところに、しかも寒さに粟立ち敏感になっているところに打たれるのだからたまらない。

(けれど)

 ああ、そうとも。

 分かっている。

 これは、贖罪なのだ。

 ぼくはひとり納得してコクコクと頷いた。

 これは母親がこの人を傷つけてしまったことへの、贖罪。

 いや――そればかりか、ぼくがこの世に生まれてしまったことへの、贖罪。

 そうだ。ぼくさえ生まれなければ。

 ぼくさえ、作られなければ。

 ぼくさえ生を受けさえしなければ、もしかしたら父と母は結婚しなかったかもしれない。

(死にたい)

 そうだ。

 死んでしまえば、どれだけ楽だろう。

 もう、いい。ぼくは頑張った。これまで一人でなかなかよく耐えてきた。だから、もう死んでいい。それで許しを請おう。

 『一死を以って大罪を謝し奉る』

 いつだったか思いついたよりは鮮明に、前向きに決意した。

 ぼくがいる限り悟さんが解放されることはない。むろんぼく自身もだ。だから、ぼくはいなくならなくてはならない。

 再び背中が鳴った。苦しみに悶える声が分厚い壁に吸い込まれてゆく。

(寒い…! 痛い…!)

 だから死のう。死のう。死なねば。

 でも。

(――だけど)

 人間らしい感覚が残る脳の一点で、ぼくは夢中で自分に言い聞かせた。

 ほんの少しだけ、心残りがあるだろう?

 ああ。そうとも。

 ぼくはタカハシを思い出していた。

 もし、ここから生きて帰ることができるなら。

 生きて、ここから出られるならば。そんなこと、本当にできるのか分からないけれど。

 もし、その願いがかなうのならば、一度でいい。

 タカハシに抱かれたい。

 あの腕に抱かれ、あの腕の中で眠りたい。

 一晩でいい。猫のように丸まって、幼子のようにすべてを委ねて彼の温かな腕の中で眠れたならば。

 そうすれば、それができさえすれば、ぼくはすべてを納得して安らかに死ねるだろう。

 もう、なにも思い残すことなく。

 彼の逞しい腕と美麗な微笑をそっと心にしまいながら、ぼくは心穏やかにこの世にさようならできる。

 寒さと痛みに失神寸前だった。

 けれど、ただそのことのみのために。

 ここで失神したらそのまま死ぬ、ということが分かっていて、そんなことになってもけして悟さんは手心を加えてなどしてくれないだろう、という予測にたち、ぼくは、ただ、生きてここから出たい、そして一度だけタカハシに抱かれてからこの世におさらばしたい、と。ただ、その目的のためだけに、身震いする寒さと狂おしい激痛に耐え、意識を失うまいと必死にこらえていた。

「つまらねえ…! なんて、つまらねえんだよ…!」

 悟さんが歯ぎしりする。いったいなにがそんなにつまらないというのだろう。ぼくをここまで苦悩せしめているというのに。

 轟々と室温をさげる冷房の音。

 しなやかに打ちすえられる、鞭の音。

 皮膚が破れ、骨が砕かれ、ゆえにぼくの喉から発せられる、悲鳴の響き。

 これらが冷酷なほど一定の時間を刻みつつ、低温室に響いていた。



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