07 危険な追いかけっこ

「嘘、でしょ……」

「みゅみゅみゅーみゅ! みゅみゅみゅっ」


 みゅーちゃんが大きな声で叫んでいる。逃げろ、と必死に訴えているみたいだ。さすがのわたしも出来ることならそうしたい、のだが……足ががくがくと震えて、うまく言うことを聞いてくれない。

 茂みから現れたのはわたしの背の丈ほどもある巨大なイノシシのような獣だった。口の端からのぞく牙が研がれた剣のように鋭く、突き刺されたらひとたまりもないだろう。そしてふつうのイノシシとは明らかに異なっているところがあった。


「火を纏ってる……?」


 めらめらと燃え盛る炎がイノシシの黒い毛皮の上を這うように絡みついていた。まるでイノシシそのものが燃えているかのようだ。


 魔獣とは魔力を帯びた獣、というどこかで耳にした説明がぱっと頭に思い浮かぶ。ついでに強力すぎて訓練された王国騎士団にしか討伐が出来ない、という情報も一緒に浮かび上がってきた。そうか、これが危険な「魔獣」というものらしい。話によればラスグレーンの森にはこういうのがうようよいるということだった。そのための長期遠征、そのための狩猟大会である。

 眼前のイノシシは明らかに「火」の魔力を帯びているようだ。それにしてもこんなにヤバそうなのを狩ろうとしているのか、サイラス様たちは。イノシシが歩いたところは草むらが焼けて焦げ臭いにおいが漂っている。


「こ、来ないで……」


 わたしの懇願もむなしく、ぎらついた眼で此方を睨む魔獣が蹄で土を抉りながらじりじりと距離を詰めてくる。わたしはなけなしの力で近くに有った木の枝をイノシシの魔獣に向かって投げつけた。


「ひぇっ」


 毛皮に触れる瞬間にじゅ、と音を立てて木の枝が黒焦げになってしまった。しかもいまのほぼ効果ゼロの攻撃によって魔獣の機嫌をいっそう損ねてしまったらしい。ぎらぎらした目つきで此方を睨みつけてくる。


「みゅーみゅ!」


 鳴き声にはっとしてわたしはみゅーちゃんを見た。

 みゅーちゃんは短い手足で二足歩行、歩くのはゆっくり、というかかなり遅い。この子を置き去りにして逃げて……犠牲にすれば、その隙にわたしは逃げられるのではないだろうか。

 おびえたようすでみゅうみゅう鳴き叫んでいるみゅーちゃんと目が合い、わたしは勢いよく首を横に振った。

 いやそんなひどいこと出来るわけがない。みゅーちゃんはわたしを水場まで案内してくれたのだ――恩を返さなくては。


 わたしはみゅーちゃんを急いで抱き上げると、全力でイノシシから逃げ始めた。だが、わたしはすっかり忘れていたのだった。


 自分がかなりの運動音痴であることを……。


 木の根っこに躓きながらわたしは森の中を精一杯、懸命に走った。が、引き離すどころか逃げられるはずもなかった。

 イノシシは追いかけっこを楽しんでいるかのように、ギリギリ追い付かない程度の低速で迫って来ては、追いつきそうになると速度を落とす。こっちは全速力で走っているにもかかわらず、だ。こいつ絶対性格が悪い。みゅーちゃんと接していても感じたが、おそらく魔獣というのは賢いのだろう。

 さんざんいたぶってから、わたしを殺すつもりだ。

 

「みゅみゅっ」

「はぁ、はぁ、ごめん、足が遅くて……」


 慰めるようにみゅーちゃんがわたしの胸に顔をすり寄せてきた。なごんでいる場合ではないがこの子を守らねば、という使命感で胸が熱くなる。


「みゅ〰〰っ!」


 そのときみゅーちゃんが警戒するように長い耳をぴんと立てて叫んだ。

 いきなりどうしたんだ、と思っていると眼前に迫っていた断崖絶壁に気付いて、わたしは慌ててスピードを緩めた。

 おかげでぎりぎり崖から落ちずに済んだわけだが――恐る恐る振り返る。

 ぶも、と巨大イノシシの鼻息がすぐ間近前迫っていた。


「みゅみゅ!」

「ごめん、ほんとにごめんなさい頼りなくてっ」


 どうしようもなくなってみゅーちゃんに平謝りするわたしは、今度こそ死を覚悟していた。このまま後退あとずさったら崖下に真っ逆さまだ。だからと言って前進すれば燃え盛るイノシシの突進に遭って、ぐっさり鋭い牙で貫かれるか、丸焦げになるかのいずれかでしかない。

 みゅーちゃんを地面におろして、せめてこの子だけでも逃げてくれ、と視線で訴えて祈ったのだがわたしの足下にぴったりと寄り添って動かなかった。なんて義理堅いんだこの子は。

 ぶもおお、とイノシシがわたしに向かって咆哮する。突進するつもりなのだとわかった

 みゅーちゃんを抱え上げ、庇うようにイノシシに背を向ける。


 が、痛みはいつまで経っても襲ってこなかった。


「仕留めた! 魔獣・火焔猪ヴィルトシュヴァイン

「っ!」


 代わりに届いたのは、馴染み深い低音で。

 その声を耳にしただけで、涙がじわりと滲んだ。直後、ざしゅ、と肉を断つ音が無情に響く。


「えっ、そこにいるのは――リーリエ、どうして……此処に」


 どすん、と大きな音を立てて地面に頽れたイノシシの巨体の向こう側から聞こえたのは馴染み深い婚約者の声だった。


「さ、サイラス様……!」


 顔を上げると茫然としたようすのサイラス様と目が合う。

 血と泥で汚れた寝間着パジャマ姿のわたしを見て、目を瞠っている。そういえばそれどころではなかったがひどい有様なのだった。少なくとも婚約者の前にうかうか出ていって良い姿ではない。思わず恥ずかしくなったが取り繕うこともできなかった。


「あ、あのわたし……」

「説明は後にしましょう。此処は危険です、どうぞ此方に」


 言いかけたサイラス様がわたしの腕の中にいたみゅーちゃんに目を留めた。はっとしてみゅーちゃんを抱く腕に力を込める。どうしよう、この子も魔獣だから討伐する、なんて言われてしまったら。


「さ、サイラス様。ち、違うんです。みゅーちゃん……この子は……っ! わたしを助けてくれてっ! すごくすごく良い子なんです」


 だからどうにか許してください、と訴えるとサイラス様は静かに息を吐いた。


「あなたが抱えているそれはミュゼットという魔獣ですが……危険はないので駆除対象ではありませんよ」

「よかった……」


 わたしはミューちゃんを抱いたまま力が抜けてその場に座り込んだ。

 そのとき、ぼろ、と左足を置いていた崖の足場が崩れた。


「えっ」

「あ」


 間の抜けた声を発しながら、崖下へと転落していく。わたしの頭の中は真っ白に染まっていた。

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