08 キスの後遺症(✦サイラス視点)

 やってしまった――サイラスは逃げるように部屋へと駆けこんだリーリエの姿を見上げながら頭を抱えていた。

 勿論、怯えさせるつもりはなかったのだ。ただどうしようもなくリーリエの泣き顔が可愛くて……可哀想で、見ているだけで喉が鳴ってしまい――気が付いたら口づけていた。驚いた表情だってリーリエは愛らしいものだから理性などすぐに溶けてしまい、何度でも繰り返ししたくなってしまったほどだ。逃げられてしまったのでそれは叶わなかったが。

 つまりは完全に欲望に負けてしまった、というわけだった。


「俺もまだまだだな……」


 深く吸い込んだ息を吐きだす。今度こそ自分はリーリエのためにならないことはなにひとつとしてすべきではないのに。本来ならば無理に婚約を迫るようなこともすべきではなかった。頭では理解していても、サイラスは動かずにはいられなかった。


 ――リーリエを愛しているから。


 なによりも優先されるべきはリーリエの幸せだ。自らの欲など脇に置いておくどころか火にくべてなかったことにしてしまう方がずっといい。それでも誰よりも近くで彼女を守る方法がたったひとつしかないと決め込んでしまった。


『リーリエ・ヴェルファ嬢、俺と結婚していただけますか』


 あの怯え切った表情、潤んだ瞳がまっすぐにサイラスに向けられていたときはぞくりとしたものだ。以前はそんな表情かお、見たことがなかった。

 気を遣うようにちら、とサイラスを窺っては愛想笑いを浮かべていた彼女。実家が裕福でないことを気にして、サイラスとは釣り合わないと真っ赤な顔で首を横に振ったリーリエは可愛いを通り越していじらしく、愛おしかった。


 思い出に十分浸ってから嘆息して、サイラスは気持ちを切り替える。自室に戻り、ベルを鳴らすとレベッカがすぐにやってきた。


「お呼びでしょうか、団長」

「団長はやめてくれないか、レベッカ。此処は自宅なんだから」

「いいえ。私にとっては此処にいるのは近衛騎士団の詰め所にいるのと同様です。大体、私にとって団長を旦那さまと呼ぶことこそが苦痛である、とどうやらご理解いただいていないようですね」


 冷たく言い放った部下をサイラスはまあまあといさめた。

 レベッカには無理を言って騎士団の特命任務としてこの屋敷に詰め、リーリエの警護の手伝いをしてもらっている。さぞやストレスも溜まっていることだろう。


「レベッカには感謝しているよ。それにメイド姿も良く似合っているし」

「セクハラで訴えますよ?」


 せめて目いっぱい褒めようと思ったのだが失敗したらしい。ぎらりと殺意のこもった視線を向けられてサイラスはたじたじになった。


「大体、何故私がこんな任務に就くことになったのかまだ説明していただいていないのですが」

「それはおいおい」

「私がメイドとしてこの家に着任してから既にひと月ほど経過しておりますが?」


 言わないと職を辞するとでも言いたげな剣幕だった。

 レベッカの冷え切っているのに苛立っているとはっきりわかる声音にサイラスは腹を括った。いつまでも隠し通せるわけでもないし、部下に最低限の説明をするぐらいの許可は既に得ている。レベッカを呼んだのもこの話をするためだった。


「目下別班で捜査中の案件だが――リアム王太子殿下の暗殺を企てている者がいる」

「それはそれは……オディール王国の至宝に手を掛けようなどという不届き者が


 またなのか、と言いたげな表情でレベッカはサイラスを見た。というのも王族はただでさえ命を狙われがちだからである。サイラスが近衛騎士団長になってからも毒殺未遂があった。侍女に紛れて色仕掛けをした挙句、刃物で殺傷しようとしたという事件もあった。また暗殺事案か――とうんざりする気持ちもよくわかる。

 とはいえ上官に向けるまなざしとは思えないそれに、よほどメイド生活に嫌気がさしているのが察せられた。


「で、王太子殿下の暗殺計画とリーリエ嬢の警護にどういった関係が?」

「それは――まだ内緒だ」

「……内緒?」

「そう、ナイショ」


 にっこり微笑んで見せたサイラスにレベッカははたきをぶん投げそうになっていたが――眼前にいるのが上官だということをギリギリで思い出したらしく、投擲の動きをぴたりと止めた。ただ投げられたとしても、瞬時に引き抜いた剣で真っ二つにしていただろうからどちらでもよかった。


「くれぐれもリーリエにはこの件は悟られないように」

「……かしこまりました。ご用件はそれだけでしょうか」

「ああ。それと少し酒でもやろうかと思ったんだけど付き合うか?」

「遠慮申し上げます。では、失礼いたします団長」


 ばたん、と優雅さの欠片もない(わざとだろう)退室をして、部屋にはサイラスひとりが残された。

 棚から琥珀色の酒がなみなみと入った瓶を取り出し、グラスに注ぐ。氷か水で割る気も失せて、そのままちびちびと舐めるように飲んだ。酩酊感はじわじわと押し寄せてきて、思考が彼方に飛んだり此方に飛んだりする。それでも真っ先に、そして何度でも頭に思い浮かぶのはリーリエのことだった。


 血を浴びた高揚は詰め所ですべて洗い落としてきた――この屋敷には持ち込んではいないはずだ。それでもリーリエの瞳には恐れが見えた。不埒な無法者とはいえど、なんのためらいもなくひとを斬り捨てた自分はさぞや悪鬼のような顔をしていたことだろう。


 ――リーリエを手に掛けようとするなんて、生きている価値もない連中だ。


 首謀者を聞き出すために殺めはしなかったが、はらわたが煮えくり返るようだった。いますぐにでも息の根を止めてその死体を城下町の一番目立つところに晒してやりたい。

 いまだってサイラスがそんなふうに考えていることをリーリエは見抜いているのかもしれない。彼女にとって最も危険な人間はサイラス自身であることに気付いているからこそ、顔を見るたびに怯え、いつまでも心を許してはくれない。それは生物として正しい反応だろう。


 それでも手元に、自分の手が届く場所に置きたいと願ってしまう。

 たとえ愛を返してくれなくたっていい――サイラスは、リーリエを愛している。ただそれだけの事実で十分だった。


 ついさっきリーリエの唇に触れた己の唇を指でつうとなぞり、くらりとする酒精と共にその余韻を愉しんだ。

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