07 おかえりなさい
サイラス様がエルドラン邸に戻ってきたのは夜遅くのことだった。
わたしが急いで階段を駆け下り出迎えると、サイラス様はひどく驚いていた。
「リーリエ、どうしたんですかこんな遅くに。何か困ったことでも――」
「サイラス様っ、おかえりなさい。えっとその、あの……」
何を言ったらいいのかわからず視線をさまよわせる。サイラス様は城下町で見たような血でドロドロの衣服ではなく、清潔な騎士服に着替えていた。そのことに安堵と同時に申し訳なさのようなものをおぼえた。
「ごめんなさい!」
勢い良く頭を下げたわたしを見て、サイラス様は戸惑ったように「そんな、あなたは何も悪くありませんよ、リーリエ」と肩に触れた。が、わたしはとてもじゃないけれど顔を上げられなかった。
「わ、わたしが変なところに迷い込んで、変なひとたちに絡まれなければ……その」
声が震えてしまった。
目を閉じれば真っ赤な鮮血が
サイラス様の綺麗な手を血で汚してしまったのはわたし自身だ。
わたしのせいだ。
ぶるぶる震えるわたしの肩をサイラス様は引き寄せた。たくましい腕の中でふわりと香ったのは石鹸の匂いだった。帰宅前に身体を清め、血の臭いを落としてきたのだろう。
サイラス様はいつだってこの屋敷に「怖い」ことを持ち込まない。
「大丈夫です、リーリエ。あなたを傷つけようとするものは俺が絶対に許しません。それがたとえ誰であろうと、守ってみせます」
「サイラス様……」
体温がつたわる距離にどきどきする以上に、目の奥がじんと熱くなってきた。まずい泣きそうだ。こんなところで泣きでもしたらサイラス様も困るに違いない。耐えろ、我慢できるはずだと言い聞かせるがわたしはじわと目の端に滲んだものをとどめることは出来なかった。
「っ、リーリエ……泣いて、いるのですか?」
「ひっぐ、ごめんなさい……サイラス様、わたしっ大丈夫です、すぐ泣き止みますのでっ」
もうやだ、恥ずかしい、格好悪い。それなのに涙がどんどんあふれてくる。厄介なことに涙というのは止めようとしてすぐ簡単に止まるようなものではないのだ。みっともない泣き顔を晒していることに気付いていながら、一向に泣き止める気配がない。
サイラス様もおろおろしているようで「リーリエ、大丈夫ですよ」と子供をあやすように声を掛け続けてくれている。しゃくりあげる背中を撫でられて、いっそう目が潤んできた。優しくするのは逆効果なんです、サイラス様。ぶわ、と再度こみ上げてきた涙が頬を伝い落ちる。
「リーリエ」
サイラス様の優しい声音と頬に触れた指に、わたしは思わず顔を上げる。そこにはいつになく真剣な表情のサイラス様がいて――至近距離に端正な顔が迫っていた。
「……っ⁉」
温かな唇が涙をぬぐうように目元に押し当てられる。くちづけられたのだということにすら、すぐ思い当たらなかった。驚きのあまり泣き止んでしまったわたしを見て、サイラス様はふっと優しく笑った。
「大丈夫です。あなたを泣かせる存在はすべて俺が排除してみせます。ご安心を」
「サイラス様……」
そうじゃない、怖かったのはそうなんだけどわたしが泣いている理由はあなたなんです……! そう言いたいのはやまやまだったがちっとも言葉が出てこない。だっていま、わたしキス……されっ⁉ 呆然とするわたしの唇にもあたたかなぬくもりが落ちてくる。軽く重なっただけなのに、そのかすかに乾いた感触までありありと感じられて、瞬間、顔からぼんっと火が出た。
「リーリエ⁉」
「だ、大丈夫ですちょっといま頭の処理能力が追いつかないだけですので……!」
片手を突き出してサイラス様から距離を取る。あわわわ、わたしいったいいまどんな
なんだか、とてつもなく恥ずかしいことをしてしまったような気がする!
「おっ」
「お?」
「おやすみなさいっ!」
わたしはサイラス様に背を向けて階段を一息に駆け上ると、廊下を突っ走って自室に飛び込んだ。
「わああああああっ!」
叫び声をあげ、寝台に勢いよくダイブすれば、ぼよん、とやわらかな振動と共にわたしの身体を受け止めてくれた。さすがは寝心地も最高の高級なベッドである。この部屋のすべてはサイラス様が用意してくれたものだが今日は特にこのやわらかさに深く感謝した。それにしても、だ。
「ど、どどどうしよう……」
枕に顔を突っ伏したまま、起き上がれる気がしなかった。このまま窒息してしまいたいくらいだ。そうすればもう何も考えないで済む。
そうだ、婚約者なのだからキスのひとつやふたつ、みっつによっつは当たり前なのだけれどすっかり油断していた。いきなり不意打ちの攻撃を喰らってしまった心地だった。心地といえばサイラス様の唇はやわらかくて温かくて……って、待って! いま絶対わたしってば余計なこと考えてる! 寝よう、寝なきゃ――なのに目を瞑ると感覚がありありと蘇ってくるから
やわらかくあたたかなおふとんに包まっても頭に浮かぶのはサイラス様のあの眩いばかりの美貌で……ぜんっぜん気が休まらなかった。どうやらとんだ刺激物をよりにもよって就寝前に摂取してしまったらしい。
何度寝返りを打ってもキスの感覚を振り払うことができなくて、わたしは眠れない夜を過ごしたのだった。
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