05 危険な逃避行
少し走りましょうか、と言われたときはぎょっとしたのだが……サイラス様に手を引かれて駆け出すと、背後でばたばたと続こうとする足音が響いたのがわかった。
「っ、ひぇ」
本当にいた――……。
背筋がぞっと寒くなる。何者かがわたしたちの後をつけてきている。
その目的も、何者であるかもまるで見当がつかない。早鐘を打ち始めた心臓が、そのまま喉から飛び出てしまいそうだった。
「リーリエ――危ないのでしっかり掴まっていてくださいね」
「え、えぇっ……⁉」
次の瞬間、サイラス様はひょいとわたしをまるで荷物か何かのように担ぎ上げた。正体不明の追跡者を撒くためではあるのだろうが、唐突すぎて戸惑いの声をあげてしまう。
そして、わたしの動揺などお構いなしにサイラス様は壁を勢いよく蹴り上げる。
そのはずみで商店の屋根まで跳躍し――華麗に着地する。
「な、っ⁉」
屋根。
一歩間違えば真っ逆さまに墜落しかねないところだ。しかもサイラス様はわたしを抱えたまま。非常にバランスのとりづらい体勢で素早く駆け抜けていく。
「おや。リーリエは羽根のように軽いですね。俺が見ていないところでは食事を摂っていないのではありませんか?」
「そそそそそそんなわけありませんっ。サイラス様! とにかく早く、此処から下ろしてくださいぃ!」
などと言ってもこんなところで下ろされでもしたら足を滑らせて落っこちるに決まっていた。是が非でも平たい場所にサイラス様ごと、安全に着地してほしい。
「すみません、リーリエ。もう少し我慢していていただけますか。すぐに引き離しますので」
慣れてでもいるとばかりに、サイラス様はわたしを抱き上げたままスピードを上げた。あげそうになった悲鳴をどうにか呑み込み、サイラス様にぎゅうぎゅうしがみつくのがやっとである。
ひゅっと風を切る音が聞こえる。恐怖のあまりわたしはぎゅっと両目を瞑った。
ひとつ、ふたつと屋根を飛び越えたところでようやく、サイラス様は上ったときと同じく軽やかに地面に着地した。
息を整える間もなく、町を歩く人々を避けながらじぐざぐに走っていくから、わたしは振り落とされないように必死だ。
「ふ」
「……え?」
「ふふ」
最初は聞き間違えだと思ったのだが、ちら、と顔を上げてみて確かめたから間違いない。
「あの、サイラス様」
「ふふっ、なんでしょうリーリエ」
「どうして、笑っているのですか……?」
この状況で、何故。
いまは何者かに尾行されていて、逃れようとしている真っ最中だ。笑える要素など何処にもない。少なくともわたしは、担がれながらの移動で若干酔ってきたので青ざめている。
「いえ、こういうのをもしや愛の逃避行、とでも言うのだろうかと思いまして」
「は……?」
「少し楽しくなってしまいました。申し訳ありません」
殊勝に謝ってみせたが納得は出来かねる。少しは上昇しつつあったサイラス様の評価が下がっていく音が聞こえた気がした。
◆◆
「リーリエ」
「……………」
「怒っているんですか?」
つん、と顔を背けながらわたしは葡萄ジュースの入ったグラスを勢いよく呷った。お酒じゃないから酔いはしないため安心して飲み干してしまえる。
さすがに怒っていない、大丈夫だと笑顔で応じられるほど寛容でもない。
なお現在は、完全に追跡者を撒いたと確信したサイラス様が、わたしを抱えたまま予約していたレストランまで駆け込み、ほっと一息ついたところであった。
正直、わたしを抱えたまま屋根の上を走られたときは生きた心地がしなかった。
蝶よ花よと育てられたわけではないが、わたしだって(貧乏)男爵家のご令嬢なのだ。屋根の上に昇った経験もなければそこを駆け抜けた記憶も当然ながらありはしない。
「……別に怒ってはいませんが、怖かったんです!」
口の中に広がった渋みと甘みを飲み込んで言えば、サイラス様は例の可愛い耳と尻尾をしゅんと垂らした仔犬のような表情をした。まるで此方が悪いことをしたかのような心地になるがわたしは何も間違ってはいない。
そう言い聞かせていないと押し負けそうだった。それぐらい絆されかけていることに気付いて内心ぎょっとしていた。
このひとはわたしを脅して婚約したのだし、わたしは命が惜しいから仕方なく婚約を受け容れたのだ……それなのに。
――どうして?
「怖がらせてしまって申し訳ありません。あのときは、その方が追っ手を撒くには手っ取り早いと思ったものですから」
「だとしても、死ぬかと思いましたよ……」
深く息を吐きだすと、サイラス様は「死なせはしません」と力強く言い切った。
「俺はリーリエを絶対に守ると決めています」
決意に満ちた表情でにっこり微笑まれ、わたしは若干たじろいだ。このなんでも笑顔で押し切ろうとする癖、よくないですよ。
とは言えなかったので、代わりにテーブルの上に運ばれてきた料理をじっと眺めていた。
既にひとくち食べているが味は申し分ない。此間のパティスリーといい、もしやサイラス様はわたしを太らせたいのだろうか。
エルドラン邸で暮らすようになってから、ドレスのサイズがすこしきつくなっている。毎日のように供される美味しい食事と運動不足のせいなのは間違いない。
いまだってわたしが食べているところを満足そうは表情で眺めているし。
「……でももう、あんな危険なことはやめてくださいね?」
ナイフとフォークを置き、わたしは軽くサイラス様を睨んだ。
超高速で屋根の上を駆け抜けるなんて常軌を逸しているとしか思えない。
ため息を吐きながら言うとサイラス様は勢いよく頷いた。
「ええ! もちろんです、リーリエを怖がらせるようなことは二度と」
「念のため言っておきますけど、ひとりでいるときもダメですよ」
「大丈夫です。仮に墜落したとしても俺は頑丈なので……」
「ダメですからね!」
いつになくきつめに言うとサイラス様は不思議そうな顔をした。
どうしてそんな表情をするのかわたしには理解できない。
そんな……自分のことはどうだっていい、とでもいいたげな顔を。
「あの。お仕事柄、難しいとは思いますが……わたしはサイラス様が危ない目に遭わないでほしいんです。ただそれだけですから」
「嬉しいです、リーリエ! 俺を心配してくれるんですね」
サイラス様はぎゅっとテーブルの上でわたしの手を握りしめた。
「そういうわけでは――あるんですけど、あの……本当にわかっていただけましたか?」
感極まったように声を震わせたサイラス様を見て、若干焦りをおぼえた。伝わっているのか不安になる。
「ええ、リーリエが話してくれることを聞いていないはずがありません」
「はあ」
若干噛み合っていない気はするが、此方の意図は伝わっているようなのでひとまず安堵した。
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