第25話 『し』

『し』


『知らぬが仏』


 どんなに凄まじい事態であろうとも、実体を知らなければ仏のように平穏でいられる。というのが表向き。

 仏は穏やかであるとの確定因子によって成り立っている言葉である。

 仏の実体云々について、ここで語るのはひかえた方がよさそうだ。

 厭らしい意味としては、本人だけが知らずにのへーっとしているマヌケずらを笑ってやる時に使う。

 テレビでたまにやっているドッキリというやつ、だんだんとエスカレートしてきているような気がする。

 事態の真相を知らなくても、仏でいられない場合も多々あるのが現実社会である。

 ましてや仏でもない凡人が、騙されて笑い者にされた上に、テレビという赤の他人の集団に御披露目されるとあっては、どの様な取引があったとしても容赦できるものではない。

 ドッキリ系の番組を見る度に、芸能人というのは異常に堪忍袋がでかいのか、恥に見合うだけの報酬があったのか、事前にしっかり打ち合わせ済みなのかとしみじみ思う。

 ドッキリの内容があまりにも悪趣味になってきているので、数年前からこの手の番組は見ないでいる。

 他人の不幸は蜜の味であるのは否めない所であるが、過剰な他人の不幸は生活におけるマイナス因子に成る。かえって気分を概して暗く落ち込んで行くものだ。

 見なければ命に関わるといった事もなく、笑い飛ばす為に造られた物でイラつくのもつまらない話。

 とりあえず、スポンサーだけはチェックする。

 何も知らない善良な者に、洒落にならない悪戯を仕掛けて喜ぶ人を当てにして宣伝を打つ企業である。何も知らない善良な消費者に、得にならない商品を売りつけて暴利を得ていないとも限らない。

 公共性の高い電波を使って、企業イメージをアップする為の一手段としてのテレビ番組である。

 人様に対して嘘ハッタリをかまして、困った様子を見て喜ぶのが企業イメージのアップに繋がるのかどうか。

 何でも数字さえ稼げればいいってものではなかろうに。とか言っちゃってー。

 私、結構と数字、気にしてます。



『尻食への観音』


 江戸の時代には、何かにつけ困った時に【神様・仏様・観音様】と助けを乞うていた。

 キリスト教が禁止されていたから、今のように変形としての【神様仏様キリスト様】は御法度であった。

 困り続けているならば「どうか助けて下さい」と願い続けているものだ。

 宗教団体において、困った人がいなくなっては自身が困った団体になってしまう。食いっぱぐれの宗教団体ほど惨めな物はない。

 なにせ御本尊は難民を助けてくれないと、自分で証明しているのだから。

 しかしながら、困った人間をまったく助けないのは尚更信じてもらえない。

 そこで【奇跡】と称して一部の人間を助ける。それも飛び切り困っている人間を助けるのである。

 あの人が助かったのなら、何時か私も救われる。あの人の苦難に比べたら、私はまだ救ってもらう順番には早い。などと思いは人それぞれだが、とにかく運の良かった人は救われた。

 さて、この救われた人であるが、困っていた時は熱心に神様仏様観音様を信じていたが、いざ助かってしまうと自分の力で助かったと思い込んでしまう。人間の性である。

 どんな聖人にも、多少なりともこの様な傾向が見られるのは仕方ない。

 受けた恩を忘れてしまうまでは当然自然当たり前の成行であるから大目に見るとして、この恩を受けた観音さんにたいして【御尻ペンペン】をして馬鹿にするような行為を指して『尻食への観音』と言っている。

 簡単に言えば、恩人を罵る行為を指している。

 しかし、いかに恩人と言えども【ロクデナシ】はロクデナシである。

 ろくでなしのアホタレの馬鹿野郎が恩人であった場合。私はハッキリ「あんた本物の腐れですから」と言ってあげる。きっとそうする事がその人の為だ。

 雑な知識であるが、尻食らえ観音は尻暗い観音と書く場合がある。

 六観音の縁日が陰暦の十八日から二十三日までで、その後月が欠けてゆき闇夜になる事から、何処も彼処も暗い「尻暗い」とかけている。

 この場合は意味がかなり違ってくる。

 自分の尻も見えないマヌケな観音となる。

 神でも仏でも観音でも真っ暗闇では自分の姿もまともに見えないだろう、まして庶民の苦しみなど見える筈もない。と、かなり悲観的であるが、よくよく考えるにどれだけ明るくしても、自分の尻は鏡でも使わない限り見えないのだよ。



『しはん坊の柿の種』


 しはん坊ってどんな坊? 分かりませんわな。節約家の事であります。

 俗っぽい言い方をするならば【ドけち】

 柿の種はそのまま柿の種。

 直接的な解釈をすれば【ドけちの柿の種】

 してみるに、私はドけちである。

 十年ほど前に買って食べた柿が馬鹿美味で、思わず種を撒いてしまったら、なんと芽が出て育って木になって雄花は咲くが雌花が咲かずに実が生らない。

 桃栗三年柿八年は大嘘である。

 十年たっても【百二百花は咲けども甘柿の、実の一つだになきぞ悲しき】

 今は夏場の心地よい日陰作りくらいにしか使えない奴に成り下がっている。

 それでも叩き切って捨ててやろうと思えず、毎年面倒を見ている。

 不要な物はどんどんと捨てて行かなければ、物は増えるばかりである。

 ケチくさい事言ってないで、柿の種のようにつまらない物はさっさと捨てて、身の回りを整理しなさいといった意味。

 ア〇〇カの様に広大な土地を原住民から一方的に頂いた状態であるならば、置き場が広大だから何でも捨てずに保管しておいて、百年もすればコレクターが高く買ってくれる。

 何かの拍子におにぎりと交換した種ならば、芽が出て実がなるかもしれない。

 ところが、日本の土地事情は平地が極端に少ないのが実情である。住宅地の広さは極狭くに限られている。

 たとえ骨董的価値が出そうであっても、何時までも使わない物を置いたままでは寝る場所が無くなってしまう。【ケチくさい奴は柿の種でも後生大事に取って置く】と笑い飛ばしてやりたい所だが、はてさて何処まで大切で何処から不要な物なのか。

 いざ捨てるとなるとなかなか決められないというのが、何方さんも本音なんじゃござんせんかねー。

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