第24話 『め』
『め』
『目の上のこぶ』
自分より優れていたり地位が上の者を、邪魔者として表現する時に使う言葉である。
考えてみるに【たんこぶ】は頭以外には出来ない。目より上にあるのは当たり前である。
それをもってして目より上だから邪魔だと言っているとは思えない。
目の上、瞼などに出来るのはたんこぶではない。【こぶ】というからには、きっと瞼に出来て膨らんだ物を指しているのであろう。
【こぶ】が大きくなれば成る程、瞼は重くなって目を塞ぎ広い世の中を見え難くしてしまう。
この場合の【目の上】は【の】を取り除いて【目上】と解釈した方が解り易い気がする。
実力や地位が上であっても、下の者の面倒見が悪い者はいずれ嫌われる。
下の者は何時か上に居る者【こぶ】を潰さなければ先に進めない。
何かとあれこれ指示されているうちに、格下の者が上に居る者を目障りだ邪魔者だと思い始めたとしても、何の不思議はない。
それでもついて来てくれる格下の者には感謝すべきであろうが、上の者はどの様に謝意を示しているのか。
瞼のこぶの様に膨らむ程度ならば、何時か引っこみも付くだろう。
しかしこの出っ張り具合が【出る釘】となってくると、打つなり抜くなりする方々が増えて来る。
長く【目の上のこぶ】でいるのも何かと大変なのである。
『盲の垣のぞき』
いいのかよと思う方もいるだろう。
完全に差別用語として定着し、公共の場での使用を自粛すべき言葉のトップテンに必ず入っている。
しかしながら、私が言ったのではない。大昔の人が有り難いことわざとして残してしまったから仕方ない。
どんな時でも不謹慎。不本意ながらビビりながら書き進めている。
眼の不自由な方が、覗き見とはいかがなものかといったところである。
気持ちは解らないでも無いが、やろうとしても出来ないのだから諦めた方が無難ですよ。と言いたいのである。
差別が当たり前の江戸時代だからまかり通れたことわざ。
昨今、脳の視覚中枢にカメラからの電気信号を直接流し込む事で、眼球が無くとも物の視覚的確認が出来る補助具の実験に成功している。
今日明日すぐにとはいかないが、このことわざも過去の物に成る日がいずれはやって来るだろう。
随分と昔に、盲の垣のぞきと同じ様な表現をして障害者を笑い飛ばした奴がいた。
【無理だ無理だ、水〇し〇〇の合掌。無理だ無理だ、ス〇ィ○○ー◯◯ダ◯の一目惚れ】恐ろしい程身勝手なブラックジョークで、分からない人は一生分からない方が幸せな話である。
ジョークとはほど遠い表現であるが、笑う人と笑えない人がいるのは事実である。
自分としては当たり前これでいいと思ってやっている行為や表現が、他人様から見ると酷く厭らしく見えたりする事もあるのだと、少しだけ気にかけながら生きて行きたい。
何事にも相対する感情を抱く人がいるのは世の常。何が悪いだの良いだのなんて野暮は言いたくないので、この辺にしておきますか。
『み』
『身から出た錆』
夏場にピザ焼釜の様に暑くなった室内の空気をいくらかき回しても、熱風が体にまとわりつくだけで涼しくはならない。
日陰のひんやりした空気を部屋に送り込むべく、室外に扇風機を設置している。
海の近くは大気に塩分ミネラルが豊富に含まれているので、健康に宜しいように謳っている医学書も、世界中探せばきっと一冊くらいはある。
しかしながら生粋の鉄製品や、ステンレスと言いながらタングステンの配合割合が少なかったり、本当は銀メッキの似非ステンレス製品にとっては、放射能ダダ漏れ空気と同じ位に危険な大気状態である。
いくら綺麗に掃除してからしまっても、二シーズン目の夏には扇風機が首を振る度その身から赤サビをサワサワと零してくれる。
毎年扇風機が置かれる定位置は、今や赤い縁側と呼ばれている。
志半ばにして此の世を去らねばならなかった何台もの扇風機。彼らの念が浸み込んでいるのである。
霊感の強い私がうっかり近付こうものなら、ビリビリと体中が痺れて身動き取れなくなってしまう。
専門家はこのような現象を【漏電】と言っていた。
足元に零れた己が死骸の一部であるサビの粉を見て、扇風機は何を思うのだろう。人間に当てはめれば【垢】の山である。
「私はなんと罪深き者だろうか、いくらこの身を削って人様に尽くしたとて、これまで犯してきた罪はモーターが焼け付くまで許されるものでは無い」と思うに違いない。
あー、キーキーガッ! カッツン、ボキッ、バキッ、ガッガガガー。
「こんな振り首など、錆び折れて落ちてしまえばいい。どれほど楽になれるだろうか」
ガビッ、ボキボキ、ガンガガ、ガーー、ベキバキゲギョ。といった状況を手短に綴ったのである。
貴方も身近な物と語ってみてはどうだろうか。きっと新しい発見と、今まで知らなかった世界との繋がりが出来る筈である。
新しい友達ができても、誰か人間が近くに居る時は決して声を出して会話してはいけない。貴方ならきっと心の会話ができる。
会話の最中、無意識に表情が変わってしまう時がある。できるだけ無表情でいる事を御薦めする。
自分と周りの友達との関係に正直でいたばかりに、とんでもない目にあっている友人を何人も知っている。
そして、かの施設から帰って来た者は未だ一人としていない。
『身うちが古み』
身内の方に、古い物をやっておきなさいよと言いたいらしい。
この場合の古い物は、骨董的価値が有ってはいけない。
ことわざが教えたがっている意味が台無しになってしまうからだ。
人様に贈り物をする時は、親兄弟より親戚、親戚よりも隣近所の知人、知人よりも赤の他人と、縁の遠い人にこそ良い物をあげなさいと教えたがっている。
ここで一つ疑問が出て来る。
縁の遠い人に贈り物をするだろうか?
無縁、真っ赤っ赤の他人に贈り物をする御人好しは、江戸の昔であってもそんなに大勢はいなかった。
ならばこの場合の最も縁の遠い人とは、どの様な関係にある人だろうか。
近所付き合いよりも希薄な御付き合い。
学校の先生だったり医者だったり坊主だったり神主だったり政治家や長のつく人達。
まったく関わりなく生きているのではないが、常日頃の縁は無いに等しい。
いわば天上人の様な人達には、御供え物でもするような感覚で贈り物をするのがよろしかろう。さすれば当たり触りなく一年を無事に過ごせる。
多くを差し出す必要はない。
偉い御方は大勢の下々から貢物が集まってくる。
少量でいいから良質な物を差し上げておけば、目立って喜ばれるものである。後々己の為に成ってくれる。
きっと嬉しい見返りと明るい将来が待っている。と言った感じの、江戸時代から伝承されている貢物に関する言い伝えである。
現代では献金やら寄付、盆暮れの付け届け、あからさまに厭らしい言い方をすれば賄賂とか袖の下の送り方の基本を、幼少の頃から教えていた。
人生において贈り物は、都合よく心地よく生きて行く為の必須アイテムである。上手に使えるに超した事はない。
友達に良い物を贈るより、縁は遠くても自分にとって大切な遠縁の方に良い物を贈りましょう。
これ、基本ですから。
『身は身で通る裸ん坊』
これ、とっても解りにくいね。現代では全くと言っていいほど使われていない。
簡単に言えば【何とかなるさ】
人は皆これ個性によって支配されている。
総てにおいて異なってはいるが、体一つあればどうにか世の中渡って行けるものだよ。といったことわざである。
この言葉の意図する所に真向から反対する気は無い。
時には、こんな言葉に励まされて生き延びるのもいい。
ただ、ひねた解釈をすれば、貴方は貴方で丁度いい具合に世間様とマッチしているのだから、下手にジタバタするんじゃない。といった意味にも取れる。
飛び出るな、余計な事をして顰蹙を買うな。贅沢できなくたっていいじゃないかとか、誰が偉いも有るもんか、死んだら皆骸骨じゃ。なんて風にもとれる。
人生において成長し繁栄していくことを、諦めていると取れなくも無い発言である。
平凡に生きて行けば、きっと良い事が有るのだろうと思えてしまいそうだ。
平凡でいる事は難しい。だからこそ平凡であれと言うのだろうが、無理な物は無理。
貧しくとも、人様より能力が劣っていようとも、人生は何とかなるさ。と言いたいのか。
それで少数弱者を慰めているつもりなのか。
人生山あり谷ありではあるが確かに何とかなるものだ、何とかならなかった人達はとっくに死んでいる。
生き残った人間が何とかなると言っても、信憑性に欠ける。
優れた能力があっても、いくら努力しても必至に媚びうって良い子でいても、何とも成ら無い物は何ともならないのである。
とりあえず、生きて行くだけなら何とかなるかも知れないが、生まれて生きて死んでいくだけの人生は実に味気ない。
少々のむらっ気があってもいのではなかろうか。
そのむらっ気が芸術を生み出し、科学を進歩させ、学問を発展させてきた。
「身は身で通る裸坊主」と、変に自分を可愛がってしまっては、かえって個人の歩みは止まってしまう。
自分の置かれた境遇を素直に受け入れて、謙虚に生きて行く。
不平不満を持たないで、慌てず急がず目立たぬように。
出来ねえ相談だ。
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