第11話 『ね』

『ね』


『念には念をつがへ』


 念というと念力とか怨念・情念・観念・懸念・信念・念仏・粘土・粘着・癒着・きんちゃく・着々とか思い浮かべる。その念がこの念。どの念かは自分で考えろ。

 超能力を念写・念動といった念の力と表現する場合もある。

 心の力「念」は、単にこうなって欲しいと「念じる」だけでは発動しない。その「念」に対してもっと強い「念」をさらに加えてこそ、本来自分の持つ「念」の力の総てが発揮されるのだよ。

 近代は1人で困難な念動を行う時「念には念を入れて」などと、数人が協力しあって念の力を強くする時に使われいる。本来の意味とはちょっと違う。

 何か願い事が有るのなら常に念じ続けなさい、さすれば何時かきっとその念は現実の物となる。これは嘘ダー!

 これ。願っていれば物事が思うようになるなら、この世に戦争も貧困も病気も不幸も無い筈だ。

 あー? 相対する願いが世界中に蔓延していたら、こりゃ叶わんな。

 呪うほどの執念であっても、その呪いで人が死んだって話はねえよ。聞いた事はあるけど、殺人罪にはならない。 

 一番リスクの少ない暗殺だな。

 このコトワザが本当ならば、ブードゥーの呪い屋さんを世界中の諜報機関がとっくに採用してる。

 世の中、強運な者と運に見放された者に大きく分かれる。こんな事を本気で言えるのは前者だろう。

 後者は「運が自分に向きますように」と毎日強く願っている。

 信じる者は救われるってのと同じで、信じて救われた人が言っている。

 しかし、信じても救われない人の方が圧倒的に多いのが現実だ。

 偶然に救われた。

 言い換えれば「奇跡」を信じる信じないは自由だ。

 宝くじに当たるより確立が低いのは確かだと思う。



『寝耳に水』


「お母ちゃん、知らない人が家の庭でブランコしてるよ。首にロープかけて」などと子共に言われた経験は一度や二度なら誰でも有るだろう。

 又かいなと思いながらも、つい慌ててしまう。「寝耳に水」である。

 ある日突然、思いもしなかった事を人様に言われる。この様な事を指して言うのだが、事が重大だと何度言われても驚き隠せず「寝耳に水」の状態になってしまう。

 何故「寝耳に水」なのだろう。

 まったりとしている時、突如として驚嘆に値する情報が飛び込んで来てぶっ飛んでいる様を言うならば「枕元に落雷」とか「見上げたら鯨」とか「起きたら棺桶」でもいい筈である。

 確かに寝ている時、耳に水が入ったら驚くだろうが、それでは聞いている者へのインパクトが弱い。

 もう一ひねりして欲しかった格言である。



『猫に小判』


 猫に小判、どうしても小判を抱いてる「招き猫」を思い浮かべてしまう。

 「招き猫」が出来たのは明治になってから。

 したがって、カルタの「猫に小判」の方が先にあった。

 簡単に意味を言ってしまえば「価値の判らない奴に価値のある物を示しても意味が無い」である。

 現代の小判についても同じ事が言える。

 骨董的価値の判らない人に、その値段は理解出来ない。

 現代の金相場と比較すると、小判の金の純度、重量では小判は異常な高値で取引されている。

 偽金作りは大罪だが、貨幣として認めてられていない小判を一種の美術品と解釈し、レプリカとかフェイク・偽物・まがい物・インチキもどき・似ている奴とはっきり日本語で表示した上で、骨董的価値を上乗せした価格で日本語の読めない観光客に売りつけても、罪に問われる事はない。

 極めてリスクの少ない商売である。

 日本で十万円金貨が作られた時に、使用された金貨一枚あたりの金の時価取引価格は約四万円分だった。

 即、偽金貨が大量に出回ってしまい、銀行は金貨の両替を拒否。

 日本政府は、記念コインでありこの金貨は通貨ではないと発表。

 日本政府が詐欺で訴えられる事は無かった。

 それと同じである。

 外貨を稼いで日本をより豊かにし、困っている発展途上諸外国に投資しましょう。

 きっと世界は平和になる。




『な』


『泣く面を蜂がさす』


「泣きっ面に蜂」で通っている。これ説明要らないだろう。だめ説明しろって?

 災難が重ね重ね起こる事。だーね。よくある、ん、ん、よく有ることだ。

 一年で二回追突された。

「災難は忘れた頃にやって来る」と言うが、そんな事は無い。「災難が忘れる間も無く立て続けにやって来た」状態を言うのである。

 ことわざには必ずと言っていいほど対することわざがある。

 対義語・反対語・反意語・反義語 (統一しろよ)と同じだ。

「泣く子からアメを取り上げる」とは一寸違う。

「泣く子からアメを取り上げる」のは税務署の仕事。

 箱物か宴会に殆どは化けてしまう。

 国民は税金を吸い取られ、最後には吸血鬼から血を吸われたミイラ状態と成って死んでいく。

 あー「踏んだり蹴ったり」そうだった。「踏んだり蹴ったり」と「泣きっ面に蜂」は同じ意味。

「踏んだり蹴ったり」が、ヤクザの取立てマニュアルの一文と思っていた方、それ間違いですから。



『習わぬ経は読めぬ』


 当たり前だ。

「門前の小僧、習わぬ経を読む」てのがあるが、聞き覚えでは読める筈がない。

 聞き覚えた経を唱えているだけである。ほら、違うページめくってるし。

 嘘をつくんじゃない。私は嘘つきは嫌いだ。

「やった事ないもん出来る訳ないじゃん」という意味と受け止めていただいて結構。

 開き直りの為にある様な言葉だ。

 たが、習って無くても出来る事は沢山ある。

 呼吸や睡眠などの生死に関わる基本的な運動。

 スイカ泥棒・公金横領・物資の横流し・原材料の虚偽記載・すけべな事など等と、悪い事の方が多い。すけべは悪くない。方法にもよるがな。

 人間は好奇心の塊である。その好奇心によって進化して来たとも言える。

 良い事は学校や家庭で習っているから、しっかりと判っている。

 ところが、悪い事は習ってないから知りたい、やってみたい人類の本能というか煩悩というか、そんなのがムラムラと目覚めてしまうのである。

 学校でも悪い事として教えてしまえばいい。

 変な好奇心から悪さに手を出して、ズッポリとはまり込んでしまう人が減るのは確実だ。



『なす時の閻魔顔』


なす時とは借金を返済する時。

 借金取りの顔が閻魔さんのように見えると言う事らしいのだが、借金取りが金を返してもらう時には閻魔顔にはならない。

 利息が付いて返ってくるのだから自然と恵比須顔になる。

 借りる側から見れば、借りる時は良い人に見えて、返す時になると嫌な奴に見えるのは当然の心理である。

「なす時の閻魔顔、借りる時の地蔵顔」などとも言う事からして、借りる側から貸し手を見ての表現であるのは明らかだ。銀行のサービスなんてそんなもんだよ。

「銀行は、晴れたる日には傘を貸し、雨降り出せば屋根まで奪い」これ、バブル崩壊の頃盛んに言われていた現実。少々私が作り変えたが。

  銀行があまりにも訳のわからない事を言うようならば、思い切って「破産」してあげるべきである。

 選挙に出馬できなくなるだけで、日常生活には何の支障もない。

 破産の前には、出来るだけの財産を自分以外の人に名義変えする事。これ破産の常識。

 とに角銀行という企業。人の財産は簡単に整理するのに、イザ自分の銀行が危ういとなると政府から資金援助してもらったり、弱い中小企業や町工場から資金を引き揚げてしまったり、やりたい放題やってきた。

 銀行といっても行き着く所は「金貸し」

 利息の高低はあるものの、やってる事はヤクザの闇金とタイシテ変わらないのである。

 強いて銀行と闇金の違いを挙げるとすれば「取立ての口調が穏やかな事」「サービスでポケットティシュをくれる事」

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