第10話 『そ』

『そ』


『総領の甚六』


「総領」とは、その家の財産の総てを相続する権利を持った者。当時では一家の総代、親分、一番偉い人の事である。

 現代では死にそうな爺さんと結婚したピチピチギャルも含まれる。

 六番目にしてやっと男の子が産まれたのなら、この六とつく名前も納得だが、なんで甚六なのかは不明だ。無理矢理のゴロ合わせのようである。

 まったりぬっくり育てられたダーホなノロマ野朗。甚六は愚鈍な男を指す俗称という説がある。与太郎みたいなものだ。

 将来が安定していて保証されている者は、その上にドッカとアグラをかいてしまい、ろくな者に成らないといっている。

 江戸時代の産業といえば、農業が主体。田畑を分割して相続するような奴を「タワケ者」と言った。

「愚か者」という表現がある。「愚か者」も、この「総領の甚六」に関係あり。

「御六下者」=「おろくかもの」御総領の甚六の下、甚六よりも劣る者として、最低最悪の人を指して言うようになった。

 一子相伝の時代にあってはロクデナシでも、愚か者と一緒に安心してゴクツブシができた。

 次男、三男、女子はたまったものではない。

 財産、特に土地、農地や水に関しては争いが昔から絶えなかった。



『袖の振り合わせも他生の縁』


「袖すり合うも他生の縁」とか「袖すり合うも多生の縁」または「袖すり合うも多少の縁」なんたりしている。

 多生ならば何度も人生を繰り替えしてきた間には、きっと何処かで何かの縁があったかもねとなる。井上陽水に教えてやりたい。

 他生になると、生まれる前に何処かで会った事ないかなー。みたいな感じの表現となる。そんなわけないだろ。 

 間違いとされている多少は、国語の試験問題に良く取り上げらているが、しっかりバッテンが付けられる。

 私個人としては、これが一番現代では通用すると思うのだが。最も現実的で解りやすい表記である。早く辞書改訂しろよ。

 どれをとってしても、無茶苦茶なナンパの理由である。「彼女お茶しない」よりも無理が有るが、江戸時代はこれでも通用した。

 江戸時代はこれといって他に娯楽が少なかったし、遊郭といった超風俗が公式に認められていた事もあって、出会い系は現代よりも乱れまくっていたのである。

 大奥しかり、公家しかり、一般庶民から、猫やシャクシにいたるまで、行き当たりばったりで出会い茶屋なんて事も良くあった。

 これらは身分が違ったり既婚者による不倫だったりすると「不義密通」という重罪。死刑か軽くても遠島は確実。

 刑罰が重ければ重いほど破ってしまうのが人の常。

 いつの世も人の性という物は厄介な物だ。



『袖の振り合わせも他生の縁』


 大阪と同じだが意味がちがう。

 江戸時代の都市部道路は、人が歩くために作られた道馬や荷馬車といった物は特別だった。

 歩道を大型トラックが通る様なものだったんだな。

 ところが、江戸時代以前から計画的に整備された京都。

 都市計画がしっかりしていて道路事情は少しばかり違っていた。

 牛車がすれ違える程の道幅が必要だった。

 中国の古代都市にならい、碁盤の目の様に規則正しく整備された道路網では袖のすり合わせようが無い。

 無理が有ってもヨレヨレと近づき、袖を振り合わせ親しくなる。強引だ。

 こんな事したらスリと言われても仕方ない。実際にこんなスリもいた。

 適当な所に出会い茶屋が有って。結果は同じだ。

 江戸時代でも、やる事はやっていた。

 こちらは主に女性が男性をひっかけた。後から請求書が回ってくる仕組み。もてたと思うな。

 江戸ではヨタカといって非合法の売春。ゴザを抱えて露天での商売だった。

 京都では白拍子。非合法の売春と言えるのか違うのかとっても微妙な人達。

 そんな方々のお誘いの言葉として多用されていた。




『つ』


『月夜に釜を抜く』


 ヤクザの脅し文句に「月夜の晩ばかりじゃねえんだよ」てのが有る。

 江戸時代、ロウソクか行燈の明かりしか無かった夜に、月の明かりはとても明るい物だった。

 今の様に、電灯の明るさに慣れてしまった現代人には考えられない事である。

 当家では近所に街灯が無いので、月夜の明かりで散歩ができるのは知っていた。満月は頗る明るい。

 昔で言えば、そんな明るい晩に台所の釜のように大きな物を盗まれるとは、凄まじく間抜けな事だ。緊張感が欠如していると言っている。

 現代にあっては街灯の点いている公園から、ステンレス製のガードパイプが忽然と消え去るなんてのは当たり前。 

 メッちゃんこ明るいコンビニの、キャッシュディスペンサーを盗む奴までいる。

 盗まれる者の緊張感欠如とか間抜けなどと言ってられる時代ではない。

 昼間の引ったくり・車上荒らし・ブログ荒らしなんてのは子共でもやる。

 セイゼイ通り魔に出くわして、命まで持っていかれない様に用心しなさいな。

 長生き出来ない世の中になったものだ。

 安全な日本は何処へ行ってしまったんだ。



『月夜に釜を抜く』


 江戸と同じだね。こちらは泥棒の側での格言。

 どんな言葉にも裏表がある。

 ことわざにも、解釈の違いがこの時代からあったんだよ。

 明るいから目当てのものを見極めやすい、相手も油断している。盗人の血が騒ぐといった意味だ。

 洋の東西を問わず満月というと、悪人・悪霊・悪魔・妖怪・バンパイア・ゾンビと怖いオカルト・ホラー系の生物は活気付くようである。

 満月の人間の異常心理は生物の本能である。

 その本能と人間としての理性の戦いの結果。満月の狼男。実に様になっている。

 実際の所、満月の「送り狼男」とした方が良いかもしれない。

 性犯罪の多発する日は満月の日。これは遺伝子に有る情報によって、満月に生殖活動をしなさいという指令が出されているからである。

 月の夜に挑発的な衣装で歩いていた時に襲われても、挑発的な格好をしている事にも問題が有ったと言われかねない。

 人間と言えどもショセンはただの哺乳類。生殖による子孫の繁殖の為に生かされている生物なのだ。

 本能を抑えきれない畜生に、法律がどうだのこうだのと人間扱いして押さえ込もうとするのは無理って事。

 くれぐれも満月にはご用心。



『爪に火をともす』


 油やろうそくの代わりに爪を燃やして明かりにする。極めて危険な行為である。大道芸でもやる奴はいないだろう、熱いもの火傷しちゃうし。

 人体自然発火現象なる現象がある。何の火の気も無いのに突然として人体が発火する。

 ジワジワと燻りながら、人間の脂身が燃えていく。

 そんな現象を、江戸時代の人々が知っていたとは思えない。

 明かりのロウソクやアンドンの油を節約して、爪に火を燈すような「思い」で蓄える。究極の節約術を格言にしたものがこれ。

 暗くなったら寝ちまえよ。

 実際に爪に火を点すのは、その手の趣味の有る人か与太郎、甚六くらいのものであった。

 京都と言う町。江戸時代に、それ以前からも都として観かけはキラビヤカな街だったが、実際台所事情はというと火の大車輪。

 そんなこんなでこの格言、カルタになった様である。

 こんな気持ちでエネルギー節約をすれば、CO2問題も少しは解決の方向に向かう。

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