023 渡鴉と薔薇
――昔々、この地がレイヴンローズと呼ばれるより遥か以前のこと。
そこは痩せた大地と荒れ狂う天災に苛まれ、人々は飢えと争いに明け暮れる荒野であった。
陽は容赦なく作物を焼き、嵐は残された命をも容赦なく薙ぎ払った。夜ごと焚き火を囲んでは「明日を生きられるか」と怯えながら眠りにつく――それが人々の営みであった。
その中に、ただ一人、未来を諦めなかった青年がいた。
彼は荒れ果てた故郷を救いたいと、朝に夕に祈りを捧げた。大地を潤し、民を飢えから解き放つ奇跡を、恵みの神へと求め続けたのだ。
だが、神の声は容易には届かない。祈りは幾度も虚空に吸い込まれ、青年の心は次第に疲弊していった。
そんな折、道端で彼は一羽の渡鴉と出会う。
翼を裂かれ、血に染まったその鳥は、もがきながらも飛べず、冷たい土に打ち伏していた。
青年はためらうことなくその鳥を抱き上げ、わずかな食糧と温もりを分け与え、必死に看病した。
初めは鋭い眼で彼を威嚇していた渡鴉も、やがて青年の献身に心を溶かし、傍を離れぬようになった。
季節が巡り、渡鴉の傷は癒えた。
ある日、夕陽に染まる空へ羽ばたき去るその姿を見て、青年は胸に寂しさと誇らしさを同時に覚えた。
――だが、それで終わりではなかった。
再び渡鴉が戻ってきたのは、月明かりが大地を照らす夜。
その嘴には、血のように深紅の薔薇が咥えられていた。花弁はまるで燃える命の象徴のように揺らめき、仄かに光を放っていた。
青年はその薔薇を手に取り、彼らが出会った場所に植えた。
すると奇跡が起こった。
その日を境に、空は青を取り戻し、大地は再び息を吹き返した。
長きにわたり人々を苦しめていた嵐も、干ばつも、その日を境に止んだ。
荒れた大地には若葉が芽吹き、花々が咲き誇り、豊穣の波が押し寄せた。民は飢えを知らなくなり、爛れた土地は楽園のごとく生まれ変わった。
それは人々が待ち望んだ始まりの時であった。
青年は人々に讃えられ、この地の長となった。
だが、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
渡鴉は青年の問いに応えるように、その身を変えた。
漆黒の羽は夜空を解き放つように散り、月明かりを浴びて艶やかな黒髪となり、鋭い嘴は花弁のようにほどけ、清らかな唇となる。――そこに立っていたのは、濡羽色の髪を持つ美しい女性であった。
彼女は語った。
自らが恵みの神に仕える者であったこと。
人間の暮らしを見守る役割を担っていたが、無垢なる献身に救われ、恩返しを望んだこと。
神に願い出て、命を司る赤薔薇を与えられる代わりに、天の座を退き、この地に留まることを選んだこと――。
青年はその想いを受け入れ、彼女を抱きしめた。
やがて二人は結ばれ、その血脈と共に、この地は長き繁栄を享受することとなる。
人々は讃え、その名を記した。
――
それが、この地を「レイヴンローズ」と呼ぶ所以である。
ミアの声が止むと、店の奥を満たしていた薬草の香が、ひと呼吸ぶんだけ濃くなった。壁の棚に並ぶ瓶の底で、琥珀色の液がぽうっと灯のように脈打つ。まるで語られた昔話に呼応して、古の気配が目を覚ましたかのように。
「人はそれを〈始まりの薔薇〉と呼び、花弁から滴る雫が“命の水脈”を大地に走らせたと言い伝えるわ」
ミアが指で卓を軽く叩くと、木目の筋が一筋、蔦の文様に見えて揺らいだ。錯覚――だが、レオンは思わず息を呑む。
「けれどね、レオンくん。奇跡にはいつも“影”が寄り添うの」
静かな声が続く。
「恵みは血を媒介に巡り、血はやがて“心臓”に宿る。守りの加護は強く、同時に強すぎる光は、闇までも呼び寄せる」
ラウラが小さく身じろぎし、レオンは無意識に胸の前で拳を握った。
棚の高い位置に掛けられた乾燥薔薇が、風もないのにさや、と鳴る。
「だからこそ、人々は二つ名を添えたの。渡鴉の導き、薔薇の命――“護る者”と“狙われる者”。」
ミアはそこで言葉を切り、穏やかな微笑みに戻る。
「伝承はここまで。あとは、今を生きるわたしたちがどう選ぶか、よ」
薬膳茶の湯気が細く立ち上り、天井の梁へ透明な糸を引く。
レオンの鼓動は、瓶の底でまたたく微かな光と同じ拍で刻まれていた。
――渡鴉と薔薇。恵みと代償。護る者と狙われる者。
どれも、今の自分の知らないところで、既に動き出している気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます