008 邂逅⑧/情報屋

 エヴァルトは早朝、街外れにある小さな橋の上にいた。

 小川のせせらぎが耳に心地良く、川の水面は朝日を浴びてきらきらと輝いている。

 年齢を重ねるとこのようなごく自然な風景に何時間も目を奪われてしまうから怖い。

  

「待たせたな、エヴァルトの旦那」

 エヴァルトは声のした方へ振り向く。

 そこにいたのはくたびれたローブを身に纏い、血色の悪い肌と目元に酷いクマを作った二十代半ばの男だった。

 

 背は高いがやや猫背で不健康さが表に出てしまっている。きちんと食事を摂り、姿勢を正して身なりを整えれば、街娘が放っておかないほどの端正な顔立ちをしているだけに残念な男だ。


「おはようございます、バンさん。この場所での待ち合わせに応じていただき感謝いたします」

「いいってことよ。旦那の頼みなら俺はどんな魔境にだって足を運ぶぜ」

 そう言って、くたびれたローブの男、バンは軽く手を振る。


「モーニングコーヒーでもいかがですかと言いたいところですが、その前に」

 エヴァルトは人差し指で空中に円を描くように軽く指を動かし、こう唱えた。


「【円環エアル】」

 瞬間、エヴァルトを中心に薄い円が広がっていく。やがて、その円はエヴァルトとバンを取り込み、二人がいる橋を丸々覆った。


「出たな、旦那の十八番おはこ魔術【円環エアル】。あんたが最強と云われる所以」


「お褒めいただき恐縮です。ご覧の通り、この魔術で使い魔による盗聴、襲撃を未然に防がせていただきました。念には念をというやつです」


 エヴァルトは真っ直ぐにバンの目を見る。

「情報屋である貴方に頼みたいことがありまして、このひと気のない早朝の橋の元へと足を運んでいただいたのですが」


「ああ、皆まで言わなくても分かる。昨日の魔物の襲撃の件だろ」

「話が早くて助かります」


「それにしても昨日のはやけに激しく暴れてたな。街のど真ん中に数体のガーゴイル、そしてキマイラときた。世も末だな。だけど、全部旦那がぶっ殺したんじゃないのか? 俺は遠くで見てたぜ」


「ええ、目に見えるだけの魔物は私が排除いたしました」

「じゃあ万事解決! とは流石にならねえか……」


「はい、問題はどうやってこの街の真ん中に突如として、数体の魔物が現れたのかというところにあります」


「それはほら、西の空からヒラヒラと飛んで来たんじゃねえのか、キマイラの場合は走ってきたとか」


「いいえ、昨日の事件の目撃者の話は既に聞いています。夕暮れ時、突然の爆発音とともに魔物が街を蹂躙し出したのだと」


「なるほどね。つまりあんたはこう言いたいわけだ。この街に魔物を召喚したイカれた野郎がいるって」


 エヴァルトは静かにバンを見ている。その視線に気付いたバンは両手を前に出して振ってみせた。


「いや犯人は俺じゃねーよ!? 確かに俺は魔物を呼び出す召喚術は職業柄心得ていて性根が腐っているが、わざわざ旦那の敵になるようなことをするなんて愚行をするくらいまで脳みそは腐っちゃいねえよ!」


「誰も貴方を疑っているとは言っていませんが、その反応は怪しいですね。容疑者リストに加えておきます」


「勘弁してくれよ、旦那〜。あんたに目を光らせてもらっちゃ俺の仕事に支障をきたしちまうよ。ただでさえ今月は仕事少なくて、娼婦も抱けねえってのに」


 バンは項垂れた。そんな彼の様子を見て、エヴァルトは軽く咳払いする。

「そんな貴方に朗報です。今回の事件の真相に結び付くような情報を集めて下さい。そうすれば、貴方の容疑は晴れ、レイヴンローズ家に恩を売ることができ、多額の報酬金を得ることができる。どうです、素晴らしい提案ではないですか」


 バンははあ、とため息をついた。彼は橋の手すりに背中を預け、軽く空を仰ぎ見る。魔術による結界越しに見る空は雲ひとつとない。


「ああ、悪い天気だ。これは先行きが危ないな」

「それで情報屋バンさん、私の――いえ、レイヴンローズ家の依頼を受ける気にはなりましたか?」


「まあ、この街でこれからも情報屋として銭稼ぎをするためだ。これくらいの危ないヤマは越えていかないとな、だけどよ、エヴァルトの旦那」


 バンはそこで言葉を区切り、エヴァルトの方へと視線を戻した。

「多分というかほぼ確実に、連中の狙いはレイヴンローズ家のエリザベート嬢だぜ」


 エヴァルトは沈黙した。やはりそうかとエヴァルトは心の中で呟く。

 小川のせせらぎの音だけが数秒の間、二人の耳朶を優しく刺激していた。

 初めに口火を切ったのはバンだった。


「そろそろ旦那もボケが始まってくる歳かもしれないから確認だけしとくぜ。レイヴンローズ家の血を引く者は呪われている。旦那の大切なエリザベート嬢も」


 エリザベート・フォン・レイヴンローズ。エヴァルトが敬愛し、執事として仕えることを決意した雪のように白い肌と艶やかな黒髪を持つ赤い瞳をした少女。


「レイヴンローズの心臓。そしてそこから流れるレイヴンローズの生き血。煎じて飲めばあらゆる病を治し、老いすらも克服させる。そして魔物が飲めばその力を強大なものにすることができる。闇市じゃあ、頭をハッピーにさせるおクスリの何十倍もの価値がある」


「ええ、解っています。これまで何度もお嬢様のその高貴な柔肌に触れようとしてきた輩を全員叩き潰してきましたから」


「うお、怖ぇえ〜」

 バンは飄々とおどけて見せる。


「私のやることは今も昔も変わりません。レイヴンローズ家に仕え、エリザベート様の御身を命がけで守ることです」


「やっぱ旦那好きだわ、カッケエよ。生き様とかその姿勢とか。てなわけでまた来週!」


 バンはエヴァルトから逃げるようにして走り出す。

「フンがっ!?」

 そして全速力で走り出した勢いのまま【円環エアル】の結界に激突し、顔を強打したのであった。


「その若さでもうボケてしまわれたのですか、バンさん。はじめに【円環エアル】でこの橋ごと覆ったのをもうお忘れですか」


「……初めから選択肢はないってことかい、旦那」

 顔を抑えながらバンはうめいている。


「失礼なことを仰らないで下さい。選択肢ならあります。ここで私の依頼を受けて大金を手に入れるか、受けずに今まで通り生きるか。まあそれを選んだ際は今まで私が目を瞑ってきた貴方の秘密情報をこの国に暴露することになりますが」


「鬼かよ、あんた」

「執事です」

「はいはい」


 バンは降参したように手を振る。

「今回の依頼は昨日発生した魔物災害の原因の究明、もしくはそれにつながる情報の収集だな……やっぱやめてーよーこんな依頼ー! こんなの貧乏くじじゃねーか! 危険すぎるだろ、敵が何人いるかわからねえのにこんな貧弱な俺がかなうわけねーだろー! 俺は死ぬのはいいが、痛いのは勘弁なんだかんなー!」


 わーわー喚きだしたバンの様子を見て、エヴァルトはやれやれと懐から一枚の金貨を取り出す。

 コインの表にはこの国の象徴たる建国の女王の横顔が彫られている。


「貧乏くじかどうかはこのコインに決めてもらいましょう」


 エヴァルトはコインを親指で弾く。

 コインは空中で何回も回転し、エヴァルトの手の甲の上で止まる。それをバンに見えないように手で隠す。


「表と裏どちらですか」


「……表」


 エヴァルトは手の中のコインを見る。コインの表面に女王の姿はない。


「裏のようですね」

「いや見れば分かるわ! やっぱ貧乏くじじゃねえかー!」

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