アッシュ・イン・ザ・スタンプ

今福シノ

第1章 ネルデ王国、あるいはプロローグ

1.

 車輪が石を噛んだせいだろう、馬車の荷台は大きく揺れた。その拍子にヴィルは目を覚ました。


 ガタガタと不規則な揺れはその後も続く。意識を強制的に揺り起こすように。しかしヴィルが完全に覚醒してからも揺れは一向に収まる気配はない。整備された道路を過ぎて、荒れた道に入った合図だ。


 白い布でできた幌に覆われた荷台の中にはヴィル以外に人の姿はなく、あるのはたくさんの荷物だけ。当然だ、この馬車は物資を運ぶために走っているのだから。

 ゆえに馬車の中はヴィルの方が異物と呼ぶべき存在だった。身長よりもよりも高く積まれた荷物たちからは、揺れにあわせて軋む音が聞こえる。まるでよそものであるヴィルに対して威嚇しているみたいに。


 決して乗り心地がいいとはいえない空間。だが慣れたものだった。ヴィルの仕事上、こうして間借りするような形で移動するのは珍しくなかった。


 もう夕暮れ時、か。


 幌の隙間から差し込んでくるオレンジ色の直線を見て思う。朝に街を出て半日ほど経過しているが、疲労感はほとんどない。いつもこんな風に誰かに乗せてもらえれば移動が楽なんだがな。考えながらヴィルは濃紺の手袋をはめた手で、肩がずれてしまっていた軍用ジャケットをなおす。これもまた濃紺の色。オーバーサイズなので口元がすっぽりと隠れた。


 今度は幌の端が漂うようにめくれる。ゆったりとした風が入り込んできて、首元まで伸びたアッシュグレーの髪をなでる。荷台は埃と火薬の匂いで息苦しかったのでヴィルはこれ幸いにとめいっぱい吸い込んだ。新鮮な空気が肺を満たしていく。


「……!」


 しかし直後、風の中にさっきまでなかった違和感が混ざった。その正体を、ヴィルはすぐさま看破する。


 何かが焼ける匂いと、それから灰の匂い。


「おうい、そろそろ到着だよ」


 同時に、分厚い布の向こう側から男の声が届いた。馬車を運転する御者のものだ。外が見えないヴィルのために報せてくれたのだろう。


「ああ、そうだな」


 だが、彼の声を聞かずともヴィルは判っていた。荒れた道。灰の匂い。それらは誰の言葉よりも、他の何よりも目的地が近づいていることを教えてくれているのだ。


 目的地――戦地への到着を。


「……さて、やるか」


 小さく、荷台の床にぽとりと落とすようにヴィルは言う。その言葉は誰に聞こえることもなく、車輪と地面がぶつかる音にぶつかって弾けた。



 ◇



 それから十五分と経たないうちに馬車は停止した。上下左右の揺れもようやく収まった。


「さ、着いたよ兄ちゃん」


 ヴィルがその場に立ち上がると、幌がめくられて御者の中年男性顔がひょっこりとのぞきこんでくる。


「つかまるかい?」

「いや、大丈夫だ」


 返事をしながら荷台から軽やかに飛び降りる。硬いはずの地面はどこか柔らかさをヴィルの足裏に伝えてきた。ここに来る道中で嗅いだ匂いの元――灰が地面に降り、薄い膜を張っているからだった。


「それより悪いな、ここまで運んでもらって」


 懐から銀貨を一枚取り出す。そのまま流れるようにそれを御者に握らせた。運賃代わりのチップとして。途端に彼の声は弾んだ。


「なあに、いいってことよ。礼ならこいつらに言ってくれ」


 荷台の前にいた二頭の馬をぽんぽんとたたく。朝からほぼノンストップで走り続けていたというのに疲労感はまったくなく、どちらも精悍な顔つきだった。ヴィルが感謝の意を込めて撫でると、目を細めてうれしそうに身体を小さく震わせる。


「それにワシも兄ちゃんも同業、助け合っていかんとな」

「……そうだな」


 同じ……ね。

 ヴィルは唯一の荷物、肩から下げた大きめの鞄を一瞥する。そこに運ぶべきもののすべてが詰まっている。いや、これから詰まるのだ。


「しっかし兄ちゃんも大変だなあ。俺の輸送便がなかったら歩いてここまで来るつもりだったんだろう? 自分用の馬や馬車を持ったりはしないのかい?」

「持っている奴もいなくはないが、俺は別にいいかな。その方が身軽だし」

「はっはっは。まあ兄ちゃんはまだ若いしな。それに女ならともかく、男なら歩き旅でも問題ねえか」

「そうだな」


 口ぶりに呼び方からして、御者はどうやらヴィルのことを男だと思っているらしい。だが、ヴィルは訂正することなく相槌を打つ。無理もない。オーバーサイズの軍用コートで身体のラインと口もとは隠れているし、出るところが出ているような体型でもない。

 別に構わなかった。職業柄、自分が女だと明かすことでメリットがあるわけでもない。


「それにしても、なんだな」


 と、御者はぐるり、と周囲を見ながら、表情を辛気臭いそれに変えた。


「戦場の雰囲気っていうのは慣れないもんだよ」


 ヴィルたちが到着したのは、戦場において前線の拠点となる駐屯地だった。馬車の周囲にはいくつもテントがあり、その近くを男たちが慌しく走り回っている。そのどれもがカーキ色だった。軍隊の色だ。灰の匂いも、ここに来る途中よりずっと濃い。

 張りつめた緊張感と、喜怒哀楽をまとめて鍋にぶち込んで火にかけているような、そんな空気が充満していた。目で、耳で、鼻で、そして肌で。ここが戦地であることが伝わってくる。


「帝国との戦争も長いからな、どいつもこいつも疲れた顔してるぜ」


 御者の言う通り、行き交う兵士たちはやつれた雰囲気を放っている。これもまた戦地特有のもの。とりわけここは前線基地にあたる。のしかかるプレッシャーは想像以上に重いに違いない。

 きっと彼らは家や故郷に帰る余裕もなく、ここにで任務にあたり続けている。

 だからこそ、ヴィルが呼ばれたのだろう。


「おっと。それじゃあ、ワシは積荷の引き渡しをせにゃならんのでな。また明日の朝にな」

「ああ」


 御者はそう言い残すと、近くにいた兵士に声をかけて話し始める。

 と同時、


「あなたがフェンローグのお方ですかな」


 そんな言葉が聞こえ、長身の男が悠々とヴィルのもとへと歩いてきた。

 他の兵士たちと同じ軍服姿だったが、違いは一目瞭然だった。まず背筋がぴんと棒でも入っているかのように伸びている。胸につけられた階級を示すワッペンを見なくとも、彼がここで立場ある人間だということは容易に察しがついた。


「そうだが……あんたがここの責任者か?」

「ええ。私はここ、ネルデ王国第八駐屯地の指揮を任されている少尉のモルドーです」


 モルドー、と名乗った男が答える。責任者、つまりはこの場所でヴィルの仕事相手にあたる人物だ。ヴィルは向き直ると、紺色のマリンキャップをはずして自己紹介をする。


「俺はヴィル。一級郵便官のフェンローグだ。ネルデ王国軍の本部から依頼を受けて来た」

「やはりそうでしたか」

「よろしく頼む、モルドー少尉。……なにか?」


 早速仕事の話を、と切り出そうとしたところでモルドーの視線がヴィルの身体のあちこちに向けられていることに気がついた。

 いや違う、まるで何かを探しているような。


「……その、失礼ですが、証を見せていただいてもよろしいですかな?」


 モルドーの言葉が違和感の正体について答え合わせをする。そこにあるのは警戒心だった。間違いなくヴィルに向けられたものだ。

 それもそうか、ここは戦場だもんな。


 自軍以外のあらゆるものは異物で、どんなに小さくても戦況を揺るがす危険因子になりかねない。ゆえにまずは疑い、敵だと思うのが鉄則。それがたとえ自分たちが依頼して呼んだ相手だとしても。

 だが、こういった眼差しにもヴィルは慣れていた。なのでたじろぐことも狼狽えることもなく、流れるように答える。


「いや、悪い。先に見せるべきだったな」


 そう言って左手の手袋を外し、小指にはめてある金色の指輪をモルドーの前に掲げてみせた。


「これが証だ」


 指輪の一部――指の甲にあたる部分には大きな台座がありには、翼を広げた鳥の紋様が刻まれている。シグネットリングと呼ばれる指輪。

 それがヴィルたちフェンローグという職業を示すものだった。


 モルドーはじっと紋様をのぞき込み目を細める。やがて大きく頷いて、元の直立不動の状態へと戻ると、敬礼をしてきた。同時に、さっきまであった警戒心が消える。


「確認いたしました。間違いなくフェンローグだけが持つという指輪ですな。無礼をお許しください、ヴィル殿」

「いや、かまわない。モルドー少尉は軍として当然の対応をしただけだからな」

「そう言っていただき感謝します」


 モルドーは小さく笑を浮かべると、手を差し出してくる。


「あなたの、フェンローグの到着を、心待ちにしておりました」


 ヴィルは手袋をはめなおすと、握り返す。


「ようこそ第八駐屯地へ。あらためて、よろしくお願いします」

「ああ」


 いつしか辺りはオレンジから紫へと変わりつつあった。ようやくこの戦地での、ヴィルの仕事が始まる。


「我が軍の兵士たちの手紙を、どうかお運びください」

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