第15話。伊織と姉貴

「……」


 真っ暗な部屋。体を起こすと、足でゴミの入った袋を蹴ってしまった。ソファーに座り直して、体の疲労を少しづつ受け入れる。


「今日……休みか……」


 意識がはっきりとしたところで、自分が曜日を勘違いして目を覚ましたことがわかった。毎日、ただひたすら働く日々を過ごし、考え方が以前のように戻り始めていた。


 もう一度眠ろうと、体を横に倒そうとするが玄関の呼び鈴が鳴った。無視することも考えたが、こんな朝から家を訪れる人間に心当たりはあった。


 重たい体を動かして、玄関まで向かった。


 扉の鍵を外して、外を確認する。


伊織いおりちゃん。おはよう」


「姉貴……」


 そこに立っていたのは、いつも電話で連絡を取り合っていた姉貴だった。相変わらず、化粧のおかけでだいぶ歳上に見えるが、本人も大人に見られたいと言っていた。


「チェーン。外してくれるかしら?」


 一度、扉を閉めてチェーンを外してから開けた。


「上がらせてもらうわ」


「今散らかってる」


「片付いてることなんてあるの?」


 部屋の中に入った姉貴は足を止めた。ゴミの山で足の踏み場が無かったせいか。それとも他に理由があったからか。


「伊織ちゃん。こんな生活してたら死ぬわよ」


「そんなおおげさな……」


「あの辺とか」


 姉貴の指さした先。そこにはいったいいつから放置されていのか。虫のたかっている袋があった。あらためて呼吸をすれば、部屋は鼻を刺激する異臭で満たされていた。


 こんな部屋で生活していたことすら気づけなかった。瑠夏るかが家を出て行ってから、自分一人では何をする気にはならず、以前よりも酷い生活を送っていたようだ。


「……姉貴には関係ないだろ」


「関係ある。伊織ちゃんに倒れられたら困るのよ」


「仕事はちゃんとやる。それに部屋がダメだって言うなら、どこかホテルでも借りて……」


 次の瞬間、姉貴が体に抱きついてきた。


「私は伊織ちゃんの体ことを心配してるの」


「姉貴……」


 昔、自分が泣いている時は姉貴が心配して抱きしめてくれた、でも、それも子供の頃の話で、今の自分は涙一つ流すことが出来なかった。


「ところで、姉貴はなんで来たんだ?」


 姉貴の体を突き放して、少し距離を置いた。


「瑠夏ちゃんから連絡来たから」


 そういえば瑠夏はうちに来る前に姉貴と連絡を取りあっていたのか。姉貴は誰とでも連絡先を交換するし、瑠夏が姉貴の連絡先を知っていたことに驚きはなかった。


「お世話になりました。だってさ、私、何もしてないのに」


「瑠夏のこと。全部知ってるのか?」


「私が瑠夏ちゃんと最後に会ったのは去年よ。その時にはまだ髪が長かったわ」


 姉貴は仕事の関係上、人付き合いを大切にしてるらしいが。姉貴が瑠夏と会っていたことは知らなかった。


「姉貴は瑠夏の両親と話をしたんだろ?」


「正確には母親の方だけかしら。本当は二人と話し合いをするつもりだったのに、父親の方とは話が出来なかった」


 父親と瑠夏の関係を考えれば仕方ないことか。


「ただ気になることがあるのよ」


「気になること?」


「私、これでも仕事で忙しいの。なのに、わざわざどうして、伊織ちゃんの家に来たと思う?」


「暇だからだろ」


 姉貴の口元が少しだけ笑ったように見えた。


「瑠夏ちゃんの家庭で起きてる問題は簡単には解決出来ない。その理由は父親の過保護によるものが大きいのよ」


「別に過保護がおかしいなことではないだろ」


「いいえ。実は瑠夏ちゃんを伊織ちゃんに預ける話をした時、あっさり許可が貰えた。って言えば伊織ちゃんは悩むかしら?」


 過保護なのに他人に子供を預けたのか。


 確かに姉貴が疑問を持つ理由はわかった。しかし、姉貴ならその辺も調べてあげてそうなのは、探偵だからってだけではなく。本人の性格もあるからだ。


「そうやって答えだけを隠すのは相変わらずだな」


「情報はお金になるのよ。身内だからと言って簡単に情報を渡したら、私の懐が寂しくもなるわ」


「一応、聞くがいくら払えばいい?」


「二百万でいいわよ」


 その情報にそれだけの価値は無い。だが、必要とする人間からすれば、大金を払ってでも手に入れたい情報というのは存在する。


「俺は瑠夏の為に自分の金を使う気にはなれない」


「なら、その程度の興味ということね」


 今まで姉貴の情報を買ったことは何度もある。


 しかし、それは個人的な欲を満たすものではなく、自分の進むべき道が本当に安全か確かめる為のもの。凡人以上、超能力未満、それが姉貴の才が及ぶ範囲でもあり、万能というわけではなかった。


「まさか、買うかもわからない情報を弟に売りつける為だけに来たのか?」


「そんなわけないでしょ」


 姉貴はゴミ袋に向かってスプレーを噴射していた。その程度では、あまり効果はないだろう。


「瑠夏ちゃんにお願いされたことがあるの。時々でいいから様子を見に行ってほしいって。切実に頼まれたのよ」


「金でも貰ったのか?」


「私だって、人間の血が流れてるのよ。弟が心配になって、家に足を運ぶことがそんなに悪いことかしら?」


 そう口にする姉貴は瑠夏に頼まれなければ来なかったはずだ。瑠夏が姉貴を動かせるような金を払ったとは思えないし、姉貴は身内よりも瑠夏に対しての方が対応が甘いのか。


「家族ごっこは金にならないぞ」


「伊織ちゃんは私を守銭奴とでも思ってるのかしら?」


「人は裏切るが金は裏切らない。それは姉貴がよく口にする言葉だろ。人よりも金を信頼する人間の中でも姉貴は特にソレに近いだろうな」


 しかし、姉貴の人格だけを語るなら、おそらく自分は他の人間を姉としては選ばない。目の前にいる人間一人だけが、自分の姉として認められる。


「それは私達の父親の言葉よ。多くの人間に裏切られ、多くの財産を私達に残してくれた人間の言葉。私がもっとも信頼している人間でもあるわ」


「……なら、姉貴は金と家族ならどっちを選ぶ?」


 それは瑠夏が自由と家族、どちらかを選んだことと少しだけ似ている気がする。姉貴にはその答えを求めてしまった。


「お金よ」


「つまり、金の為なら家族を捨てられるのか?」


「ええ。私はお金の為なら家族だって手放しても構わないと思ってるわ」


 やはり、姉貴は相変わらず自分の意志を変えない。


「でも、それは最終手段よ。他人の犠牲で積み上げれたお金を目にしたら、きっと私は喜びよりも虚しさを感じてしまうわ」


「結局は自分の為ってわけか」


「人間なんてそんなものでしょ。今を生きてる人間は最高のエンディングを迎える為に日々努力しなければいけないのよ。それにエンドロールに流れる名前が自分一人だけだなんて悲しいでしょ」


 姉貴は人生を映画として例えている。自分を映画の登場人物として扱い、それに相応しい人間を演じている。


「俺は姉貴のように上手く自分を騙せない」


「伊織ちゃんは難しく考えすぎなのよ」


 姉貴が肩に手を置いてきた。


「自分の心に正直になりなさい」


「それが正しくなくてもか?」


「自分の納得出来ないことが、伊織ちゃんは正しいことだと思うのかしら。世の中を基準にしているのなら、自分の方がズレるのは当たり前でしょ」


 世の中からズレた人間は排除される。だからこそ人は理性を持って、人間らしく生きている。それが間違っているとでも言うのか。


「さあ。伊織ちゃん、願いを口にするのよ」


 姉貴の言葉が脳に染み付くような感覚があった。


「恐れることはないわ。ここには私と伊織ちゃんの二人しかいない。言葉一つで世界は変わったりしないのよ」


 昔から姉貴はそういうやり方をする。相手の情報を聞き出すのが上手いのは、生まれ持った才能とでもいうべきか。


「……わからないんだ」


 それは偽りのない、本心だった。


「自分が何を選ぶべきなのか、わからない」


 姉貴が頭を抱き寄せてくる。


「伊織ちゃんの選ぶべきものは一つだけよ」


 優しく母親が子供に語りかけるようだ。


「自分の幸せ。ただ、それだけよ」


 姉貴のおかげで少しだけ気持ちが楽になった。


 例え、それが気休めだとしても、姉貴の言葉は自分の心に届いた気がした。

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