第89 駆け抜けろ、夜の帷に響く声


 *5


 夜の9時だが、人っ子一人いない。


 当然である、ここは矢別峠と呼ばれるレジャースポットにして、夜な夜な命知らずの走り屋のメッカなのだから。


 そんな場所に2つの影、成熟した男と青年が佇む。


 あらゆる無駄を削ぎ落とした、元白バイの改造バイクは1800ccの300馬力を超える白い狩猟豹。


 よもや、そんな化け物を操作できるのだろうか──この化け物の最大スペックは知る由もないが、未だその爪は隠されたままだ。


 「本当にくるなんてロイヤル思ってなかったぜ。ビビって逃げたと思ったがな」


 そんな侮蔑は、九条鏡佑は何度も味わっているので、最早なにも感じるところがない。


 否──この男に恐怖を感じていないのだろう。


 「本当に、僕がこの峠の頂上までバイクで駆けて、一番だったら、スペイドを止めるんだろうな?」


 しかし九条鏡佑は知っている。


 もし自分が一番だとしても、スペイドは止まらずに暗躍し続ける。


 その時は、ビビと一緒に殺すだけだと。


 「ああ。もちのろんろんロイヤル本当だぜ。さあ早くバイクに乗りな」


 1800ccのエンジンが轟かす大音声は、夜のしじまを、悉く引き裂いていく。


 重く猛り狂う大型肉食獣にも似た排気音は、まさに総重量300キロを超える二輪の王である。


 そんな怪物を人間が操れるのか?


 答えは言うまでも無い。


 しかし、今の九条鏡佑に恐怖などない。

 自身がどれほの成長をしたのか、排気音の振動の中で鼓動も同様に猛っていた。


 では、鯉炭ヨシオはどうだろう?


 彼にも焦りはない。むしろ提案してきたのはヨシオの方であり、勝算無くして挑むはずがないのである。


 そして、また忘れてはならないのが、ヨシオもまたピース能力者なのだ。


 だが、侮っていたのは、ヨシオの方である。


 確かに九条鏡佑はバイクに関してはズブの素人である。


 騎乗したことさえない。が、彼の人外なる力を持てば、力ずくでねじ伏せて、その猛獣を飼い慣らすなど朝飯前なのだ。


 それをヨシオは知らない。いや、知らされていなかったのだ。

 捨て駒であるヨシオは単なる時間稼ぎ程度にしか思われていなかったのだろう。


 ジェイトもスペイドも、『Nox・Fang』内で最重要危険人物たる目の前の青年の実力など推し量るれるわけもない。


 「いいか? 俺がこのロイヤル空き缶を宙に投げて、空き缶が地面に落ちた瞬間にスタートだ。ここから頂上まで約2キロ。半ベソかいて逃げるなら今だぜ?」


 しかし、鏡佑は黙して、その侮辱に反駁する形をとる。


 「なるほどな。やる気だけはロイヤル褒めてやるぜ。んじゃ行くぞ!」


 虚しく錆びたスチール缶が宙を舞う。

 と、同時に重力に逆らえず、荒れ果てたコンクリートに吸い寄せられ──カラン、と音を立てた瞬間。


 雷鳴が轟くかのような、2台のフルスロットルの排気音が、静謐を破り、矢別峠に鳴り響いた。


 一気に加速した2台の獣が撒き散らす豪風。


 それに、耐えられる肉体を持つ2人もまた、人外と言えよう。


 カーブすることさえ困難な重低音の獣を疾駆させ、2台の白き狩猟豹は天高く舞い上がるが如く、駆け抜けていく。


 先に人間離れした技を見せたのはヨシオの方だった。


 なんと、道なき道を疾駆したのだ。

 それは真横の斜めにカーブした、コンクリートの壁を疾ると言う人間離れした芸当。


 しかし鏡佑はそれを見て、笑みを溢した。

 これだけの相手であることに対しての、僥倖の笑みを溢さずにはいられなかった。


 すかさず、鏡佑もコンクリートの壁を疾走し、ヨシオのバイクの尾に喰らいつく。


 バーリトゥードが許されると事前に聞いていた鏡佑は、あろうことか、ヨシオのバイクの尾に噛みつき、力任せにバイクの前輪をハンドルで強引に引き上げ、持ち上げる。と、同時に後輪でジャンプし──現在時速200キロは出ているであろう巨獣をヨシオめがけて、のしかかったのだ。


 これには、さしものヨシオも驚愕を抑えることができず、すかさず減速した。


 「チッ!」


 そんな鏡佑の舌打ちは、獰猛な排気音にかき消されたが、鏡佑の獰猛性はヨシオに冷や汗をかかせた。

 

 最初から化け物であったものを、無理矢理ボアアップし、加えて吸気系やツインターボチャージャー、それに伴う駆動系のあらゆる部品を全面に強化させ、施されたモンスターマシン。


 鏡佑はそれを、能力ではなく、自身の力のみで操っている。


 無論フルスロットルのまま、ブレーキは両脚のみである。


 その激烈なまでの勢いは、ただのスニーカーには耐えられたものではない。

 気がつくと、スニーカーの底はすり減り、素足でコンクリートを蹴り、その反動をブレーキとしていた。


 人生で一度もバイクに乗ったことが無い鏡佑にとって、ギアのチェンジだけでも覚えられたのは、奇跡にも近い。

 しかし、それで充分だ。


 今の鏡佑にとって、スピードさえ出れば、どんなモンスターマシンでも乗りこなせる自負があった。


 と、その時。


 前方のヨシオが何かをばら撒いた。


 それはマキビシであった。

 瞬間、鏡佑の車体が大きく下がった。


 バイクのタイヤから空気が漏れたのである。


 無情にも鬼子となりし、脚のない叫声を吐き出すモンスターマシンのタコメーターは5000を超えていた。


 だが、脚が無いのでは──しかし、それを見越してか豪風の中で、発した人外の言霊。


 「『呪氷道』!」


 鏡佑が叫び、左手を翳すと、そこから分厚い氷道が現出した。


 唖然。


 それだけのことが今起こった。


 だが当の本人である鏡佑自身は、夜の9時までに、仕上げてきたのだ。


 この荒技たる『呪詛思念』を。


 最早、スロットルを回す必要も無い。

 まさに天高く駆け上がる豹が如く、翼を持った獣は獰猛な雄叫びから、耳が聾するほどの高音域で疾駆する弾丸に変わり、気がつくと目的地である頂上まで一気に滝が逆に流れるように、鏡佑はヨシオを超えていた。


 数十秒後にヨシオが息を切らせて頂上まで辿り着くと。


 余裕の笑みでヨシオを見つめる鏡佑がそこにいた。


 絶対の自信があったヨシオの心は粉々に粉砕し元には戻らない。



 人間の領域で勝とうとしたヨシオに対して、出された答えは、禁断の領域に踏み入れた者に楯突いた晴天の霹靂だったのだ。


 微睡む街灯を無視して、2台のバイクのヘッドライトから照らされる光芒だけが、静謐なる闇夜を切り裂いていた。

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