第49話 逆ナンの逆の逆は逆ナン
*8
僕は今、臥龍の店にある椅子に、腰を落ち着かせている。
座っている椅子はもちろん、臥龍がいつも座っている本革の高級椅子だ。
そして僕は、今日の出来事を振り返り、物思いに耽っていた。
それは、臥龍の店で夏休み中ずっと、タダ働きする羽目になってしまった事では無い。
ましてや、心絵に騙されて僕の十万円が昼飯代に消えてしまった事でも無い。
まぁ、両方とも重要な事ではあるけれども……。
僕が物思いに耽っているのは、全く違うことだ。
それは────
中華料理屋から出て、僕が心絵を探すと、あいつはもう消えていた。
文句の一つでも言おうとしたが、残ったのは千円札が一枚だけ……。
そんな現実に意気消沈して、フラフラと街を彷徨う幽霊のような歩き方で、臥龍の店に戻ろうとした時だった。
僕は突然、女の子から声をかけられたのだ。
だが、それだけなら驚く事では無い。
僕が驚いたのは、その女の子が僕の名前を知っていたからだ。
初めて出会う女の子が、いったいどうして僕の名前を知っていたのかは分からない。
それでも、いきなり僕の名前を呼ばれて、思わず振り返ると、紺色のセーラー服を着た高校生ぐらいの女の子が驚いた表情で僕を見ていた。
この場合、驚くのは僕の方なのだが、確かに驚いた表情をしていた。
まるで……もう二度と出会えない人に、出会ったというような表情をしていた。
数瞬だが、僕は同じ高校なのではと思ったが、僕の高校は男子も女子もブレザーで、セーラー服ではない。
なので僕は、その女の子に人違いだろうと言ったのだが、女の子は首を横に振って否定し、自分の名前を僕に教えてきた。
その子は自分の事を、
白黒の黒に、宮崎県の宮、愛情の愛だと、丁寧に僕に教えてきた。
けれども、僕には黒宮なんて名前の女子に知り合いはいない。
僕がそう告げると、さも不思議そうに僕を見てきた。
もしかしたら、僕が幼い時の知り合いかと思い、じっと顔を見たが、全く思い出せない。
ただ一つ言える事は、その黒宮と名乗った女子が、とても可愛かったことである。
化粧なんてしていないが、まるで優等生のような気品があり、貞淑な雰囲気まである。
それでも、人を疑うことを知らないような、大きな瞳は、可愛いの一言に尽きる。
髪は長髪で黒く、その長髪を赤いリボンでバレッタ留めし、うなじが見えている。
スカートの丈は今時珍しく、膝下まであり、真面目な印象を受けた。
そして左手首には、手編みのような青い毛糸の、小さなミサンガを付けていた。
なんだか、今の若者と言うより、古風な昔の女の子のような感じがした。
しかしまいったぞ、どこからどう見ても──僕の知り合いではない。
僕の中の記憶には存在しない女子である。
と、すると……はッ!
これは通称、逆ナンパ。
略して逆ナンというやつか?
いや、でもよく考えろ……。
こんな古風で可愛い女子が、逆ナンなんてするか?
うーん……、しないな。
だとすると……はッ!
間違いない、これは新手の詐欺だ。
一見して古風な女子を装い、相手を油断させる詐欺に違い無い。
なぜなら、初対面の人が僕の名前を知っている訳なんて無いからだ。
ま、まぁ……心絵の時は例外だと思おう……。
あの時は、場所が場所だったし……。
けれども、ここは真っ昼間の街中である。
そんな場所で、急に声をかけるなんて怪しい……。
ここに心絵がいれば、目の前に立っている黒宮が陰陽師なのかと訊けるのだが。
しかしだ、灰玄や心絵から感じる気迫を──どうも、黒宮からは全く感じない。
どこから、どう見ても、普通の古風な女の子である。
弱々しいとまでは言わないが、僕の方が男子として、守らなくてはと、思わせる女子だ。
うーむ……、いったいどうしたものか……。
これが知り合いのふりをした詐欺である確率は、無きにしも非ずだ。
それに最近──出会う奴らは全員……危険人物である。
この黒宮と名乗る女子も、危険人物の可能性がゼロだと言う確証は、どこにも無い。
もし仮に、本当に逆ナンだと言う可能性に賭けるのは、
つまり僕が選択するべき行動は一つ。
関わらないことだ。
なので僕は、自分の身を守る為──これから大事な用があると、取って付けたような言い訳をして、早急にその場から立ち去ったのだ。
────そんな出来事を振り返り、僕は物思いに耽っている次第である。
しかしなんで……僕の名前を……。
まあ、今時は個人情報なんて有って無いようなものだから、調べれば簡単に特定できてしまう。
やれやれ……嫌な時代になったものである。
でもなぁ……もし本当に逆ナンだとしたら……僕にも春が到来したということだ。
今は僕の大嫌いな真夏だけど……。
そう考えると、実に惜しい事をした。
だとしても、今年の夏休みは、このゴミ置き場のような臥龍の店で、ずっと店番をしなくてはいけないから、結局は知り合いになっても、一緒にどこかに遊びにも行けない……。
うーん……、考えれば考えるほど、分からない。
詐欺だったのか、マジで逆ナンだったのか……。
にしても、黒宮と名乗った女の子──本当に可愛かったな。
心絵と違って、右から見ても左から見ても、ごく普通の女の子だった。
やっぱ、普通が一番だよなぁ……。
そんな、堂々巡りの物思いに僕が耽っていると──僕の携帯電話の着信音が鳴った。
見ると、知らない電話番号だった。
もしかして黒宮……じゃないよな。
多分、間違い電話だろうから、僕はそのまま携帯電話を放置して、着信音を無視した。
────三分も鳴っている。
流石に長いと思い、僕は携帯電話の通話ボタンを押した。
間違い電話なら、相手に人違いだと言えばいいだけだし。
『おい! 早く出ろよ!』
「えっと……、どちらさん?」
『俺だよ、俺! もしかして寝てたのか? 全く君はアベレージな──』
「え? 俺さん? すんませんね〜、僕には俺さん何て知り合いはいないんで。それじゃあ」
そして僕は、携帯電話の通話ボタンを切った──が、またすぐに携帯電話の着信音が鳴った。
もう着信相手は誰だか分かったので、僕は無視を決め込んだ。
「だから早く出ろよ!」
「うわっ!」
臥龍が大声を上げて、店の扉を開けた。
ていうか、外にいるなら電話じゃなくて、普通に入ってこいよ……。
「いや〜ビックリしたな〜。あれ? もしかして俺さんですか?」
「君はその、わざとらしい演技と口調をやめろ! しかも分かってて電話切っただろ!」
「いやいや、わざとじゃないし、電話相手も分からなかったんですよ〜。ていうか、何でマスク付けてないの? あんなにウイルスがどうとか、騒いでいたのに」
「君はテレビのニュースを観て無いのか? もう謎の奇病は去ったんだよ。だからマスクなんて、付ける必要なんて無い」
おい……なにが常に思考を絶やさないだよ。
自分の思考を放棄して、テレビのニュースに踊らされまくってんじゃねーか。
「所で聞いたぞ九条君」
「聞いたって何が?」
「心絵君に昼食を奢ったそうだな。君にも少しは良心の呵責があり改心したということか。なにせ、君は心絵君に罪を擦り付けたんだからな」
なにを言っている……むしろ改心するべきは心絵の方だ。
昼食だって、心絵に騙されて奢らされ、僕の十万円が消えてしまったのだから。
「ちなみに、昼食はなにを食べたんだ?」
「中華料理だけど。あっ、そうそう。その中華料理屋で有名人に会ったんだよ」
「有名人?」
「そう。錦花鶴祇って人。知ってる?」
「錦花──あぁ、あのアベレージな極道の錦花か。あいつは昔から何も変わって無いからな。九条君にも馴れ馴れしい感じだっただろ?」
「馴れ馴れしいというか……まぁ、気さくな人ではあったけれど。つーか、その言い方、なんか知り合いみたいだな」
「みたいじゃなくて、普通に知り合いだぞ。小学校と中学校の同級生だ」
「えっ! マジで!? じゃあ臥龍さんは、小学校と中学校の九年間、ずっと錦花さんにイジメられてたのか……可哀想に……」
「なんで俺が錦花にイジメられなくちゃいけないんだ! 友人とまでは言わないが、一緒に遊んでいた仲だったぞ。それよりも九条君。俺の椅子に勝手に座るな!」
臥龍に椅子を奪われてしまった。
代わりに、近くにあったパイプ椅子を僕に渡す臥龍。
ていうか、あの錦花さんと臥龍に、交友関係があったなんて……しかも小学校と中学校の同級生だったとはな。
世間は広いようで狭いものである。
「しかし、君の口から、懐かしい名前が出て来るなんて思わなかったな」
「ついでに錦花さんの他に、二人の若い女性にも出会ったぞ」
「二人の──若い女性?」
こいつ、急に目の色を変えて、食いついてきやがった。
「あぁ。一人は灰玄」
「…………」
そこには、沈黙だけがあった。
どうやら臥龍は、まだ灰玄にビビっているようだ。
「もう一人は、金髪の外国人女性だった。しかも日本語がペラペラの」
「ほう。金髪の外国人女性か」
うわっ。
こっちは食いついてきたよ。
「それで──綺麗な人だったのか?」
「まあ、かなり綺麗な人だった」
「ちなみに、胸は大きかったか?」
しまった!
お胸チェックするの忘れてた。
ていうか、タイトなスーツを着てたから、お胸チェックしても意味は無かったと思う。
それにしても──臥龍の頭の中は、女性の胸の事しか無いんかい!
本当にエロい
「で? 胸は?」
臥龍が詰め寄ってくる。
まあ、どうせ、もう二度と会わない人だ、適当に言おう。
「うーん……、灰玄と同じぐらいの大きさだったよ」
臥龍の目の色が一段と輝きを増す。
こ……こいつは……どうしようも無いな……。
「で? その人の名前は?」
「ジェーン・ドウって名前」
僕がそう言うと、堰を切ったように笑い出す臥龍。
「なにがそんなに、おかしいんだよ?」
「ふっ。ふふふふふふ。君は、その女性に嫌われたな。ふふふふふふふ」
「なんで嫌われたの? つーか、笑いながら言うな!」
臥龍は笑いを堪える為に、一呼吸置いて話し始めた。
「九条君。ジェーン・ドウの意味を知っているか?」
「外国人女性の名前だろ?」
「違う。身元不明死体という意味だ。つまり君には本名を教えたく無いと、遠回しに言っているようなものだな」
「み、身元不明死体? でも、親が偶然、ジェーン・ドウって名前にしたんじゃ……」
「絶対にあり得ないな」
臥龍は頭から否定した。
「いいか? 仮に君が親で、自分の子供に九条身元不明死体なんて名前を付けるか?」
「──付けない」
「だろ? だから俺は笑ったんだ。ふっ、ふふふふふふ」
面倒になりそうだったから、左頬の銃痕の事は黙っておいたが……錦花さんが、冗談はやめろと言った理由が解った。
まさか、ジェーン・ドウの名前が身元不明死体を意味するなんて。
やっぱり臥龍の言う通り、嫌われたのかな?
店内で相当、騒いでいたし……。
──しっかし、臥龍に笑われると腹が立つ。
よし。
今日、僕が街中で、逆ナンされた事を言って、自慢してやろう。
「おっと、大事なことを伝え忘れてた。昼食から帰る途中に、逆ナンされたんだった。しかも超可愛い女子高校生に」
「超可愛い女子高校生に逆ナンされただと?」
ふん、臥龍め、悔しいか?
超可愛いは言い過ぎだが、可愛いのは本当の事だ。
それに逆ナンも……多分、本当の事だ。
「ふっ、ふふふふふふふ」
「な、何がおかしいんだよ?」
「君が逆ナン? 見栄を張るのはやめた方がいいぞ。君は本当にアベレージな狼少年だな」
「いや、狼少年じゃなくて。本当なんだけど」
「分かった分かった。そういう事にしておいてやろう。ふふふふふふ」
駄目だ……全然信じてねーぞ。
「そうだ、会話に夢中になって忘れる所だった」
そう言いながら、臥龍はおもむろにレジから千円札を出して、僕に手渡してきた。
「なにこれ?」
「要らないのか? じゃあ返せ」
「要る要る! と言うか、僕が訊いてるのは、何の千円札なのかってこと」
「それは夕食代だ。言ったろ? 飯だけは食わせてやると」
夕食代の千円札だったのか。
「それじゃあ、俺はもう帰るぞ。君も早く夕食を済ませて、家に帰りなさい」
少しだけ、教師のような真面目な口調だった。
そして、ゆっくりと臥龍は自分が座っていた椅子から立ち上がり、店を後にした。
僕は臥龍が店を出て行く背中を見届け、ふと携帯電話で時間を見た。
時刻は午後の六時半に迫ろうとしている。
「うげっ。三十分もサービス残業しちゃったよ」
ていうか、タダ働きだから、ずっとサービス残業のようなものだが……。
とにかくだ、さっさと夕食を済ませて家に帰ろう。
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