第48話 あぶく銭は結局あぶくに終わって残らない



 *7



 待て、待つんだ。


 これは本当に夢なのだ。


 そう自分に言い聞かせ、僕は再び瞳を閉じて、ゆっくりと瞳を開けた──


 やっぱ会長じゃねーかッ!



 おい……!


 どうするんだよ……!


 コンクリート詰めにされて、東京湾に沈められるのか僕は。

 もうここは、誠心誠意、深々と頭を下げて、マジで謝罪して許してもらうしかない。



 「ほ、本当にすいませんでした! すぐに店から出て行きます! おい心絵こころえ! お前も謝れ!」


 「嫌よ。それに店からも出て行かないわ。まだラーメンが残っているのだから」


 「ラーメンなんて、今はどうだっていいんだよ! それよりも早く──」


 「あら鏡佑きょうすけじゃない。こんな場所で会うなんて奇遇ね」



 錦花鶴祇にしきばなつるぎが、あまりに高身長だったので気がつかなかったが、なぜか錦花鶴祇の後ろに、灰玄かいげんがいた。



 「ん? あぁ灰玄か。本当に奇遇──って、なんで灰玄がいるんだ?」


 「なんでって、ツルちゃんが奢ってくれるって言うから、一緒に食事してたのよ。アンタは心絵家の小娘と一緒みたいだけど──良かったわね。アンタにも友達ができたみたいで」



 笑いながら言う灰玄。

 そんな灰玄を心絵は一瞥いちべつし、軽く会釈した。


 二人の間に──会話は無かった。


 微妙に……気まずい……。


 ていうか、心絵と友達って……全然良く無いんだけど。

 僕はただ、こいつが中華料理を奢ってくれるから、一緒にいるだけなんだけど。



 「鏡佑? 灰玄のあねさん。ひょっとして、姐さんがいつも話してる鏡佑って言うのは──」


 「そう。この目の前にいる小僧よ。まぁ、アタシの弟みたいなものかしら」



 弟って……勝手になに言ってるんだ?


 しかも、姐さんって……。



 正確な年齢までは分からないが、雑誌で錦花鶴祇の記事を読んだことがあるので、大体の年齢は分かる。


 臥龍がりょうと同じ四十代である。


 対して、灰玄は見た目が二十代。


 それなのに、なんで灰玄の事を錦花鶴祇は、姐さんなどと呼んでいるのだろう……。



 「だったら、もっと早く言ってくれ姐さん。そうか、お前が鏡佑か。宜しくな」



 そう言って、錦花鶴祇は、握手を求めて来たので、僕は迷わず握手した。


 それにしても、ごつい右手だな。



 「急に声をかけて、驚かせて悪かった。俺の名前は錦花鶴祇だ。錦花と呼んでくれ」



 いや……普通に名前とか知ってるし。

 つーか、超有名人だし。


 その前に、日本の極道の頂点に君臨する人の名前を、呼び捨てで、錦花なんて呼べるわけ無いだろ。



 「あ、はい。分かりました錦花さん」


 「錦花さんか。俺は錦花で構わないが、まぁ鏡佑の好きなように呼んでくれていいぜ」



 うーん……何だかよく解らないが……中華料理屋で騒いでいたら、日本の極道の頂点の人と知り合いになってしまった。


 しかも、かなり気さくな人だった。


 錦花さんか──極道ではあるが、悪い人には見えない。


 容姿は流石に極道社会に身を置く人物なので、怖いと言うよりも、威厳がある。


 ただ、僕が一番以外に思ったのは、その声だった。



 僕の想像では、掠れて、いかつい、いかにもヤクザ映画の大親分のような声だとばかり思っていたが、実際は違った。



 低く太い声ではあるものの、その声の内には、なにか優しさのようなものが混じっていて、人を安心させるなめらかな声色こわいろだった。



 「会長様。会計が済みましたので、そろそろ──」


 「おう。悪いな会計を頼んじまって。あぁ、そうだ。お前も挨拶ぐらいしとけ。お前の目の前にいるのは、灰玄の姐さんの弟分の鏡佑だ。名前だけなら姐さんから聞いてんだろ?」



 錦花さんが、そう言って声を掛けた相手は、二十代前半ぐらいの金髪碧眼の外国人女性だった。


 髪型は太股ふとももまで届く、一つ結びの三つ編みで、上下ともタイトで真っ白なスーツを着て、ワイシャツも真っ白。

 オマケにハイヒールまで真っ白に輝いている。




 しかし、そんな全身雪化粧のような服装に負けず劣らず、純白の肌と美貌、そして流暢りゅうちょうな日本語までも兼ね備えている。


 ハリウッド女優が隣りに立っていても、引けを取らない美しさだ。


 身長はローザと同じぐらいだろうか。


 つまり……僕よりも高い……。


 ま、まあ……きっと……ハイヒールを履いている所為だろう……。


 あれ?


 何かこの言い訳……前にもしたような……。


 いや、深く考えないようにしよう。



 とにかくだ、それぐらい綺麗な外国人女性──なのだが。

 どうしても気になる事がある。



 それは、左頬にある四つの銃痕じゅうこんだった。


 だが詮索するのはやめよう。


 きっと何かの事故にでも遭って、できてしまった痕なのだろう。


 と言うか、この女性もやっぱり朱拳しゅげん会の人なんだろうな。



 女性だから多分、錦花さんの秘書なのだろうと思うが──錦花さんが、挨拶をしろと言ってからずっと……凍りつくような冷たい眼差しで、黙って僕のことを見ている。



 「────」


 「おい。警戒しなくても相手は姐さんの弟分だ。心配する事なんてねえよ」



 警戒?

 心配?

 何を言ってるんだ?



 「──初めまして。わたくしの名前はジェーン・ドウと申します」



 その声は無表情な機械を連想させた。


 まるで、感情をどこかに捨ててきたような口調。


 だが同時に、とてもつやがあり、透き通る水を思わせる声でもあった。



 「お前なぁ……。姐さんの弟分だぞ。冗談はやめろ」



 ──今の会話に、冗談なんてあったのか?



 「ツルちゃん。会計は済んだんでしょ? 早く行くわよ。それに名前なんて別にいいじゃない」


 「いや、姐さん。そう言うわけには──」



 灰玄は錦花さんの言葉も聞かずに、店から出て行った。


 やれやれ、灰玄は僕だけでは無く、他の人に対しても自分勝手なんだな。


 しかも相手が日本の極道の頂点の人なのに、お構い無しだ……。



 「あいつも悪気があって言ったわけじゃねえんだ。許してやってくれ。それと一応、鏡佑に俺の名刺を渡しておくから、何か困った事があったら──」


 「なにやってるのよ。ツルちゃんは用事があって、この街に来たんでしょ? 早く来なさい」


 「待ってくれ姐さん。悪いな鏡佑、また今度ゆっくり話そうぜ」



 そう言って、灰玄に促されるまま、錦花さんとジェーンさんは早々に店から出て行った。



 「さてと、全部食べたし、私たちも帰るわよ」



 今度は心絵が僕に促してきた。

 ていうか、まだ注文した料理を半分しか食べ──はっ!?


 僕が自分のテーブルを見ると、僕が注文した分の料理まで無くなっていた。



 「お、お前! なんで僕の分まで食べてるんだ!」


 「だって、早く食べないと冷めてしまうからよ」


 「冷めるって……。結構残ってたぞ。あれを全部食べるなんて、どんな胃袋してるんだ?」


 「こんな量なんて普通よ。ちなみに、アミリはもっと食べるわよ」


 「誰それ……」


 「まぁ、遠い親戚ね」


 「お前って親戚が多いんだな」



 親戚が一人もいない僕にとっては、少し羨ましい話し──ッ!?


 なんだ……腹が急に……痛く……うおおおおおおッ!!


 僕の腹の中でビッグバンが起こっているぞ!



 「どうしたのよ。冷や汗なんてかいて」


 「い、いや……急に腹が……ぐぉぉぉぉ!」


 「アナタ、さっき生牡蠣なまがきを食べたでしょ?」


 「た、食べたけど……、ッ!? まさか……?」


 「きっと、そのまさかね。昔からよく言うでしょ? 桃栗三年ももくりさんねん牡蠣胃腸炎かきいちょうえんって」



 それは果物の柿で、貝類の牡蠣じゃないと、いつもならツッコミを入れているが。


 今の僕に、そんな余裕は全く無い!



 「だ、駄目だ……心絵。頼む、救急車を呼んでくれ……!」


 「それぐらいで大袈裟なんだから。ちょっと顔を上げなさい」



 僕は心絵に言われた通り顔を上げ──痛ってええええ!


 心絵が親指で、僕の喉を強く押した。



 「お前! 腹が痛いって言ってるのに、何で喉まで痛く──あれ? 腹痛が治ったぞ」


 「アナタのそれは、空腹の胃袋に急に食べ物を入れたから、胃袋が驚いて腹痛みたいな症状が出ただけよ」


 「なんだ……本当に胃腸炎になったかと思って焦ったぞ……。でもさ、何で僕の喉を強く押したら胃袋が治ったんだ?」


 「アナタの『昇華気孔しょうかきこう』を押して、一時的に臓器を強化したからよ。ちなみに、『昇華気孔』は喉や首に集中しているから、前の時は首を刺激したわけ」



 前の時──あぁ、廃工場の時か。


 と言うか、『昇華気孔』って何でもありだな……。


 だが、ここは助けてもらったのだから、礼を言おう。


 ついでに奢りのことも。



 「ありがとうな心絵。昼飯を奢ってくれて、腹痛まで治してくれるなんて、本当に助かったよ」


 「は? 私がいつ、アナタに昼飯を奢るなんて言ったわけ?」


 「──え? だって中華料理屋に連れて行ってあげるって、言ったじゃん」


 「私は連れて行くとは言ったけれど、奢るとは言ってないわよ」


 「いや、おかしいでしょ! 普通は連れて行くって言ったら、奢ってくれるって思うじゃん」


 「それはアナタが勝手に勘違いしただけでしょ?」



 おいおい冗談じゃないぞ。

 こいついったい……なに言ってんだ?



 「それに忘れた? アナタには、例の工場で私に貸しがあるのよ。まぁ今日の所は、昼食の奢りで貸しはチャラにしてあげるわ」


 「え? なにそれ? それじゃあ……この店で食べた料金は全部僕が払うのか?」


 「当たり前でしょ」



 な、なんじゃそりゃ!?



 「じゃあ私は先に店から出て行くから、お会計の方は宜しくね」



 言って、すたすたと店から出て行く心絵。


 そして、店員さんが、さりげなく食事の会計伝票をテーブルに置いた。



 その紙を……恐る恐る見ると──九万九千円と書かれていた……。


 ま、マジかー!!



 僕のジーパンのポケットには灰玄から貰った、謝礼の十万円が入った封筒がある。


 しかしだ、これはエアコンを買う為のお金……。


 断じて無駄に高い高級中華料理屋で、散財する為のお金では無いのだ。


 でも……お金を払わないと無銭飲食で逮捕されちゃうし……。



 ええい!

 クソッ!


 もう払うしかない。



 つーか、心絵の奴に……またしても嵌められてしまった……。

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