中編

 上司であり、修羅場を生み出した失言の主モーガンにアルジャノンが謝り倒されたのち、アルジャノンが帰宅してすぐオフィーリアに謝り倒したのは言うまでもない。


「別に怒ってない。仕事だったんでしょ」

「ち、ちが――いや、違わないけど……いや、でもそれは最初だけの話で……本当に! 本当に今は貴女のことを愛してるんだ!」


 露呈した不都合な事実を今さら否定してもよくないかと思ったアルジャノンだったが、そこへ愛の言葉を連ねても上滑りするばかりだと気づくのに時間はかからなかった。上滑りするだけならまだよかった。どう言葉を重ねても、言い訳じみた響きが伴ってしまうのだ。アルジャノンはひとり冷や汗をかく。


「そう」


 追い打ちをかけるように、オフィーリアの冷めた目と言葉が、アルジャノンの脳みそに突き刺さる。アルジャノンはまた泣きそうになった。完全に自業自得なのはわかっているし、成人してしばらくの大のおとなの男であったが、泣きそうになった。


 対するオフィーリアは、急ぎアルジャノンが買ってきたお詫びのチェリーパイを食べていた。貧しい暮らしを強いられていたオフィーリアにとって、嗜好品である甘味はあこがれの存在だった。それは今でも変わらず、オフィーリアは甘いものに目がないのだった。


 しかし、アルジャノンとてチェリーパイ一個で己の不誠実な行いをなかったことにできるなどとは考えていない。冷や汗をかきつつ、オフィーリアのご機嫌うかがいに走る。


「そ――そのチェリーパイはどうかな」

「おいしい」

「それはよかった……そうだ。このあいだできたカフェテリア、なんでもラム酒を使ったフルーツケーキが絶品だって――」

「…………」

「オ、オフィーリア……」


 オフィーリアは無言でチェリーパイを口に運んでいる。アルジャノンは冷ややかなオフィーリアの態度に、冷や汗だらだらであった。


「……どうしたら許してもらえるかな」


 アルジャノンは禁断の言葉を口にした。こんなことを言っても容易に許されるはずがないとわかっていながら、しかし酸欠寸前の金魚が水面で必死に口を開閉させるかのごとく、苦し紛れにその言葉を口にした。


「怒ってないって言ってる」

「そ、そう……」

「許すとか許さないとか、そういう話でもない」

「そう……か」


 オフィーリアはアルジャノンに謝る機会すら与えないつもりなのかもしれない。アルジャノンはそのことを悟り、背中が嫌な汗をかくのがわかった。


 アルジャノンの正直な気持ちを述べるならば、「別れたくない」のひとことである。この先、オフィーリアが別れ話でもしようものなら、アルジャノンはその足にすがりついてでも、泣きすがってでも別れるつもりはなかった。というか、受け入れられそうになかった。


 しかし、今の修羅場はアルジャノンの自業自得である。不誠実なことをしていたのもたしかだ。ゆえにアルジャノンの心は不安定な天秤のごとく揺れていた。別れたくない気持ちは本心だったが、しかしオフィーリアが本気で自分を嫌ったのであれば、別れるのが誠実な対応というものではないだろうか?


「オフィーリア……私と別れたくなったかい?」

「別れ話なんてしてないんだけど」

「それは……そうだけど。でも貴女は」

「怒ってないって言ってる」


 話題がループした。アルジャノンはかなり真剣に、オフィーリアに取りすがって許しを乞うか悩んだ。そこへ、オフィーリアの大きなため息がかぶさる。アルジャノンは己の頬の筋肉が引きつるのがわかった。


「オフィーリア――」


 オフィーリアはイスを引いて無言で立ち上がった。その背中が奥の部屋へ消えるのを、アルジャノンは見守ることしかできなかった。「絶望」の単語がアルジャノンの脳裏をよぎって行く。かすかに震える脚を叱咤して、アルジャノンはオフィーリアを追った。


 しかしオフィーリアがすぐに奥の部屋から出てきたために、両者はぶつかりそうになる。


「……なにしてるの」

「……いや、貴女が奥の部屋に行ったから……つい。すまない……」


 オフィーリアは呆れた様子で再びため息をついた。


「これ、取りに行ってただけ」

「『これ』?」

「そう」


 オフィーリアの手には薬瓶があった。手書きのラベルにはひとこと、こう書かれていた。


「『真実薬』……」


 真実薬。その名の通り、この薬を服用したものが真実しか話すことができなくなるものだ。自白剤の一種であったが、通常、意識をもうろうとさせるだけのそれとは違い、この真実薬は文字通り服用者が本心しか話さない点で差があった。


 アルジャノンは悟った。オフィーリアは自分にこれを飲ませようとしているのだと。しかし、アルジャノンからすれば渡りに船。オフィーリアが自ら調合しただろうその薬を飲んで、真実、愛を彼女に告白すれば挽回のチャンスはある――。


 そう、思っていたのだが。


「――これを、私に?」

「違う」

「え?」

「わたしが飲む」

「――え?」


 やにわに瓶のフタを開けたオフィーリアは、それはもう気持ちいいくらいの飲みっぷりで、一度に真実薬を呷った。

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