松下泰雅

 澄み渡った秋空の下吹き荒ぶ風は乾き切っていた。うっかり気を抜くと急斜面を越えて吹きつける強風に自転車ごと横倒しにされてしまいそうだ。腰を浮かせてペダルを踏みながら,息が弾む生徒達を追い抜いて行く。冷たい空気の中でも額に汗が滲むのを感じつつ正門を通った時,異変に気付いた。いつもなら教諭達が日替わりで立って朝の挨拶を交したり容儀の乱れを直させたりしているのだが,この日はその姿が一つとしてなかったのだ。怪訝を覚えるけれど,早朝から口煩く指導されないのに超したことはあるまい。鬱陶しい体育教員が出てこない内に,敷地の裏手にある駐輪場へ回り込んだ。

 駐輪場は七割方埋まっていた。今日は少し家を出るのが遅かったから,他に自転車を停めている生徒の姿は残っていない。群れに加わるように自転車を入れ込み,鍵をかけた。正面に徒歩やバスで通学してくる生徒が大勢やって来る様子を見据えつつ,ピロティを抜けて校舎に入る。朝補習直前の雑多な靴箱でローファーを上履きに履き変え美術室の前を右に曲がった。階段を上っていると,登校したばかりで落ち着きのない喧騒が頭上から降り注いでくる。トイレの前を通り過ぎて二階の最奥にある八組の教室へ踏み入る。

「泰雅おはよー。英語の課題全部解けた?」

「一応な。直訳だから文章がぎこちないけど」

 自分の席に鞄を降ろすなり,隣の席の裕喜が課題のプリントを見せるようせがんできた。

 またかよ。

 苦笑しながら学生鞄の中を探る。こいつの課題を写させるよう頼む癖はサッカー部を引退した後も一向に治らない。うっかり入学試験で首席だったことを明かしてしまったせいだろうかと焦るけれど,この時期になってもこいつの成績が上向かない責任までぼくが負う必要はあるまい。

「本当に助かる。補習始まる前には返すから」

 プリントを渡すと拝み倒さんばかりに手を合わされた。時計を見ると後二分で補習が始まる時間だ。急いで答えを写す裕喜を横からからかう。

「どう考えても間に合わないだろ。内職しろ内職」

 けれど結果的に,補習が始まる前に裕喜は答えを写し終えた。これは裕喜が尋常でない速度で写し終えたからではなく,単に時間になっても先生がやって来なかったからだ。

「今日の補習古典だよな。後藤のやつ忘れてるのかね?」

 プリントを突き返しながら裕喜がこっそり話しかける。先生が朝一番のこの時間に少し遅れてやってくることは間々あることだったから,教室内はそれほど騒がしくない。時間を確認すると,補習の開始を告げるチャイムが鳴ってから既に五分が経過している。

「ちょっと様子見てくる」

 学級委員であり,このような時これまでにも度々先生を呼びに行っていたことのあるぼくは席を立ちかけた。その時聞き耳を立てていたのか,前に座る八坂がやにわに振り返った。

「えー,もうちょっと待とうよ。遅れているだけかもしれないし,補習時間は短い方がいいじゃん」

 全く周囲を気遣っている気配のない声。ぼくの席は六つある列の内,窓から三列目の一番後ろ。だからその大声に振り向いたクラスメイトの視線を中腰のまま一身に受けなければならなくなった。まるで彼らの集中を掻き乱したのは八坂ではないかのようだ。しかし何も言わず,すぐさま視線を参考書の上に戻した彼らに毒突きたくなる。

 どうせお前らも八坂と同じ考えのくせに。

「じゃあ,後五分だけ待つか」

「五分じゃなくて十分待とうよ」

 この女,受験生の自覚はあるのか。への字になろうとする唇を何とか引き伸ばしながら「分かったよ」と浮かせていた腰を落ち着ける。その拍子に,矢坂の手元で明るく画面を照らしだしているスマートフォンが見えた。用は済んだとばかりに,ヘアゴムで束ねられた二房の髪が肩の上ではらりと揺れる。嘆息が静かに零れた。

 焦りはないのか。丸められたり肩に力が込められていたりする,様々な背中に問いかける。ぼく達に残された時間はもう残り少ない。卒業すれば,おそらくこのクラスのみんなは全員進学するだろう。だけど卒業後就職する連中もこの学校にはいるし,進学組にしても四年間猶予が与えられるに過ぎない。

 やりたいことも具体的に決まっていないのに,受験という大きな流れに呑み込まれていないか。将来就きたい職種も定まっていないのに,何となく大学と学部を選んでいないか。どうしてもそんな疑問が拭い切れない。視線が机の脇に置いた学生鞄に移動する。昨日届いた,同じ中学の友人からのメールが思い起こされる。

 返す返すも,三年前そいつと同じ志望校にしなかった自分の選択が悔やまれる。中学の頃は,ぼくの方が成績は上だった。ぼくがサッカー部の成績を重視してこの高校を選んだ一方,あいつは少し背伸びして進学実績のいい高校を選んだ。その結果,逆転されるどころか大分水をあけられてしまった。

 ふと,まるで見え透いて険しい目付きをしていることに気が付いて自嘲する。瞼の上に掌を当てて力を抜くと,指先から窓際の席を見遣った。裕喜の向こうで,クラス一の秀才は黙々と問題集を熟している。その表情には集中が掻き乱された気色すらない。静かに深く息を吸い込んで,開いたままのプリントに向き直った。彼らに追い付くことはできないにしても,せめて言い訳は重ねたくない。

 それから十分どころか十五分が過ぎたものの,未だに先生は姿を見せなかった。どのような形であれ朝の貴重な時間を有効に活用していたクラスメイト達だったけれど,さすがにこうなると様子が変わってくる。ひそひそと近くの席同士で言葉を交わしたり,手を停めて周りを伺ったりしている。八坂に至ってはどこに行ったのか少し前から席を空けていた。

 邪魔がいなくなったからそろそろ職員室へ様子を伺いに行こうと思う一方,これだけ経ってもやって来ないとなると,単に補習があることを忘れているわけでもないような気がしてくる。今朝,誰も正門に立っていなかったことと何か関係があるのだろうか。喧噪とまでいかないにしろ耳障りな囁きに戸惑っていると,トイレから戻って来た裕喜が机の合間を縫ってこちらにやってきながら,意気込んで言った。

「補習が始まっていないのはここだけじゃないみたいだったぞ。しかも隣のクラスで聞いたんだけど,緊急で会議が開かれていて職員室には入れないらしい」

 胸の内に漂っていた怪訝が,この言葉で一度に勢いを増した。一体何が起きているのか。気になって問題に集中できなくなったことを悟って,形だけ手に持っていたシャーペンもとうとう投げ出した。

「いつ頃から会議が続いているのか分かるか」

「分からない。けど補習の前からって話もある」

 ざっと二十分間会議は続いていると見積もっていいだろう。正門に誰も立っていなかったのもそのせいらしい。だけどそうだとすれば尚更,補習を放り出してまで緊急の会議を開き続けなければならないのか,その理由が分からない。教室内の雰囲気もさっきより雑然としてきた。多分受験一色で抑圧されていた好奇心が,突如起きた不可解な事態のせいで掻き立てられているのだ。

 受験生という名分がある手前寸暇を惜しんで勉強しなければならないという意識はあるものの,降って湧いた珍しい状況に浮つく気持ちが抑えられない。見計らっていたのではと疑わしくなるくらいその葛藤が限界まで高められたタイミングで,八坂が教室内へ駈け込んで来た。ばたばたという足音で耳目を集めた彼女はそれに応じるように,教室中に響く大声で叫んだ。

「みんなニュース見てよ,荻野が逮捕されたんだって!」

 絶妙に均衡の保たれていた葛藤は,この知らせで一斉に荒々しい方へ傾いた。クラスメイト達は競って鞄の中からスマホを取り出す。忙しなく動く指を,ぼくは漫然と眺めた。

「女子高生にわいせつな行為をした疑いで逮捕だって!」

「マジか。相手の高校どこ?」

「っていうか捕まったの今朝じゃん」

「だから先生来なかったんだ?」

「これからどうなるんだろ。授業中止にならないかな」

「テレビの取材あるかな?」

「聞かれたら何て答える?」

「つーか荻野マジかよ。わたしらエロい目で見られてたってこと!?」

「面白ぇーっ,この学校に通っていて本当に良かったわ!」

 騒々しい好奇の声が耳に飛び入る度に,少しずつ理性を抉られる気がした。食い入るように画面を見つめる瞳が,愉快そうに歪む口元が,彼らとぼくの間に横たわる茫漠たる距離を思い知らせる。必死に押し殺そうとしていた気持ちがゆるゆると隙間を抜け出て,心の奥深いところから意識の俎上へ昇ってくる。

「やっぱり,閉じ込められている」

 その呟きは誰にも聞きとられない内に,下世話の混じる蝉噪に揉み消された。

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