柳小春                        

 薄暗がりの中,正門を出てとぼとぼと学校の前に伸びる坂を下る。陽の出ている時間はとても十月だとは思えない暖かさなのに,補習で遅くまで居残っているといつの間にか外の空気は季節通りの肌寒さを纏うようになった。クラスにはまだ夏服の男子もいるけれど,寒がりの私には彼らが別の生き物のように思えて仕方がない。

 不意に夜風が首元の体温を攫い,思わず立ち止まって肩を竦める。

 マフラー使うの,早過ぎるよね。

 ちら,と横目に反対側の歩道に立つ自動販売機を確認すると,まだ冷たい飲み物しか売っていなかった。

「小春ぅ,今帰りー?」

「わっ」

 突然大きな声と共に背後から肩を叩かれて,丸まった背中がそのまま前に転がりそうになる。何とか踏み止まって隣を睨むと,肩を叩いた主はほっぺを紅くしながらぺろりと舌を出していた。

「ゴメンゴメンっ。あんまり力入れていないつもりだったんだけど,つんのめるとは思わなかったから」

 悪びれず笑う江莉ちゃんに,険のある目をしようと思ってもつい綻んでしまうのが自分でも分かる。でも,気が緩んじゃうのはしょうがない。県のコンクールに出す作品を仕上げて以来だから,最後に会ってからもう一カ月近い。

 江莉ちゃんとは二年前の四月,美術部に入部届を出した時に出会った。他の新入生と違って江莉ちゃんはその時にもう先輩たちに顔を覚えられていたから,入学してすぐに美術室へ入り浸っていたのだろう。実際その時点でデッサンは先輩たちにも引けを取らなかったし,何より描くことへの意欲は誰よりも強かった。だから美大を目指していると聞いても驚くどころか却って納得したし,他の三年生が引退する中一人部に残ることを決めた時には頑張って合格して欲しいと素直に思った。

 それから受験勉強で部室には行けなくなったから,こうして久しぶりに会うと胸の辺りが温かくなる。同じクラスにも元美術部の友だちはいるけれど,私たちの代は江莉ちゃんを中心に回っていた。だから,江莉ちゃんの元気そうな明るい声を聞くと条件反射で気持ちが軽く弾んでしまう。

 ふと,謝ったきり黙り込んだことに気付いて表情を伺うと,江莉ちゃんは何故かにこにこと笑みを浮かべていた。

「な,何かな」

「んー。いやー,相変わらず小春は小っちゃくてかわいーなーって」

 わしゃわしゃと撫でられるとこそばゆい。久しぶりのポーズが嬉しくて,私も決まりきった文句を返した。

「もぉ,子ども扱いしないでよ」

 でも,今度のは表情を抑えきれないにしてももう少し笑みを隠すよう意識した方が良かったかもしれない。江莉ちゃんには本当に子どもに向けるような眼差しで「いっしょに帰ろうよ」と促されてしまった。単に背が低いからという理由だけでお約束のやりとりが出来上がったわけじゃないことを忘れていない私は,向きになりたくなる気持ちを堪えて歩調を合わせることにした。

 毎日高台にある校舎へ登るのは楽じゃない。朝,登校時間になると正門の前では自転車通学の人が肩で息をしながら自転車を押して上ってくる姿を見ることができる。しかも学校の周りは新興住宅地だから,下校時は偶に脇道から飛び出す車や小学生が怖くて坂を一気に下ることもできない。歩く分にはまだましだけれど,それでも吹き付ける風が見逃してくれるわけじゃない。

 この坂道は左手を,落下を防ぐためのレールを挟んで急斜面に接している。斜面は大体六十度くらいだろうか。レールの傍にこそ申し訳程度に植木が疎らに立っているけれど,その先の斜面は雑草が埋め尽くしている。聞くところによると創立に際して手頃な土地を確保できなかった県の教育委員会は,丘を切り開いたこの場所に学校を建てることにしたらしい。オープンスクールでは眺望の良さを謳っているけれど,実際に通う生徒に言わせればただ不便なだけだ。

 この時間斜面の下には街明かりが煌めき,遠目には港と海が確認できる。よく宝石を散りばめたようだと夜景を言い表すけれど,私は子供の時からどうしても人工の光を綺麗だと感じられない。高校に入ってから毎日のようにこの景色を眺めていたはずなのだけれど,結局そこは変わらなかったな。

「ホント久しぶりだよね。どう,勉強捗ってる?」

 気の置けない友だちに会えて和らいだ気持ちは,けれどこの一言でたちまち強張った。受験を意識するとどうしても昼間言われたことを連想してしまい,熱を帯びた何かが喉まで迫り上がってくるから。

「……うん,順調だよ」

「その嘘,吐き通せると思ってる?」

 声が上擦ったわけでも大きく間隔を空けたわけでもないのに,あっさり露見してしまった。ちょっと怒ったような目で覗き込まれ焦って弁明する。

「嘘じゃないよ。ただ,進路のことでちょっと迷っていて」

 ふーん,と一先ずは納得したらしい声にほっと溜息を吐く。息を吐き出した拍子に,抑え込んでいた思いまでが溢れ出てしまった。

『柳,やっぱりもう一つ上を目指してみる気はない?』

『小春,あんた県外に進学するつもり?』

 今日,二者面談で溝上先生には希望進学先を元の志望に戻すよう勧められた。地元の県立大から,中国地方の国立大だ。そう勧めたのは最近私の成績が上向いてきたから,少しでも偏差値の高い大学への進学者を増やすことで学校としての格を上げようとしているのだろう。だけど五月の三者面談が終わった後,元々県外の大学を第一志望にしていたことを知った母親は,訝しそうに眉を顰めていた。こちらの理由も単純,一人暮らしだとお金が必要になるからだ。

 結局のところ,二人とも自分の都合しか考えていない。多分一般的に,先生や親が受験生の進路に口出しする時,建前には「受験生本人の将来を心配して」という言葉が置かれる。でも,それは嘘だ。大人は自分の都合しか考えていない。

 黙りこくったまま私たちは坂を下り続ける。住宅地の中へと入っていく道路を横切ると,その先の歩道は左に大きくカーブしており,歩道に沿ってニュータウンの子供たちのために作られただろう小さな公園が広がる。公園には簡素な造りのブランコが座板を二つぶら下げ,少し色の褪せたジャングルジムが砂場をひき従える。他の遊具に背中を向けたすべり台は寂し気だ。

 公園の様子が視界の端からも見えなくなったところで,一台の自転車が坂を猛スピードで駆け抜けていく。自転車に乗った彼は私たちと同じ制服を着ていた。「危ないなぁ」と呟く江莉ちゃんの声を聞きながら,私はその後ろ姿をどこかで見たことあるように感じた。やがてその背中が見えなくなった時,溜息がそれを追いかけるように零れ出た。

 一応の進学校ではあるこの高校で美大という選択を下した江莉ちゃんはもちろんだけど,はっきり自分の意見を言えるみんなが羨ましい。今日私の前に面談を受けていた大倉君だって,成績は悪くないはずなのだけれど先生の勧めをのらりくらり躱しているらしい。それどころかこの時期になって,惚れた腫れたで他のクラスの子といざこざを起こしているとか。

 関係のないクラスメイトの多くは勉強の傍ら耳を欹てて,この時期に何をやっているんだと彼を見下しているのかもしれない。でも,私は自分の思いを主張できる大倉君が羨ましい。だって,私には意思を貫き通せる強さがないどころか,そもそも何かをしたいという望みがないから。

 能力を試すために少しでも偏差値の高い大学を目指したいと息巻いてはいないし,経済的負担を考えて地元に留まるという決意を固めた覚えもない。大人は自分のことを考えているだけと嘯いてみても,その反対を押し切ってまで行きたい志望校があるわけでもない。それを自覚する度に,自分の情けなさに視界が霞んでしまいそうになる。

 私には何もない。まるで,自分だけが一人取り残されていくような感覚。籠の中で飼われている小鳥みたいに,私は無力だ。

 カーブを曲がり切ると,眼下に坂道の終りが見えてきた。坂の出口は直角に国道へ接していて,帰宅のこの時間帯にはそこを多くの車が横切って行く。今ちょうど,坂を半分下った頃だろうか。右手に広がる住宅地の家々の,閉じられたカーテンの隙間からは温かい光が零れ出ている。

 もうそろそろ坂を下り終える。それを意識するとさっきから物思いに耽ってばかりで,せっかく久しぶりに顔を合わせたのにあまり話ができていないことに気付いた。甘えていると思われないだろうか。ふと不安を覚えて横顔を盗み見るけれど,江莉ちゃんは目敏くそれを捉えると「うん?」とこちらを見つめて口を割るよう促してくる。

 何でもないよ。そうごまかした後の沈黙を,だけど敢えて破ろうとはせず,江莉ちゃんはそのまま前へ向き直る。私は対等に接してくれることが嬉しい反面,そこにすら付け込もうとする自分を見つけてしまいそうで怖くなる。

「……江莉ちゃんは,自分の選択に迷ったり後悔したりしないの?」

 風が髪をはためかせる。ポニーテールにした髪を気にする様子もなく,彼女は少し考えるように遠くを見つめて「んー」と呻いた。

「ないわけじゃないけど,美大に行きたいってのはわたしのわがままだからねー。受験勉強の合間に公然と絵を描けるって思えば,勉強もしんどくないし」

 小首を傾げてこっちを見ていた江莉ちゃんは,そのまま照れ隠しのように笑う。屈託のない話し方に私は,受験のせいでいつの間にか気持ちが擦り減っていたことをようやく自覚した。自分で決めていないんだから,不満があって当然だったんだ。

「そっか。そうだよね」

「おっ,少しはお姉さんらしいこと言えたかなっ?」

 いたずらっ子のような微笑みに,改めて心が和らぐ。本当に,久しぶりに江莉ちゃんに会えて良かった。口元に隠し切れない笑みが浮かぶのが分かって,それでも怒ったような声を出す。

「子供扱いしないでって言ったじゃん!」

 笑いながら,たちまち坂を駆け下り始めた江莉ちゃんを追いかける。気持ち良く頬を撫でる夜風に紛れて,時折木枯らしが吹き去ってゆく。

 私にも,決めることができるだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る