大倉明
三十代も半ばに近付いたせいか,メイクでは隠し切れないシミが右目の斜め下辺りに浮いている。左頬には薄っすらではあるが法令線がぶら下がる。おそらくアップにした髪を下せば,もう少し細かいしわが現れるはずだ。睡眠不足なのか肌理も荒い。それでも,この年齢にしては若く見られる方だろう。
俺は気付かれないのをいいことに,まざまざと担任の顔を観察していた。場所は職員室。時刻は午後二時十一分。
一週間の日程表を見るとこの時間はホームルームと記載されているけれど,三年のこの時期になると当たり前のように進路に関して面談が実施される。それは別に構わないのだが,面談の度に向けられるこの顰め面だけはどうにかならないものか。先月までの模試の判定を睨む溝上に,つい声をかけたくなる。そんなに見つめても結果は変わりませんよ。
俺は鼻息を逸らすために職員室を見回した。教室の三倍の広さはあろうかと思われるここは今,多くの教員が出払っており閑散としている。授業のない教諭達が次の時間の準備をしながら飲むコーヒーの香りが少しだけ,この場所を好きにさせてくれる。
自分の席に座り,こちらを向いて何か作業をしていた荻野がふと俺の視線に気付いた。面談に集中していないことを看破した荻野に拳骨を振り上げるような誇張したジェスチャーを見せられ,思わず苦笑する。教室の中も,このくらい落ち着いていたら過ごしやすいのに。
「大倉は判定が悪いわけじゃないけど,良くなってもいないわね」
勉強していませんから。
うんざりして溝上へ意識を向け直す。高三の二者面談というのは体だけでなく,心までも固く畏まって座らせておかなければならないものらしい。
「多分このままの成績でも受かると思うけど,後期は志望校変えてない?」
「はい」
前期試験に落ちても俺の実力なら,後期で地元の国立に楽々合格することができるだろう。そのせいか今一つ勉強に身が入らないことは確かだ。いずれにせよ大手企業に拘らなければ四年後の就活でも困るまい。けれど溝上は,中々渋面を崩そうとはしない。
「……誤解しないでほしいんだけど,いつも君は惜しいところにいるんだよ。確か,バスケの大会も結構いいところまでいったよね。勉強にしてもそうで,もう少しで合格圏内に入る位置をずっとうろうろしている。もちろん大倉が努力していることを否定するわけじゃないんだけど。でもこんなにも勉強に集中できる時期は人生の中で今しかないことは分かるよね」
溝上の言うことは至極尤もだ。但し俺は受験が近付くにつれ日に日に目の色を変えて机にしがみ付く周りの連中ほど努力している自覚はない。それに今しかない機会を活用できる人間はそう多くないだろう。
努力とはするものではなく,できるものだ。
本心ではそう思うけれど,態々口に出して主張するつもりもなければ少なからない同意の念を覚えていることもまた確かであるので,素直に頷いておいた。
「はい」
まさかそのおかげというわけではあるまいが,この後の面談は志望校を変えないことを確認しただけで終わった。俺は立ち上がって軽く頭を下げると,碌に溝上の反応を確認することもなく背中を返す。そしてうっかり呼び止められることがないよう,足早に教員の机の合間を縫って出入り口へ向かった。
「おっと。悪いな,柳」
職員室を出たところで危うくクラスメイトにぶつかりそうになる。少し急ぎ過ぎたようだ。次に面談を控えているらしい柳は気弱そうに視線をあちらこちらに走らせながら「ううん,こっちこそ」と消え入りそうな声で言った。それきりいつものように,口を閉ざして俯いてしまう。
一年以上同じ教室で机を並べているはずなのだが,相も変わらず萎縮した態度を見せられこちらとしても辟易せずにはいられない。四十センチ以上ある身長差のせいでもあるのだろうけれど,この物怖じしているクラスメイトは本当に同い年なのだろうか。それとも,最近では物珍しくなくなったとはいえ百九十センチという身長は未だに日本人に威圧感を与える高さなのか。縮こまる肩を見てつい「もう入ってもいいみたいだぞ」と助け船を出してしまう。口に出した後で,クラスメイトの機嫌を取っている奇妙さに気付いた。小学生を相手にしているわけじゃないだろう。
気恥ずかしさを覚え,逃げるようにその場を後にする。職員室前の角を左に折れて視聴覚室脇の廊下を中ほどまで進むと,周りに誰もいないことを確認して溜め込んでいた息を大きく吐き出した。左手の窓の向こうでは,中秋の空に揺蕩う一片の雲が惜しげもなく白い腹を晒している。視線を下に移すとそこには中庭が見え,地面に敷き詰められた赤い煉瓦が降り注ぐ光をくすませている。
いつからだろう。学校を窮屈に感じるようになったのは。
そもそも俺は,そんなに熱心に受験勉強に取り組んでいない。だから教師にいくら口酸っぱく言われても,模試の結果が休み時間の話題の半分を占めるようになっても息苦しさを覚えることはないはずだ。それなのに,ずっと前から薄々感じていた居心地の悪さのようなものがいつの間にか致命的な束縛感に変わっていたのは,多分クラスの雰囲気のせいだ。
どうしてみんな,そんなに頑張っているのだろう。ほんの一年前までは課題も写し合っていたくせに,分からない問題は教えてもらってでも解こうとしている今の状況が滑稽に思えないのか。ばかばかしい。今更勉強したところで高が知れているだろう。教員が本当に期待しているのは一握りの連中だけで,そいつらは入学した時から努力し続けている。進学底辺校のこの学校で,難関と言われる大学に入れるのはそういうやつらだけ。俺のような凡人は身の程を弁えて適当に勉強して,就職に困らなさそうなところへ行けばいい。いっそ諦めてしまえば楽になれる。まあ,どれだけ頑張ろうが重圧に押し潰されようが挫折しようが,俺には関係ないことだけど。
目線を前へ戻すと,音が鳴るくらい強く一歩を踏み出した。
***
けれど,籠の中で犇めくクラスメイトは,緩やかに俺の首を絞めてきた。明日までに提出する必要のある生物の課題に残りの授業時間を費やそうかと考えながら教室に戻ると,俺の姿を確認したやつらが三人,ここぞとばかりに詰め寄ってきたのだ。
「大倉,あんた美里振ったんだって?」
俺はそれに答えるよりも先に,受験生の自習時間とはいえ雑談を交わしている生徒も見られる程度の教室内の静けさを確認して,小さく舌打ちする。やはりいくら告白されたからといって,その友達が同じクラスにいる女子と付き合うべきじゃなかった。答えない限り座ることすら許しそうにない上,投げ遣りに対応するとどんな悪評を流されるか分かったものではない雰囲気を手早く読み取り,諂笑いを浮かべた。
「伝わるの早いな」
まるで自分が傷つけられたかのように,そいつらの表情は変わった。気に障ったように眉は顰められるものの,一応は周りに気を遣っている声の調子に手応えを掴む。
「マジで振ったんだ。っていうか何で?」
「自習している人の邪魔しちゃ悪いし,取り敢えず座ろうか」
詰問に全く動じなかったからだろう。彼女達は戸惑いながらも腰を据えて問い質した方が得策だと考えたのか,素直に応じた。空いている席に向かう途中,彼女達の問いかけを反芻する。
何で,俺は美里と付き合っていたんだ?
別にこれからの展開を嘆いているわけでもなければ,まして元カノに魅力がなかったと思っているわけでもない。単純に不思議だった。それは美里以前の相手にも感じていた,慣れ親しんだ感覚でもある。俺はどうして,好きでもない相手と付き合ってしまうのだろう。
窓際の,教壇前の一帯の席が空いているのでそこに座る。座る拍子に,教室中央付近の席で眠そうな顔をしている土屋を盗み見た。
かつて土屋に告白した男子の中に,俺がひっくり返っても敵わないような友達がいた。親友と呼ぶのは照れくさいけれど間違いなく中学の時一番仲の良かった友達で,彼は俺をバスケ部に誘ってくれた。あいつは入部当初から期待されていて一年目にはもう試合に出ていたし,二年の時には部のエースになっていた。その上成績は常に学年上位。三年の時初めて試合に出て,定期テストの点数ではクラスで十五番目が定位置だった俺とは本来比較するのも烏滸がましいくらいの,いわゆるデキるやつ。しかも人を貶す話題を何より嫌う性格というオプション付き。
そういうやつだと知っていたから土屋への好意を打ち明けられた時,当時まだ告白していなかった俺は悔しいながらもお似合いだと思ってしまった。土屋の隣にいる男子の姿を思い浮かべみても,納まりがいいのは俺ではなくそいつの顔だった。
それでも,土屋は容赦なくそいつを振った。
だから自分が振られても「まあそうだよな」と苦笑しただけだ。初めから立っている場所が違うのだ。告白を受けてくれただけでも喜ばなければいけない。
ただ,それでもう彼女との関係性が全くなくなってしまうのは惜しいと感じた。同じ高校に入ったのは時折彼女の片鱗に,たまらなく触れたくなることがあるからだ。もう三年だけ遠くから眺めていよう。そう思った。
けれど,バスケの試合で全国区のプレイヤーに抜き去られた時に,二時間かけて解けなかった数学の問題をクラス一の秀才があっさり板書してみせた時に,土屋に告白した男子生徒が振られたという噂を耳にする時に,耐え切れなくなっていつも息を呑む。自分が抱いていた甚だしい勘違いに,羞恥を覚えてしまう。
遠くから眺める,だって? 一度も近づけなかったくせに。精々そう自嘲して気を紛らわせるのがやっとだ。
「それじゃあ,振った理由を聞かせてよ」
取り囲むように周りの席に着く三人に,ようやく申し訳なさを覚える。友達を慮るための資本すら,俺には提供できないのだ。そもそも理由なく付き合ったから,振ったことにも理由なんてない。そう言われても,彼女達は理解できないし納得もしないだろう。
……寧ろ,その方が大半か。
午前中に読んだばかりの評論文を思い出して,考えを改める。あの書き方ではまるで羽ばたき方を忘れたため,鳥は空を飛べなくなったかのような印象を受ける。けれど俺は,飛べないことを知ってしまったせいで羽ばたけなくなったのだと思う。でもあの文を書いた評論家を含めて,そう思える人は少ないのだろう。
どうやって切り抜けたものかな。俺は頭の中でそんな軽口を叩いてごまかして,静かに一塊の空気を吸い込んだ。睨み付けるような目付きがこちらを向いている。ひそひそと交わされる雑談が妙に耳障りだ。
別に,羨んでいるつもりはない。
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