土屋胡桃                       

「そういえば聞いた? 美里振られたんだって!」

 昼休みも半分過ぎてクラスメイトの姿が疎らになったのをいいことに,周りを気にすることなく明音は無遠慮な声で言った。美里を心配している振りをしたいらしいけれど,野次馬根性が強過ぎてその思惑は明らかに失敗している。それでも受験一色でストレスの溜まった精神にこのゴシップは刺激的だったようで,その失敗に構うことなくみんなはすかさず明音の話に食付いた。

「えぇ,マジで?」

「いつ? っていうか大倉どこ行った」

 途端に色めく下世話な声に思わず吐いた溜息は,口許を離れるとそのまま重力に従いまっすぐ落ちていく。別のクラスの友だちと付き合っていたクラスの男子が,その友だちを振っただけ。それなのに,どうしてそんなに楽しそうな顔をするのだろう。わたしは冷ややかに,大倉を探して教室を見回す友人たちを眺めた。

 明音によると,美里が振られたのは一昨日らしい。放課後いつものように学校近くのバス停で大倉と一緒にバスを待っていると,突然別れを切り出されたとか。驚いて何も言えなかった美里をよそに,あいつは何も言わず自分の家の方面へ向かうバスにさっさと乗り込んでしまったという。慌ててスマホで理由を問い質すも当然返信はなし。学校でもどうやら美里のことを避けている模様。

 たったこれだけのことを説明するために,残り少ない昼休みの優に十分近くを費やすばかばかしさ。けれど,多分この話題を振った明音はもちろん,まるでドラマの感想のように好き勝手言っている他の子たちも,罪悪感を抱いているわけでもなければ拍子抜けているわけでもない。分かってる。これが普通。

 高校生ともなれば男女関係なく恋をしたい。受験勉強なんて放り出してつまらない日常を忘れられるような,夢中になれる恋をしたい。今好きな人がいなくても,人の話だろうと恋愛は楽しい。恋愛に興味があるのはお腹が空くのと同じくらい自然なことで,実際みんながそう思っている。だから今週末公開予定の映画はきっと恋愛モノだろうし,来月には実体験を基にした歌詞が共感を呼んで,昔流行った曲がSNSのダンス動画に使われているに違いない。

 うんざりして外した目線の先に,白木が見えた。学年一の秀才らしく,昼休みだというのに黙々と一番後ろの席で問題集をこなしている。近くで幼稚園児のように男子が三人騒いでいるけれど,まるでその声が聞こえていないかのように自分の世界に閉じ籠もっている。

 正直,眉間に縦皺を寄せるその表情は取っ付きにくいし,苦手に感じている子も多い。けれど,わたしは少しだけその姿が羨ましかった。何の柵も思い煩いもなく,一つのことに没頭できたらどんなに楽だろう。そうなりたいわけじゃないし代わりたいとは決して思わない。それでも,何にも縛られることのない彼はきっと鳥のように空を飛べる。それで言うなら,わたしは長く鳥籠の中に居続けて飛び方を忘れてしまったメジロだ。

 今朝国語の授業でやった評論文を思い出して,そんな風に思う。すっかり意識は明後日の方を向いていたけれど,明音の隙を伺う声は耳聡く聞きつけることができた。

「やっぱりさぁ,大倉って胡桃のことが好きなんじゃない?」

 見ると,口調こそ与太話を楽しんでいるようだけれど,こちらの反応を見極めようとする強かな目がそこにあった。明音がわたしにどうしてほしいのか,何を望んでいるのか分かっているのだけれど,今はどうしてもそうする気にはなれない。だから,装うのはいつものポーズ。

「またその話? 前も言ったけどありえないって」

「えー,絶対そうだよー。中学の時大倉が志望校をここに変えたのは,胡桃を追いかけたからだって」

 確かに中学生の時,わたしは大倉に告白された。それに高校受験の出願締め切りぎりぎりにあいつが志望校のレベルを一つ下げたせいで,結果わたしたちは同じ学校に通うことになった。

 けれど告白された時我ながら酷い振り方をしたし(確か,異性としての魅力を感じないとか言った気がする),それ以降クラスが同じになったとしても殆ど口を利いてこなかった。それなのに大倉がまだわたしに気があると思うほど自惚れてはいないつもりだ。だけど,そうであってほしい明音は食い下がる。

「そうだとすれば切なくない? 大倉って結構モテるし付き合った人数多いけど長続きしてないじゃん。それって三年間ずっと胡桃のこと忘れられなかった,ってことでしょ」

「っていうか,美里カワイソーだよね。何も悪いことしていないのにいきなり振られたんだから」

 まるでわたしが全て悪いような口振りだ。でもそれを指摘すると「そんなつもりで言ったわけじゃないのに,どうしてそんなこと言うの」と反感を買うだけだから余計なことは言うまい。代わりに,明音は気付いていないかもしれないと思った。

「でもマジ胡桃ってモテるよね。橘君も胡桃が好きだってウワサ聞いたよ」

 援護されて調子付いた明音の横っ面を,その援護した本人が的確に打ち抜いた。残念ながら,それはわたしにとっても歓迎できない話だったけれど。

「橘君もカッコいいけど彼女いないじゃん。それって胡桃が好きだから,って七組の子から聞いたよ」

「ウワサでしょ。第一……それが本当かどうか分からないし」

「えーっ,ゼッタイそうだよぉ。橘君中学まで野球やっていたのに高校からハンドボールに転向したじゃん,胡桃がマネージャーしてたからじゃない? 二年の時八組に上がれたのも,胡桃と同じクラスになるため勉強したからだって話もあるもん」

 せっかく刺激しないよう言葉を選んだというのに,にやにやとした笑みがその努力を否定する。互いに近付こうとする両眉を抑えながらちらりと目の端で盗み見ると,明音は特に何の感情も読み取れない顔をして,くるくると髪を絡ませた右の人差し指に目を向けている。やっぱり苛立っているようだ。

「んー,でも橘君と話している時そんな感じしなかったよ。それに,もしそうならもう告白されていてもおかしくなくない?」

 これはちょっとした賭けだったけれど,何とか明音の溜飲を下げることには成功したようだ。ちょうど良いタイミングで予鈴が鳴り響き,昼休みが残り五分しかないことを告げる。「そういえば昨日の課題できた?」と次の数学で板書を任されている子のために,みんなで慌てて回答らしきものをでっちあげる。チャイムに急かされながらチョークを握る後ろ姿を確認してから,自分の席に着いた。センセイは教室に入って来るなり板書がまだ終わっていないのを見て,彼女をからかう。

「おいおい,今日の課題はそんなに難しくないはずだぞ。明日の板書も任せた方が伊東の勉強にはなるか?」

「勘弁してくださいっ」

 昼休みが終わったばかりで落ち着かない教室では,その大して面白くないやり取りにもいちいち笑いが起きる。それが嘲りのように聞こえ,ちりちりと神経の毛先が焦げた。

   ***

 ウソだ,全部ウソだ。

 緊張を隠そうとしてぎゅっと噛み締められた唇に,ふっと気が遠退くような錯覚に襲われる。

「入学式の日に初めて見かけた時から,ずっと土屋のことが好きだった。俺と付き合って欲しい」

 橘は改めて言葉を重ねた。けれどわたしの耳は告白よりも先に,震える声の方を捉える。左のほっぺたのぎこちないぴくりとした動きや固く閉じられた拳が,これまでに告白してきた男子生徒たちの顔を思い出せる。

 あーあ,こいつもか。

 嫌な予感が当たってしまったという落胆や,これから明音にどう向き合えばいいのかという煩わしさに全く苛まれていない自分に気付いて,思わず鼻で笑う。これじゃあ,わたしがただわがままなだけみたい。

 何も言えず,ただ居残って仕上げた学級日誌を抱える左腕に力を込める。何で昼休み話題にした当人から,その放課後告白されてしまうのだろう。誰かの策略じゃないのか。ばかな考えと共に,にやにやとした笑みが頭を過る。

 こんなことになるなら日直の仕事終わらせて早く帰っていればよかった。いや寧ろ,教室に誰も残らなかっただけ運がいいと思うしかないのか。沈黙をどう捉えたか知らないけれど橘は畳みかけた。

「気付いているかもしれないけどさ,ハンド部に入ったり二年の時八組に入れるように猛勉強したり,それ全部,土屋と話すきっかけがほしかったからなんだ」

 分かってる。マネージャーの仕事を手伝ってくれたり仲のいい友だちみんなで遊びに行ったり,仲良くなろうと努力してくれたことは全部分かっているから。

 だから,そんな気遣うような目でわたしの機嫌を伺うな。

 視線が外れてもう一度こっちを向いた瞬間,すーっと全身を巡る血液が冷めていくような気がした。それは水の中を進む冷たい鉄球に似ていて,速さに似つかわしくない大きな抵抗がかかっていた。まだ何かを言おうとしていた橘に,せめてこれ以上無様を晒させないよう口を開く。

「……わたしね,あんまり彼氏がほしいとか恋したいとか思ったことなくて,橘君のこともそういう対象として見てなかった。だから,ごめん。付き合えない」

 こう断ると,試しに付き合ってから判断してほしいとたまに食い下がる連中もこれまで告白してきた中にはいたのだけれど,橘はしばらく黙った後「そっか」と寂しそうに笑った。

 使い回しのフレーズじゃなくて,もう少し気の利いたことを言えばよかった。

 その口許を見てちくりと思う。申し訳なさから,わたしは橘を一人残して教室を出た。

 教室を出てすぐ,視界の右端で何かがちらついた気がした。ちょうど隣のクラスに差しかかった辺りだ。教室の中を覗くと,黒板脇の野暮ったいパソコンラックの上に,ダリアの花が活けられていた。室内には誰もおらず,窓も締め切られているため風に戦ぐはずがない。それなのに,どうしてこの花に注意が向いたのだろう。

 誰かの階段を駆け下りていく足音が響いている。

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